第七章 8月30日

 ある男が女の首を絞めている。


 その男が女の首を絞めている場所は山奥だ。様々な木々が均等に立ち並び、その間を土と草が覆っている。


 今男の立っている場所の近くには古井戸があり、古井戸の上には鉄板の蓋が置かれている。古井戸の石詰みされている表面は地面から八十センチくらい高さがあり、所々苔が覆っている。


 地面には電球の懐中電灯が置かれており、暗闇の中にオレンジ色の明るさが灯っている。暗さは問題ない。問題は熊や野犬などの野生生物だ。近くに自分とこの女以外の生物の気配がしないか、男は不安そうに一瞬耳を澄ます。間近にある不気味な井戸が気になったが、そこからは何の音もしない。


 男は、虫の鳴き声と木々が風にそよぐ“音”を聞いた。今日は風が穏やかで生ぬるい。まだ季節は八月後半だ。


 男は今、先程まで睡眠薬を飲まされ意識が朦朧としていたために井戸にもたれかからせるように座らせていた女を井戸の横の空き地に引っ張って行き、抵抗しない女の首にロープを巻き付け、女の背後からその首を絞めている。


 女は最初首を絞められる前は睡眠薬で眠っていて意識がなかった。だが首にロープを巻かれた後に何故か男に声を掛けられ起こされていたために、苦しそうな音をあげる。


 苦しくて声にならない“音”だ。


 いっそのこと眠っていた方が幸せだったかもしれない。しかも、睡眠薬がまだ効いており意識が朦朧としているため大きな音は出せない。音が出たところで誰もこの時間帯、この近辺の山には近付かないだろうが。


 女は苦しそうに呼吸を荒げ、朦朧としている意識の中で自分の出せる渾身の力でロープを外そうと足掻いていた。目が充血し、何度かぎゅっと目を閉じては開く。脳に酸素が回らなくなってきている事を感じる。目の前が徐々に暗くなる。ロープで絞められた首元から、どくんどくんと必死に脈打つ音が聞こえてくる。女は充血している目から涙が、口からは苦しさに耐え切れず涎が出てきた。自然と手が震えてきた。ここが何処だか分からない。何故自分が首を絞められているのか分からない。思考をする前に呼吸が乱れる。


 女が苦しそうにしていると、男は首を絞めているロープを少し緩めた。


「不倫を見ているのは楽しかったか?」男は女に聞いた。


 女は自分の首を絞めているであろう、背後に居る男に急に声を掛けられ驚いたが、緩んだロープに安堵した。一気に酸素を吸い込んだ。暗かった目の前に色が戻ってきた。


「どうしてここにいるか分かるか?」男は聞いてきた。


 女は答えられなかった。何か答えなければいけない気がした。でなければまた首を絞められるかもしれない。ただ、急に声が出なかった。意識がまだ朦朧としているせいもあるのかもしれないが、恐怖心で言葉が喉から出て来なかった。


「俺が来る事よく見てたでしょ?鈴木さん」


 鈴木と自分の苗字を呼ばれた女は酷く驚いた。この男が誰かを思い出そうとした。聞いた事のある声だ。


「ど…どうして…」鈴木は緩くだがロープで絞められて出し辛そうに、声を震わせながら聞いた。


「俺の今後の為にはあんたは邪魔なんだ。悪いね」男はそう言うと、鈴木の首を絞めるロープを再度手に嵌めていた軍手で左右に強く引っ張った。


 鈴木は苦しそうにひゅっと息を吸うと、首のロープをまた必死で取ろうと足掻いた。鈴木の体が前後左右に大きく揺れ、声にならない音が宙に舞う。


 男がさらに力を込めてロープを左右に引っ張ると、一瞬鈴木の暴れる様が酷くなった後、ぶらんと両腕が地面に落ち、急に静かになった。鈴木の顔ががくんと下を向き、体重が男に掛かってきた。尿の匂いがした。


 男は鈴木の遺体を後ろから見た。ここまで鈴木を騙して連れて来て、首を絞めるまでに疲れが溜まっていた。


 男は足元を気にすると、片手で遺体の頭を前にぐいと押し、自分と距離を取った。履いていた靴で尿を踏みそうになったので、少し後ろに下がり急いで鈴木の首に巻いていたロープを外していった。


 男はロープを遺体から外すと遺体をその場に寝かせ、古井戸の手前の地面に置いた懐中電灯まで歩いて行った。懐中電灯で目的地を探す。古井戸の向こう側にそれは見えた。土の間からブルーシートが少し見えていた。


 この土地の持ち主がこの山をしばらく放置している事は知っていたが、タイミング良く持ち主が古井戸を見に来ていないようで助かったと男は安堵した。何故この古井戸の近くを目的地にしたかは、この山は広いが全てが平坦で他に目印になるようなものがなかったからだ。


 男は手に持っていた懐中電灯を一旦近くの地面に置くと、ブルーシートの上に軽く被せていた土とブルーシートを退かした。ブルーシートの下に隠れていた穴が露わになった。三メートル程の穴が見えた。男は横に積んでいた土を見た。もっと深く掘りたかったがこの地盤は、これ以上深くは硬くて掘る事が出来なかった。


 男は遠くに倒れている遺体を見ると、ため息を吐いた。


 男は土を被っていたブルーシートを軽く払い落し土を退かすと、ブルーシートを抱えて遺体の側まで行った。ブルーシートで遺体を包んでいく。懐中電灯がなくてももう暗闇に目が慣れてきた。


 遺体を包み終えたら、男はその遺体を抱えるようにして掘った穴まで向かった。男は遺体を抱える事に抵抗感が出た。嫌悪感。人間なら当たり前の思考だろう。中には死体愛好者などという人間も居るらしいが。


 男は遺体をブルーシートごと穴の中に捨てると、懐中電灯を持ち近くの小道に停めた自分の車に戻った。戻る際に人が居ないか周囲を軽く一瞥した。


 車のトランクを開けるとシャベルが入っていたので、男はシャベルと懐中電灯を持ち遺体の元へ戻った。


 シャベルでブルーシートに包まれた遺体の上に土をかけていく。土をかける作業を終えると、男は自分の額から汗が出ている事に気が付いた。懐中電灯で埋めた箇所を確認する。遺体を埋めた土の上は草が茂っておらず昼間見ると怪しまれるかもしれないが、この土地の持ち主が疑われるだけだろうと思考した。手にはゴム手袋の上から軍手を嵌めて作業をしていたので、男は自分の証拠は残っていないはずだと思考した。


 男は懐中電灯とシャベルを持つと、自分の車へ戻った。

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