第十二章 1月21日

「創也の描くイラストっていいよね」岡本健司は笠木に言った。


 リビングのテーブルの上でノートパソコンを開きその手前でタブレットを使いイラストを描いている笠木を、岡本は後ろの二人掛けのソファーに座って見ていた。岡本はソファーから身を乗り出して笠木のノートパソコンの画面を見ていた。


 笠木は狭いワンルームの中で自分の机が置けないので、イラストの仕事をする時は毎回このテーブルを利用していた。岡本は数か月前から笠木と同居している。


「そうかな?」笠木はイラストを描きながら聞いてきた。


「うん。優しい創也の性格が出てる気がする。でもやっぱりテーブルでは描き辛くない?机買おうよ。このマンションも狭いし、近々引っ越さない?二人で暮らせるところに」岡本は聞いた。


「引っ越しかぁ。僕も家賃折半出来るように掛け持ちの仕事、探さないと」笠木はイラストを描きながら言った。


「家賃はそんなに気にしなくていいよ。俺の収入で十分だし。創也は色々あって疲れてるでしょ?もう少し休んでもいいんじゃない。イラストの仕事だけしてて大丈夫だよ」岡本はソファーの木製の肘掛けに肘を置いて背もたれに背を付けてリラックスしながら言った。


 笠木がこちらを振り向いて岡本を見てきた。


「どうしたの?」岡本は聞いた。


「いや。岡本さんは良い人だなと思って」笠木は言った。


「別に良い人じゃないよ。創也が好きなだけだよ」岡本は言った。笠木が苦笑いしたので岡本は不安になった。


「少し前まで僕が元カレに未練あるって知ってたのに?」笠木は言った。「僕が住む家がないって言ったら同居しようって言ってくれるとか、付き合ってもなかったのに…」


「でも今は付き合ってるし問題はないんじゃない?まだ元カレの事引き摺ってるの?」岡本は笠木に不安に思っている事を聞いた。


 笠木は一瞬手を止めて黙った。手に持ったタブレット用のペンをまた動かし始めると、話し出した。


「未練っていうか消化不良。人間不信だよ。掲示板に悪口書かれたりSNSの裏アカウント作られて落ち込んで慰めて貰ったと思ったら、その慰めてくれた人間が犯人だったなんて。その前の彼氏はバイセクシャルで撲と女性を二股してたし」笠木は無心でペンで色を塗りながら答えた。


 岡本は思考した。笠木とはすすきののゲイバーで知り合った。最初はただの友人関係で、交際相手の愚痴を聞いていただけだった。笠木の前の恋人は事件の加害者遺族で、一緒に同居していたマンションに始終嫌がらせをされて辟易していたと聞いた。その後笠木はその恋人と別れ、恋人と同居していたマンションから出ると笠木が言った際に、岡本は自宅に来ないかと誘ったのだった。岡本はずっと前から笠木の事が気になっていた。


 岡本は笠木の後ろから笠木の頭を触った。笠木は驚いたのか肩を跳ねると、振り向いて来た。


「どうしたの?」笠木は聞いてきた。


「ああごめん、髪にごみが付いてたように見えたから」岡本は窓からの光に反射して一部茶色く見えた笠木の黒髪を見た。笠木は色素が薄く黒髪でも日の光によって茶色く見える事がある。


「創也さ、最近何かあった?」岡本はずっと疑問に思っていた事を聞いた。


「何かって?」笠木は岡本を見て聞いてきた。


「何だか余所余所しく感じるから。何かあったのかなって」


「何もないよ」笠木は苦笑いして岡本から視線を外して言った。


 岡本は笠木の一つ一つの動作が気になって仕方がなかった。少し前から笠木は何か考え事をしているような表情が増えた。笠木は自分に何か隠し事をしているのではないか。


 岡本は笠木の天然パーマの頭を撫でたくなり、手を伸ばしたが途中で止め伸ばした手を引いた。


「そろそろ仕事に行かなきゃ。そういえば今日の遅番勤務、新人が来るから帰り少し遅くなるかもしれない。創也先に寝てていいからね」岡本は肩をまわして軽くストレッチをしながら言った。


「新人?」笠木はこちらを見て聞いてきた。


「うん。俺より年上の人らしいんだ。年上に教えるのって気を遣うから乗り気しないんだけどね。俺初対面の人間苦手だから今日は気疲れしそう。しかも北大卒でエリートらしいんだよ。なんでうちの小さなパソコン教室に入社したのか分からない」岡本はソファーから立ち上がると、前日に準備していた出勤用鞄をチェックしにクローゼットの前に置いた鞄の元へ行った。


「北大」笠木は呟いた。岡本は鞄の中身をチェックしながら笠木をふと見た。


「何かあった?」岡本は聞いた。


「なんでもないよ」笠木は笑って岡本に言った。岡本にはそれが作り笑顔のように見えた。岡本は不安になり笠木の元へ戻ると、座っている笠木を後ろから抱き締めた。


「岡本さん?」笠木は聞いてきた。


「創也、やっぱり今日起きれたら起きてて。話したい事がある」岡本は笠木に言った。


「話したい事って何?」笠木は聞いてきた。岡本は今笠木と話をしたかったが、笠木から手を離すと左腕に付けていた腕時計を見た。


「ごめん、そろそろ本当に行かなきゃ。帰って来たら話すよ」岡本は笠木に笑顔を作って言った。






「おはようございます」


 岡本は勤務しているパソコン教室の入り口の扉を開け、右横に見える受付に座っていた女性事務員と女性講師の二人に挨拶をした。すると女性達は先程まで何か楽しい会話でもしていたのか、慌ててこちらを見るといつもより大袈裟な笑顔で「おはようございます」と挨拶をしてきた。


 岡本は女性達の横を通り受付内に入り、受付奥にある白い扉を開いて休憩室兼ロッカールームの中に入った。中は所狭しにロッカーが十個ほど壁に並んでおり、その横に長テーブルと椅子が二脚置いてあり休憩スペースになっている。岡本は休憩時間には空き教室で食事をするのでこのテーブルは使った事がなかったが、女性達はよく利用していた。


 岡本が自分のロッカーを開けると、受付の方から女性達の楽しそうな話し声が聞こえてきた。岡本は床に置いた鞄の中から教科書を二冊と筆記用具の入った小さな筆箱、ストラップに繋がった社員証を取り出し、ロッカーの扉に取り付けてある小さな鏡で自分の着ていたワイシャツがよれていないか軽くチェックし、社員証の入ったネームプレートのストラップを首に掛け、鞄をロッカーの中に入れるとロッカーの鍵を閉めた。


 岡本は長テーブルの目の前の壁に貼られたシフト表を見た。新人は昨日の岡本の休日から勤務に入っていたようで、岡本とは今日初顔合わせだった。


 岡本が休憩室兼ロッカールームの扉を開け受付内に出ると、受付内の女性二人の他に、受付の外に知らない男性と、このパソコン教室のオーナーであり女性講師の篠原和子が立っていて、四人で楽しそうに会話をしていた。


「おはようございます」岡本は先程見なかった二人にも挨拶をした。


 男性と篠原は岡本の方を振り向いて挨拶を返してきた。「おはようございます」


「岡本さん、この方昨日から入社したの。週三で夜間専門の講師の勤務だけど、シフトが被る事が多いと思うから色々教えてあげてね」篠原は男性の方を手で差し示して言ってきた。


 岡本は男性を見た。女性達が嬉しそうにしている様子の理由が分かった。新人男性は身長が高く中性的で綺麗な顔をしていて、モデルのようだった。今はその綺麗な顔で優しそうに微笑みを作り岡本の方を見ている。岡本より年上と聞いていたが、フェイスラインがすっきりしていて若く見える。


「はじめまして。昨日から入社しました高倉有隆と申します。よろしくお願いします」その高倉という男性は好感度の高い笑顔で岡本に挨拶をしてきた。

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