第八章 3月20日

「こんばんは」


 森啓介はパソコン教室のガラス張りのドアを開け中に入り、受付内に居る若い女性と、このパソコン教室のオーナーである年配の女性に声を掛けた。この時間帯受付前には他に誰も居ない事を確認すると、着ていたスーツの胸ポケットから警察の身分証を取り出して受付の二人に見せ、小声で自己紹介をした。


「昼間連絡をしました、道警の者です」


 森は背後に視線をやった。森の後ろに居た巡査部長の野村も森に従い、自分の身分証を受付の二人に向けて見せていた。


 野村は少し前まで同じ警部補だったのだが、情報を部外者に流失させた件で巡査部長に降格されていた。森は情報を聞き出した自分が何故降格ではないのかと疑問に思い、野村に申し訳ないと思っていた。


 オーナーの女性と森も野村もマスクを着用している。流行りの感染症対策の為だ。受付の若い女性はマスクを着用していなかった。マスクは現在価格が高騰しており品薄状態が続いていたので、手に入らなかったのだろうかと思った。


 このパソコン教室は古いビルの建物の中に入っている。ビルの廊下は寒かったが、パソコン教室の中は暖かかった。


「昼間お伝えした通り、岡本さんの普段使用していたパソコンを再度拝見させていただきたいのですが」森はオーナーの女性に向けて言った。


 このパソコン教室で講師をしていた岡本健司という男は、数日前に生徒の女性にレイプ未遂で訴えられ、現在留置所に勾留されていた。だが岡本は事件当日このパソコン教室で残業をしていたと訴えてきた。


 以前確認をした際このパソコン教室の入っている古いビルには監視カメラはなく、パソコン教室にも退勤カードを押すというシステムがなかった事から、残業をしていたという確認が出来なかった。今回は岡本の訴えで、岡本が事件当日作成していたという資料の最終更新時間を再度確認しに来たのだ。


「わかりました。こちらです」オーナーの女性が手で受付内に案内をしてくれた。


 森と野村は受付内の奥に広がっている小さな事務スペースに案内された。そこにはデスクが向かい合うように四台置いてあり、デスクの上にはノートパソコンが何台か置いてある。デスクの上はノートパソコンの間を埋めるように書類や教科書が乱雑に置いてある。


「これが岡本さんの普段よく使用していたパソコンです。端に避けていてすみません。このパソコンですが他の者も共有で使用していたので、以前にもお伝えしましたが、うちは個人専用のパソコンはないんです」オーナーの女性は言った。


「ありがとうございます。再度確認させていただきます」森はそう言うとスーツのポケットに入れていたゴム手袋を嵌め、デスクの前のチェアに座り岡本の普段使用していたノートパソコンを開いて電源を押した。オーナーの女性は受付に戻って行った。


「森さん」森がノートパソコンを確認していると、後ろに立っていた野村に声を掛けられた。


「何?」森は、事前に打ち合わせをしていた通りに自分が岡本のノートパソコンを確認している間に、岡本の普段の勤務態度を確認しに行かない野村に苛立ちを覚えたが感情を抑えて聞いた。


「あの男高倉では?」野村は受付の方を指差した。


 森は“高倉”という言葉に反応し、咄嗟に野村の指の先に視線を移した。


 パソコン教室は授業の終わるタイミングらしく、生徒が数人パソコン教室内の奥の廊下から歩いて出て来たのが見えた。生徒たちは受付で手続きをしていた。次回の予約だろうか。マスクを着用している生徒としていない生徒がいる。


 その奥から、背の高い男が片手にノートパソコンと教科書を持ち、丁度受付内に入ってきた。その男は眼鏡をしマスクを顎に掛けていた。その執行猶予期間中の男が誰だが森にはすぐに分かった。


 森は高倉を見て動悸が止まらなかった。何故高倉がここに居る。


 高倉はこちらの事務スペースに向かって歩いて来ようとした。途中で森と野村が居る事に気付いたのか、一瞬表情が固まると事務スペースの手前で足を止めた。


 森は高倉と視線が合った事で気分が悪くなったが、すぐにノートパソコンから手を離して高倉の方にチェアごと体を向けた。


「ここで働いているのか」森は平静を装って高倉に声を掛けた。


 高倉は後ろに居る受付の女性とオーナーの方を一度振り向いて見た。二人ともこちらを見ていたが、高倉が振り向くと視線を外した。


「ええ、お久しぶりですね」高倉は森と野村を見て気まずそうに挨拶をしてきた。声は強張っているが表情は穏やかさを保とうとしたのか、作り笑顔をこちらに向けてきた。


「在宅の仕事は辞めたのか?」森は高倉に聞いた。


「いえ、このパソコン教室は掛け持ちでして」高倉はそう言うと、岡本のノートパソコンの置かれているデスクの目の前の空いていたデスクの上に、持っていたノートパソコンと教科書を置いた。デスクのチェアに座ると、マスクで口元を隠した。


 森は一瞬考え込んだ。女性レイプ未遂事件の犯人の岡本と交際している男、笠木の以前の恋人はこの高倉だった。岡本も高倉も同性愛者という事は事情聴取で聞いて知っていた。こんな偶然はあり得るだろうか。


「野村さん、このノートパソコンの確認、続きお願いしてもいいかな」森は野村に聞いた。


「え、はい。分かりました」野村は森に急に声を掛けられ驚いたような声を出した。


「高倉、ちょっと今話せるか」森は高倉と二人きりで会話はしたくなかったが、勇気を出して高倉に聞いた。高倉は驚いた目をしたが、自分の腕に嵌めていた腕時計を見た。


「次の授業があるので、十分程しかお時間割けませんが大丈夫ですか」高倉は森を見て言った。


「ああ、大丈夫だ。外の廊下で少し、話したい」森がそう言い席を立つと、高倉も席を立った。森が先に立ってパソコン教室のドアを開けてビルの廊下に出て振り向くと、高倉も後を付いて来た。


 森はパソコン教室から離れた廊下の端まで歩いて、振り向いて後ろをついてきた高倉を見た。


「何故ここで働いている?」森は一番疑問に思っていた事を高倉に聞いた。


「フリーランスの仕事だけでは遺族への慰謝料の返済が遅れるので」高倉は落ち着いた声で森を見て答えた。


「岡本の件は知っているだろう」森は高倉に聞いた。まだニュースにはなっていないが、森と野村以外の警察から既に事情聴取を受けているはずだ。


「事情は、軽くですが聞いています。岡本さんが本当にあんな事をしたとは思えないのですが。私に出来る事があれば捜査に協力します。被害に遭った女性は大丈夫ですか」高倉は聞いてきた。


 森は高倉の顔をよく見てしばし黙ったので、高倉と見つめ合う形になってしまった。高倉は首を傾げた。マスクで高倉の表情が読み取れなかった。


 森は、岡本の担当していた講座の生徒の女性が被害者だと高倉はまだ知らないのだろうかと思考した。知らなくても仕方がないが。被害者の女性はしばらくパソコン教室の予約をキャンセルしていた。いずれパソコン教室を辞めるとは聞いていたが、すぐに辞めると変な疑いを持たれると思ったのだろう。時間をおいて辞めるそうだ。警察は女性のプライバシーを守る為にも女性の名前は警察関係者以外には明かしていなかった。


 だが森は高倉に対する疑念が拭えなかった。偶然にしては出来過ぎている。


「岡本さんは事件当日残業をしていたって言ってるんですよね。その残業をした理由、私ではないかと思うのですが」高倉は言った。森は高倉の顔を驚いて見つめた。






 森は捜査一課のオフィスに戻り自席に座ると、デスクトップパソコンで高倉の余罪調査の資料を表示させた。


 これは半年以上前に高倉の証拠隠滅罪の他の余罪調査の際に森が作成した書類だった。高倉の家族構成、経歴、犯罪歴などが記載されている。


 “高倉有隆”この名前の横に高倉の写真が添付してあった。この写真は高倉の弟の起こした連続女性誘拐殺人事件の後に証拠隠滅罪で起訴された高倉が、身柄勾留中に撮られた写真だった。森は高倉の写真を見ていると吐き気がした。森はその写真の下に記載していた自分の文章を改めて読んだ。


 “高倉有隆(31)。札幌出身札幌在住。北海道大学理工学部卒。2017年12月20日に双子の弟・高倉有理(死亡当時29歳)の起こした連続女性誘拐殺人事件の証拠隠滅を行ったと自白し逮捕。その後懲役2年、執行猶予3年で釈放。現在執行猶予期間中。高倉の両親は高倉有隆と弟・高倉有理が11歳の時に双子を残して自宅で無理心中。母親・高倉都は絞殺され父親・高倉征二郎はその後遺書を残して1997年9月3日、自宅で首吊り自殺。弟の高倉有理は2017年12月20日、札幌北区の実家で殺人を自白した後焼身自殺。その後高倉有隆の所有していた山から高倉家で昔勤めており行方不明だった家政婦の鈴木照子(死亡推定年齢48歳)とみられる遺体が白骨化で発見される。死因は舌骨の骨折から絞死であると特定。死亡推定時期は高倉有隆の両親の亡くなった年と一致。当時の山の持ち主は高倉有隆の父親の高倉征二郎。犯人と凶器は不明。当時の状況証拠的に犯人は高倉有隆・高倉有理ではないと判断”


 森は高倉有隆の余罪調査の一件であった、高倉の所有していた山から発見された鈴木照子という女性の白骨化遺体を思い出した。森は同じ被害者女性という共通点から、森の嫁の梓の事も思い出した。森は自分の表情が歪むのを感じた。


 森は高倉の弟の起こした連続女性誘拐殺人事件の被害者の夫、辻井という男の発言を思い出した。


「高倉に関わりのある警察官の身内を狙って殺害した。高倉に冤罪を着せるためだ。執行猶予でのうのうと生きている高倉が許せなかった」


 森はまた吐き気がし、モニターに表示させていた高倉の余罪調査の書類を閉じた。


 森が高倉の余罪調査を担当していなければ、高倉と会っていなければ、梓は今も生きていたかもしれない。


 森は梓の笑顔を思い出し、強い吐き気に襲われた。口元を左手で抑えてしばらくモニターから視線を外し一呼吸置くと、マスクを顎に掛けデスクに置いていたペットボトルに入った水を飲んだ。飲んだ後は俯いて自分の膝を見ながら深呼吸をした。


「森さん、大丈夫ですか?もしかして体調悪いです?」隣の席に座っていた野村が心配そうに声を掛けてきた。


 森は屈んだ姿勢のまま野村の顔を見上げてしばし悩んだ末、野村に小声で言った。「野村さん」


「はい?」野村は返事をした。


「この岡本に関する捜査、俺の担当を別の人間に代わってもらうように上に言ってもいいですか」森は言った。


「森さんが外れるという事ですか?」野村は小さな声で聞いてきた。


 森は周囲を見渡した。今日は他の事件の影響で人が出払っていて、オフィスには奥の離れた席に警部が一人座って事務作業をしているだけだった。


「もう、俺は高倉には関わりたくない」森は俯いて小声で言った。


 森は仕事への責任感よりも、自身のトラウマから来るPTSD症状で周囲に迷惑を掛ける事が怖かった。最初は普通に仕事をしていた。だがある日別件で被害者女性の遺体を見た際に、急に過呼吸に襲われたのだ。森は梓の死後から眠れず、上司に促され精神科へ通っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る