第五章 8月21日

 笠木はこの感染症の最中高倉が飲み会に行き、まだ帰宅をしていない事が心配だった。もう零時を回っている。


 笠木は一時間程前に高倉のスマートフォンに仕掛けてあるゴーストアプリのGPSで高倉の居場所を特定していた。


 このゴーストアプリは高倉がスマートフォンに入れても良いよと言ったものだった。笠木はストーカーまがいの事をする事は嫌だったのだが、高倉の現在地が気になり初めてゴーストアプリを使用した。


 高倉の居る場所は大通駅の居酒屋街の近くだった。店から少し離れているのでもう店から出たのだろうか。


 笠木は高倉の最近の行動に違和感を抱いていた。高倉は今まで飲み会にはあまり参加しなかったが、急に飲みに出掛ける頻度が増えたからだ。


 しばらく時間が経ち笠木が高倉にチャットを送ろうか悩んでいる時に、玄関の鍵が開く音がした。


 笠木はパジャマ姿で玄関に向かった。高倉が玄関で酔い潰れて扉の内側でしゃがみ込んでいた。


「有隆君おかえり、遅かったね。大丈夫?」笠木は高倉を介抱しようとしたが、居酒屋の匂いや煙草の匂いの他に、高倉から女性の香水のような匂いが漂った事に気付いた。


「創也、気持ち悪い。水くれない?」高倉は口元を抑えて言った。


 笠木は立ち上がってキッチンに向かい、コップに水を注いだ。それを高倉の元へ持って行った。


「はい。これ飲んで」笠木は高倉に水を渡した。


 高倉は水の入ったコップを受け取ると、装着していたマスクを口元から外し顎に掛け、水をゆっくり飲んだ。


「有隆君、あまり言いたくないけどこのご時世だし、飲み会はしない方がいいと思うけどな。周りは自粛してるじゃん。会社の付き合いもあると思うけど、控えた方がいいんじゃないかな」笠木はしゃがみ込んで高倉の表情を見ながら言った。


 高倉は俯いていたが、顔色は白く本当に気分が悪そうだった。


 その時高倉は口元を再度手で抑えた。コップを床に置いて靴を慌てて脱ぎ、笠木の横を通ってトイレへ向かった。笠木が心配して後を付けると高倉はトイレで吐いていた。


「大丈夫?」笠木が聞くと、高倉は無言で洗面所に行った。うがいをして水を飲み、しばらく洗面台に手を付けて俯いていた。


「俺女性の香水の匂いする?」高倉は聞いてきた。


「え、うん。少しね」笠木は急に聞かれて驚いて答えた。


「今日酔った女性を介抱したんだ。俺は女性が苦手だから、余計気分が悪くなった。絡まれた」高倉は俯いたまま言った。


「それは大変だったね」笠木はそう言って高倉を見つめた。


 酔って気分が悪いのではなく女性を介抱した事で気分が悪くなったのだろうか。高倉が女性を苦手だとは知っていたが、これ程苦手な事に驚いた。


「本当は飲み会なんて行きたくないんだ。でも職場の上司が飲み歩きが好きな人だから、参加しないとクビになったらどうしようと思って…」高倉は小声で言った。


「前の会社じゃないんだから、飲み会に参加しないだけでクビになったりしないよ」笠木は高倉を安心させるために言った。


 高倉が以前の職場をクビになった事は知っていた。弟の事件の影響で嫌がらせの電話が始終職場に鳴り響き、人間関係の維持が難しくなり退職を促され、辞めていた。だがそこは深夜遅くまで働くブラック企業だったので、笠木は高倉が転職出来てよかったと思っていた。


「薬飲む」高倉はそう言うと、俯いたまま自室へ向かった。笠木が付いていくと、高倉は自室のデスクの引き出しを開けて薬を探していた。


「水いる?」笠木は聞いた。


「うん」高倉がそう言ったので、笠木は先程玄関に高倉が置いたコップを回収し、そのコップに水を追加して高倉の元に持って行った。そうすると高倉が慌ててデスクの横にある棚の引き出しの中を探していたので、笠木は心配した。


「薬もしかしてもうない?」笠木は聞いた。


 高倉は頷いた。


「大丈夫?本当に薬ないの?次の精神科はいつ?」笠木は聞いた。


「来週」高倉は引き出しの中を探しながら言った。


「それまで持つ?」笠木は心配して聞いた。


 高倉がPTSDを持っている事は知っていた。高倉の弟が亡くなった後から時折辛い時に過呼吸になるらしい。過呼吸の症状が出た際に高倉に安定剤は必要だった。


「どうしよう」高倉は明らかに動揺していた。


 笠木は高倉の元へ行き、デスクの前にしゃがみ込んでいる高倉の肩に手を置いて軽くさすった。


「大丈夫だよ。深呼吸深呼吸。明日病院に連絡して貰いに行ったり出来ないの?」笠木は聞いた。


「明日…」高倉はそう言うと、呼吸が荒くなった。


 高倉は自分の右腕を抑えて俯き過呼吸気味になった。これは高倉が本格的に過呼吸を起こす前触れだと笠木は知っていたので、慌てた。高倉の背中をさすったが、高倉に手で払い退けられた。笠木は驚いた。


「ごめん」高倉は振り向いて咄嗟に謝ってきた。だが過呼吸が収まらないようで、すぐに俯き深呼吸を始めた。息を吸い込み、しばらく止めてはゆっくり息を吐く動作を繰り返した。


「大丈夫だよ。大丈夫」笠木はまた手を払われたら困るので、高倉の横で落ち着かせる言葉を吐く以外の事が出来なかった。


 以前は紙袋を渡そうとしたが、医者にその方法は良くないと止められていると聞いていた。紙袋を使った過呼吸の直し方はかえって不安を強くさせてしまう事があるらしく、最近は推奨されていないらしい。


 高倉の過呼吸が本格的に酷くなった。笠木はそれを心配して見ている事しか出来なかった。

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