第九章 8月24日
岸本聡一が職場から自宅に帰宅をすると、玄関にまず先にふくよかな中年女性が現れたのを見た。家政婦の伊織だ。いつも通り鞄を持とうとしてきた。岸本は無言で伊織に鞄を持たせると、着ていたスーツのネクタイを緩めながらリビングへと向かった。
リビングに入ると丁度リビングのソファーに座っていた父親にマグカップを運んでいた母親と視線が合った。
「聡一さん、おかえりなさい」母親の岸本香苗は明るい声を出した。
母親は専業主婦だが化粧をしていた。いつも何処にも出掛けなくても化粧をしているが。母親は小柄な美人でまだ若々しい容姿をしている。この若さを保っているのは美容医療のお陰だという事を岸本は知っていた。
「聡一、座れ」岸本は珍しくこの時間帯に自宅に居る父親の岸本有馬に声を掛けられた。父親は新聞を読みながらこちらを振り向きもしない。
父親の命令には昔から逆らえなかった。父親は外では柔和だが家の中では高圧的だ。心理的に人を操るサディストだという事を岸本は知っていた。岸本は嫌々ながらリビングの大きなソファーに近付き、父親とは少し離れた場所に座った。
父親は自分とはあまり似ていない切れ長の冷たい目をして、新聞を読んでいる。岸本は顔が母親似だった。父親と似ているところがあまりない。あえて言うなら身長や体格が近い事くらいだろうか。
「聡一さんも珈琲飲む?」母親が聞いてきた。
「珈琲じゃなくてアイスティーを飲む」岸本がそう言うと、近くに居た母親がキッチンへと向かった。
「聡一、お前もいつまでも遊んでないでいい加減有馬の秘書になる準備をしたらどうだ」父親の向かい側のソファーに座っていた祖父の岸本肇が珈琲を飲みながら声を掛けてきた。
「聡一。お前は今の仕事はただの腰掛だといっても、ある程度の役職に就いてから辞めて貰わないと困る。ただの家族推薦での秘書に俺はするつもりはない。ちゃんと実績のある人間を採用したいからな」父親がまだ新聞を読みながら、こちらを見もせずに言った。
「朱音ちゃんとはどうだ。お前、朱音ちゃんの機嫌を損ねるなよ。議員になる近道でもあるんだからな」祖父が言った。
「ちゃんとしてます。仕事も許嫁の件も、順調です」岸本はこれ以上リビングに居たくなく、早く二階の自分の部屋に行きたくなりながら言った。
その時スーツの胸ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。岸本はスマートフォンを取り出して画面を見た。許嫁の沢田朱音から着信が入っていた。いつもは自分から一方的に連絡を入れていたのに、沢田から連絡が入るとは珍しいので岸本は驚いた。
「朱音からです。ちょっと失礼します」岸本はこれ幸いと思いスマートフォンを片手に持ち、ソファーから立った。
「お夕飯もう少ししたら出来るわよ」母親が声を掛けてきた。
岸本は母親の声を無視して廊下へ出て、二階の自室に向かいながら電話に出た。「はい」
「あの、岸本君。こんばんは。今お時間大丈夫でした?」沢田は小さな控えめな声で聞いてきた。
「大丈夫だけど。何か用?」岸本は聞いた。
「あの、大事な話があって。もし良ければ会いたかったんですけど。今晩とか空いてますか」沢田は聞いてきた。
岸本は沢田から呼び出される事が気に食わなかった。沢田から呼び出される事は初めてだったが。だがこの家に久しぶりに父親が居る中、父親を避けて外出をする良い機会だった。
「いいけど。じゃあ車で迎えに行くよ」岸本は言った。
「私、好きな人が出来たんです」沢田は岸本の車の助手席に座ってこちらを見ながら言った。
今岸本は車で適当に夜景を見に来ていた。穴場スポットに車を停めて見てもつまらない夜景を沢田に見せていたら、沢田に突然告白をされ岸本は驚いた。
「は?どういう事」岸本は苛立ちを抑えて聞いた。
沢田は一瞬俯きながらため息を吐くと、息を吸い込みこちらを見てきた。
「元々私達は親の都合で許嫁になっただけですよね。岸本君も私の事別に好きじゃないですよね。それに岸本君の激情型な性格に、私はもう付いていけません。私は他に好きな人が出来たので、申し訳ないんですけど別れて欲しいです」沢田は真っ直ぐこちらを見て言った。
岸本は先程祖父に言われた言葉を思い出した。「朱音ちゃんの機嫌を損ねるなよ」
「おい、冗談だろ。俺も色々悪かったなって反省してるよ。だけど急に別れ話する事ないだろ。俺も改善出来るところは改善するから、別れるなんて言うなよ」岸本は好きでもない沢田に縋りつく自分が嫌になりながらも言った。
「ごめんなさい。無理です」沢田は譲らなかった。
岸本は苛立ちを感じた。
「好きな相手って、誰だよ。俺の知ってる奴?」岸本は聞いた。
沢田は沈黙したので、岸本は苛立ちから助手席に座っている沢田の方に身を被せると、沢田を助手席の窓に押し付ける形で助手席の扉に手を付いた。
「言えよ。好きな奴って誰だよ」岸本は聞いた。
「高倉さん」沢田は小声で言った。
岸本は自分の頭に血が登るのを感じた。高倉。岸本は仕事で知り合った高倉と仲良くなりパーティに高倉を招待をしたり、高倉に沢田を紹介した事を後悔した。
「お願いだから別れて欲しいです。もう、耐えられません」沢田は俯いて小声で言った。
「ふざけるな」岸本はつい沢田の頬を叩いていた。
岸本はいつも通り沢田が謝って来るのかと思った。だが沢田は震える手で持っていた鞄の中から何かペンのような物を取り出すと、涙目になりながら目の前に翳してきた。
「私岸本君の事訴えます。今のやり取り録音してます。この前殴られた事も録音してデータを家に保管してます。ずっと我慢してましたけど、もう無理です。岸本君は政治家には向いてないと思いますよ。私はもう耐えられません」沢田はそう言うと、岸本の腕を退けて車から出ようとした。
岸本は咄嗟に沢田の腕を掴み抑えていた。
「止めてください、離してください」沢田は恐怖の表情をして言った。
「ふざけんな。待てよ」岸本が次の言葉を言う前に、沢田が叫んだ。
「高倉さん、助けてください」
「はぁ?今高倉を呼んだところで何もならないだろ」岸本は言った。
「岸本君はもう終わりです。もう私も限界です。離してください。タクシーで帰ります」沢田は息を荒くして言った。
「自宅にあるデータ消せよ。そのペンがボイスレコーダーか?貸せよ」岸本は沢田の持っていたペンと鞄を奪おうとした。
「止めて、触らないで」沢田が腕を振るって岸本を遠ざけようとしたので、岸本は苛立ちが酷くなった。
岸本は気が付いたら沢田の首元に両手を当てていた。
「止めて」沢田が叫ぼうとしたので、岸本はつい手の力が強まった。
「助けて、高倉さん…」沢田が首を絞められながらか細い声を出したので、岸本は頭に血が登り沢田の首を絞める力がさらに強まった。
もう自分は終わりだ。岸本は普段から父親や母親、祖父に言われていた言葉を思い出した。
「お前は俺の言う通りに生きていれば問題ない」
「お願いだからお父さんの言う事を聞いて」
「お前の許嫁が決まった。今の恋人とは別れなさい。許嫁の名前は沢田朱音さんと言って、北海道知事の娘で…」
岸本は気が付いたら沢田が口から泡を吹き、助手席で目を見開いたまま動かなくなっている事に気が付いた。
岸本は慌てて両手を沢田の首から離した。どうすればいい。
「朱音さん?」ふいに、何処かから声が聞こえた。
岸本は焦り、周囲を見渡した。だがこの暗い裏夜景スポットに車を停めているのは自分だけで、外には誰も居なかった。
「朱音さん?聞こえますか」また声が聞こえた。岸本には高倉の声だと分かった。
急いで声の元を探った。沢田の持っていた鞄の中から声が聞こえたので、鞄の中を探ると沢田のスマートフォンが通話状態になっていた事に気が付いた。岸本は焦った。
「岸本さん、居ますか?岸本さん」スマートフォンから高倉の声が聞こえた。
岸本は通話を切ろうか迷ったが、もう何もかもが終わりだと言う事に気が付いた。今の犯行を高倉は始終聞いていた事になる。岸本は身体に力が入らずしばし呆然と沢田の死体を見ていたが、沢田のスマートフォンを手に取った。
「お前のせいで俺の人生はもう終わりだ」岸本はスマートフォン越しに高倉に呟いた。
「岸本さん?何があったんですか」高倉は冷静に聞いてきた。
高倉の冷静な声に苛立ちが戻ってきた岸本は、高倉に怒鳴りつけていた。「お前のせいだ。お前さえ居なければ」
「岸本さん、落ち着いてください。朱音さんに何かしたんですか」高倉はまだ冷静な声で聞いてきた。
「朱音は死んだよ。これから警察に自首する」岸本は小さな声で呟いた。
「死んだ?」高倉は一瞬沈黙した後に聞いてきた。
岸本は通話を切ろうとしたが、高倉からの声に手が止まった。
「岸本さんが捕まるわけにはいかない。俺が証拠隠滅を手伝いますよ」
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