第四章 7月18日

 高倉は札幌すすきのの地下にある会員制バーに入ると、口元を覆っていたマスクを外して畳み、履いていたパンツのポケットの中に入れた。


 バーの中に居る人間の殆どがマスクを装着していなかったからだ。この時期だけではなく高倉は年中マスクを外す事は避けたかったのだが、仕方がなかった。


 マスクを装着していたいのは流行りの感染症対策もあったが、主に事件の影響だった。弟の起こした事件からもう二年半経つが、ニュースで一度流れた顔を覚えている人間も居るかもしれない。


 高倉はニュースで流れた顔を誤魔化すように、当時弟に似せて伸ばした前髪を左右に分け額を出していた髪型から変え、分厚い前髪で額を覆っていた。今日は眼鏡をコンタクトに変え、目の下に常にあるクマはコンシーラーで隠していた。


 高倉は白いドレスシャツの上に黒いベストを羽織り、紺色のパンツという出で立ちだった。このような服装はした事がなかったのだが、今日の場には相応しかったらしい。周囲を見渡しても同じような服装の男が数人居た。


 高倉は真ん中のテーブルの前に立って数人の男と親気に会話をしている若い男に向かって歩いた。


 その若くて身長の高い男は白いワイシャツの襟元のボタンを第二ボタンまで外し、灰色のパンツを履いていた。黒髪をツーブロックにしている。男は片手にはシャンパングラスを持ち、手で大袈裟にジェスチャーをしている。体の揺れ具合から既に大分酔っている様子だった。


「岸本さん、お誕生日おめでとうございます」高倉は店内で流れるクラブミュージックに負けないように、その若い男に向かって声を掛けた。


「高倉さーん」声を掛けられた岸本聡一は笑顔で高倉の方を振り向くと、シャンパンをテーブルに置いて大袈裟に腕を広げ挨拶をしてきた。「来てくださってありがとうございます」


 高倉は一瞬外国人の挨拶のように岸本にハグをされるのではないかと身構えたが、岸本もさすがにハグはしなかった。


「このバーいいでしょ、どうですか?楽しんでいただけると嬉しいです。今日は貸し切りですからね」岸本は笑って言った。岸本は手を上げて近くに居たウェイターを呼んだ。「高倉さんも飲みましょう」


「雰囲気の良いバーですね。お洒落で素敵だと思いますよ。ああそうだ、これ喜んでいただけると嬉しいのですが」高倉は手に持っていた小さな紙袋を岸本に渡した。


 紙袋の中身はジッポライターだ。普段安物のライターで煙草を吸う岸本を高倉は知っていた。


 岸本は驚いた表情で紙袋を高倉から受け取った。


「まさかプレゼントですか?嬉しいなぁ。友人達は友人代表としてしかくれなかったから」岸本は笑って隣に立っていた男に言った。岸本の横に立っていた友人もグラスを持って笑って言った。


「俺はこのバーに女を集めてやっただろ」岸本の友人は言った。


 店の中に居る人間は高倉が知らない顔ばかりだったが、男は殆ど岸本の友人だと思考した。女性はドレスを着ているが、露出の激しいドレスから中にはコンパニオンも居るのだろうなと思った。


 ウェイターがシャンパンを運んで来たので高倉はシャンパンを受け取った。


「朱音、朱音おいで」岸本は少し離れたテーブルの前のソファーに座っていた女性に声を掛けた。


 朱音と呼ばれた女性はこちらを振り向くと笑顔を作り、立ち上がりシャンパンを持ってこちらへ歩いてきた。


「高倉さん、こちら俺の許嫁の沢田朱音です。朱音、こちら高倉有隆さん。フリーランスで、俺の職場のアプリを作ってくれた人だよ」岸本は沢田の肩を抱いて、まるで沢田を自分の所有物のようにして言った。


「はじめまして。沢田朱音です。大学三年生です」沢田は挨拶をしてきた。


 沢田は長い黒髪をハーフアップにしていて、背が低く少しふくよかな女性だった。太ももを出したコンパニオン達とは反対に、紫の裾の長い清楚なワンピースを着ていた。沢田は笑顔だったが、岸本に肩を抱かれ一瞬困った表情を浮かべた。高倉はその表情を見逃さなかった。


「はじめまして。高倉有隆です」高倉は沢田に微笑んだ。高倉の微笑みが沢田にも移ったように沢田も微笑んだ。


「高倉さんは仕事が出来る人でね。うちと契約していたプログラマーが拒否った案件も受注してすぐに仕上げてくれてね。それからうちとよく取引をしてるんだ」岸本は言った。


「岸本君から少しだけ話聞いてました。北大出身だとか」沢田は聞いてきた。


「そうなんですね。そうです。沢田さんは何処の大学生なんですか?」高倉は興味が無かったが聞いた。


「私は名乗るのも恥ずかしい大学ですよ…大学では英語を専攻してます」沢田は言った。


「でもTOEICの点数二百点だったんだよな」岸本は笑って言った。沢田は表情が曇った。岸本は沢田から手を放し、胸ポケットから煙草を取り出すとライターで火を付けて吸い始めた。


「高倉さんは確か九百点台ですよね」岸本は聞いてきた。


「ええ、大学時代に受験して以降英語には触れていないので、今はどうか分かりませんが」高倉は言った。


「凄い。留学とかされてたんですか?」沢田は聞いてきた。


「してませんよ」高倉は答えた。岸本が煙草をテーブルの上の灰皿に一旦置くとシャンパンを飲んだので、高倉も手に持っていたシャンパンに口を付けた。


「そういえば、あんなスパゲッティコードよく解読出来ましたよね。社内で話題になりましたよ」岸本はシャンパンをテーブルに置いて、また煙草を持ち言った。「社内のプログラマーもお手上げだったのに。逆に高倉さんが修正して書いたコードはスマート過ぎて理解するのに少し時間がかかりました」


「それはすみませんでした。無駄な記述が嫌いで」高倉はシャンパンをテーブルに置いて言った。


「ああ、それは全然良いんです。コーディングが上手く行かない背景は現場のマネジメント不足もあるんですよね。エンジニアが余裕を持って働ければプログラムの品質を重視した改善に取り組める。それがうちに足りない部分だった。高倉さんうちにエンジニアとして転職しませんか。口利きしますよ」岸本は笑って言った。


「それは嬉しいお誘いですね。岸本さんと一緒に働けるなんて」高倉は微笑みを崩さずに言った。


 ただの社交辞令だと思ったので受け流そうとした。そのエンジニアを束ねているマネージャーである岸本が自分の事を棚に上げて会話をしていた会議を思い出した。岸本の元で働くくらいならフリーランスの方がまだましだ。


「あとうちでミーティングをした時の高倉さんね、エンジニアを黙らせる一言が面白くて俺心の中で笑っちゃいましたからね。周囲の固め方が上手いですよね。アイディアも豊富だったし。心理学も学んだりした事あります?人の行動の制御や把握とかがね、俺の父親に高倉さんはそっくりだと思ってね」岸本は煙草を吸いながら言った。


「確かに、顔も少し岸本君のお父さんに似てますよね、高倉さん」沢田は横でずっと会話に入れずにいたが、やっと割って入って言った。


 高倉は一瞬自分の表情が強張った事に気付いたが、すぐに顔に微笑みを貼り付けた。


「そういえば岸本さんのお父様は最近市長のお仕事の方はどうですか?」高倉は聞いた。


「ああ、忙しいみたいで全然家に居ないですよ。たまに会っても親の面子を傷つけるなってうるさくて。もういい年なのにうんざりしますよ」岸本は煙草を吹かすと言った。隣に立っていた沢田が煙草の煙を手で払った。沢田は煙草が嫌いなのだろうか。


「聡一、お前の元カノがおいでだぜ」男の声が聞こえた。岸本はバーの入り口の方に視線をやった。高倉も入り口に視線をやった。バーの入り口に今入ってきたばかりのような女性が立っていた。


 その女性は身長が高く小顔ですらりとした体形をしており、気の強そうな美人だった。小柄で少しふくよかな可愛らしい顔の沢田とは対照的だった。女性は周囲を見渡し、周囲の男達もその女性に視線をやっている。


「ちょっと失礼しますね」岸本は煙草を灰皿に押し付けて高倉に笑顔で会釈をすると、高倉から受け取ったプレゼントの紙袋を持ってその女性の元へ向かった。


「私、ただの許嫁なだけなんです。両親の影響で」取り残された沢田は横で高倉に小声で言った。


 高倉が沢田を見ると、悲しそうな表情をして岸本の方を見ていた。


「沢田さんと岸本さんはお似合いだと思うけどね」高倉はフォローをした。


 沢田は高倉を見上げて一瞬困った顔をした後微笑むと言った。「岸本君より高倉さんの方が人を束ねるのには向いてそう。人の上に立つ人間は高倉さんみたいな温和で理知的な人の方が良いと思います。岸本君は、屈折してる。家庭内圧力もあると思うんですけど。毎日遊んで歩いて、私の事なんて将来の踏み台にしかきっと考えていない。私のお父さんもそう。北海道知事なんですけど」


「そんな事ないと思うけどな。北海道知事の娘さんだったんですね。お会い出来て光栄です」高倉は沢田を見て言った。


「高倉さんは本当に岸本君のお父さんに似てますね。目元が特に。岸本君のお父さんと話した時を思い出しました。仕事の出来るところとかも、岸本君よりお父さんに似てます」沢田は笑って言った。「じゃあ私、友達のところに戻りますね」


 高倉は沢田が先程のテーブルに戻って行くのを立ったまま見ていた。高倉は入り口付近にまだ居る岸本に視線を移した。岸本はまだ先程の長身の女性と何やら話している。


 高倉は頭痛と眩暈を感じた。ずっと頭の中から払拭出来なかった考えが沢田によって確信に変わり、不安感を掻き立てられた。


 高倉はパンツのポケットの中から未使用の洗い立てのハンカチを取り出すと、周囲を軽く確認してからテーブルの上に乗せてあった灰皿の中にある、先程岸本が吸っていた煙草の吸い殻をハンカチで包んだ。そしてそれをそのまま自分のパンツのポケットに入れた。

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