第六章 8月21日

 母親が弟の有理を殴っている。


「何でこんな成績しか出せないの。有隆は成績が良いのに何でお前は」母親は綺麗な顔を酒で赤く染めて怒鳴った。片手には煙を上げる煙草を持っている。母親が有理を押したので、痩せ細った有理は自分の部屋の床に倒れた。


 高倉は最初それを横で見ているだけだった。自分が怒られない事に安堵していた。母親に怒られたくなくて普段から勉強を頑張っていた。


 だが父親の言葉を思い出した。「兄なら弟を守れ。弟の世話をしろ」


 高倉は再度有理を見た。自分と顔のそっくりな一卵性双生児の有理が泣いている。まるで自分が泣いているような錯覚に陥った。また、普段から虐待をする母性のない母親とそれを見て見ぬふりをする父性のない父親との四人家族の中で、唯一まともな会話の出来る相手だった。


 高倉は咄嗟に母親に言った。


「お母さん、有理を怒らないで」高倉はテスト用紙を持ちながら母親にお願いした。


「あんた達さえ居なければ…」母親は自分達二人を見ると普段からよく吐いていた言葉を呟いた。「あんた達さえ生まなければ」


 母親は煙草を吸った。そして床に倒れている有理を蹴った。


 高倉は咄嗟に母親と有理との間に割って入った。自分でもこの行動に驚いた。


 高倉は手で有理を庇う動作をした際、母親に腹を蹴られた。その後頬を殴られた。愕然とした。自分も時たま母親の機嫌の悪い時に殴られる事があったが、こんなに強い力で殴られた事は今までなかった。


「そこを退け」母親は高倉に言った。


 高倉は今自分がここを退いたら有理が殺されてしまうかもしれないと直感で感じた。高倉は有理の前から離れなかった。母親がまた蹴ってきたので、高倉は有理を守るように覆い被さった。母親の蹴りの痛みに耐えた。


 ふと母親が吸っていた煙草の火が消えたのを見た。母親は片手に持っていたライターで再度火をつけると、何か考えたように高倉を蹴る事を止めて近付いてきた。母親は高倉の目の前にしゃがみ込んで高倉を見た。高倉は酔った母親を見るのが怖くて仕方がなかった。母親は煙草を口から離し、高倉の顔に近付けた。高倉は恐怖から体を後ろに反らした。


 高倉はここでやはり逃げようと思い有理の前から退けようとしたが、母親に右腕を掴まれた。半袖を着ていた細く痩せ細った腕だ。栄養失調気味で痩せ細った体は体力がなく母親に抵抗が出来なかった。


 母親は何を思ったのか、掴んだ高倉の右腕に煙草を押し付けようとして煙草を近付けた。


「お母さん、やめて」高倉は叫んでいた。熱気が自分の右腕に近付いた。怖かった。


 母親は止めなかった。その熱気がさらに腕に近付き、触れた。右腕に激痛が走った。腕が熱い。


 高倉は痛みと熱さから吐き気がし、思わず床に吐いてしまった。母親は舌打ちをすると床に俯いて座っている高倉の腹を蹴った。その後すぐに、高倉はまた蹴られた事を感じた。高倉は貧血とショックで眩暈がし、気が付いたら目の前が真っ暗になっていた。


 そして気が付いた時には床に寝ていて、泣いている母親が横に座り高倉の右腕に巻かれた包帯越しに、右腕に保冷剤を当てて冷やしていた。有理が心配そうにその横で高倉を見ていた。


「お母さん、ごめんなさい」高倉は母親に謝った。「僕が言う事を聞かないから、ごめんなさい」


 必死に謝った。また蹴られたり煙草を押し付けられる事が嫌だったからだ。母親は先程の母親とは全くの別人のように泣いて謝ってきた。


 だがそんな優しい母親は長続きしなかった。また違う日に酔った母親に右腕に煙草を押し付けられた。高倉の右腕の煙草の痕が増えた。その日の理由は高倉が皿を割ってしまったからだった。この時からだ。お仕置きと称して右腕に煙草を押し付けられる日が続いたのは。


 高倉は毎日小学校に長袖で登校をするようになった。夏でも長袖を母親に着させられた。半袖で授業を受けなければならない体育の授業は体調不良を言い訳にして休んでいた。担任教師に相談など思いつきもしなかった。何故なら当時高倉は小学校では問題児扱いをされており、周囲に人が居なく浮いていた。教師も高倉に関わらないようにしていた。距離を置かれていた。


 最初は痩せ細った体の高倉はクラスでいじめのターゲットにされていた。だがいじめっ子にやり返した結果、問題児扱いされるようになった。誰も助けてくれる人間は居なかった。有理だけが唯一側に居てくれた。


 高倉と有理の暮らしていた子供部屋は外側から鍵が掛けられるようになっていた。母親はお仕置きと称して鍵を掛けて高倉と有理を部屋に閉じ込める事が増えた。また、母親は出張の多い父親が自宅に居ない時を見計らっては自宅に知らない男を呼んでいた。その男が来る時は玄関の上に位置する子供部屋の窓から男の姿が見えた。男が来る日も子供部屋は外側から鍵を掛けられて、高倉は有理と一緒に子供部屋に閉じ込められた。


 あの晩は鍵を掛け忘れたのか、掛かっていなかったが。


 高倉は両親が死んだ後、有理とは別々の親戚に引き取られた。最初は有理と離れる事が嫌で一緒に引き取って欲しいと親戚にお願いをしたが、願いは叶わず二人は離れ離れになった。


 高倉は今までの歪んだ環境から、何かに八つ当たりをしないと生きていけなくなっていた。ある時には虫を殺し、野良猫に悪戯もしていた。有理はこの事を知らないのだろうなと思った。ただの優しい兄だと勘違いをしている。有理は腕に煙草の痕がない。羨ましいなと思った。


 高倉を引き取った親戚一家の叔母に、一度虫を殺す場面を見られた。そこから叔母は余所余所しくなり、高倉は親戚の家で暮らし辛くなった。


 高倉は思春期になると、自分が女性を苦手であるという事を思い知らされた。告白をしてきたクラスメイトと試しに交際をしてみたが、事の際に気分が悪くなり吐いてしまった事も理由の一つだった。その女の子が不倫をしていた母親に重なって見えた。


 高倉は高校生の頃、有理に対して家族以上の考えを持っている自分に気が付いた。


 自分と容姿のそっくりな有理の事が愛しかった。全て二人だけの世界になればいいと思っていた。高倉は有理以外の人間に興味を持てない自分に気が付いた。だが誰にもその事は言えなかった。有理でさえも知らない。


 ある日叔母と叔父が会話をしていた。その会話を高倉は聞いてしまった。


「あの子は歪んでる。怖い」叔母は言った。


 高倉は自分の部屋に勝手に叔母が入った事を呪った。叔母はきっとあのビデオを見たからそんな事を言ったんだ。高倉は思った。この家に火を放ち親戚一家が死んだら自分の心に秘めた禍々しい感情は誰にも知られる事はないのだろう。高倉は都度こう思考をした。大学に進学し親戚の家を出るまでその思考は続いた。


 有理は学生時代普通に女性と交際をしていた。高倉は自分の気も知らずにと有理に対して様々な感情を抱き、徐々に自分の性格がさらに歪んでいくのを感じた。


 親戚の家に住んでいる従兄弟にも余所余所しくされ始めた。叔母が何か言ったのだろうか。


「俺は歪んでない」高倉は呟いていた。


「有隆くんは歪んでないよ。大丈夫だよ」声が聞こえた。


 高倉は横に居る人間を見た。ウェーブがかった黒髪の華奢な男が、自分の横で心配そうな表情をして声を掛けている。


 高倉は周囲を見渡した。此処は何処だ?


 実家の子供部屋でもない。親戚の家の虐げられて逃げていた自分の部屋でもない。横にベッドが置いてあり、自分はデスクの前で跪いていた。


「有隆君は大丈夫だよ」笠木は言った。


 そうだ。此処は笠木と現在暮らしている自分の家だ。自分はもう子供ではない。大人だ。


 高倉は徐々に自分が今日何をしたのか、今何処に居るのかを思い出していた。また吐き気がしたが、笠木が水の入ったコップを差し出してくれた。高倉はそれを受け取り飲むと、深呼吸をして落ち着かせようと努力をした。

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