第三章 5月10日

 高倉は信号待ちをする車の中で煙草を吸いたい衝動に駆られたが、禁煙をしていたので我慢をした。禁煙をしている苛立ちから握っていたハンドルを指で軽く叩いた。


 カーステレオから流れるピアノクラシックのフランツ・リストの「愛の夢」第三番に合わせて指でリズムを刻み、煙草以外の事を考えようとした。クラシックは好きだが、持っているCDはこれしかなかった。


 まだ赤信号なので助手席に座っている笠木をふと見た。笠木は窓の外に視線をやっている。以前笠木と映画を見に行った際にクラシックを聴く悪役が怖いと言われてからはこのCDを笠木の前で流す事はしなかったのだが、今回高倉の親戚の家に行くまでの途中で退屈した笠木に車内に置いてあったCDが見つかってしまった。よく見ると笠木も膝の上に置いた指で曲に合わせてリズムを刻んでいた。


「クラシックは怖いんじゃなかったっけ?」高倉は聞いた。


「この曲は別。良い曲だね」笠木は言った。


「それならよかった」青信号になったので高倉は車を発進させて言った。


「お腹が苦しい」笠木が言ったので高倉は笠木をふと見た。笠木はシートベルトを触り、深呼吸をしていた。


「大丈夫?」高倉は聞いた。


「有隆君の作ってくれたフレンチトーストを食べ過ぎた」笠木は言った。


「作り過ぎてごめんね」高倉は謝ったが笑いそうになった。「残せばよかったのに」


「そんな勿体ない事は出来ないよ。何で料理は苦手なのにフレンチトーストだけは作るのが得意なの?」笠木は聞いてきた。


「昔よく作ってたからだよ。もうそろそろ着くよ」少し走ると目の前に目印になる標識が見えたので、高倉は右ウインカーを出した。右折してすぐに目的地が見えた。


 高倉は古びた木造の平屋の一軒家の横の駐車場に車を停めた。この小樽にある家には高校時代に来て以降来る事はなかった。ここは高倉の母親の実家であり、今は母親の姉夫婦が住んでいる。十一歳の頃に両親が亡くなり弟と離れ離れになった後、弟が引き取られ高校卒業時まで弟の暮らしていた家だった。高倉は札幌西区にある親戚の家に引き取られたが、この家の方が居心地良かったので高校卒業までは弟に会いによく泊まりに来ていた。


「ここがお母さんの実家?」笠木は車を降りてマスクを装着しながら聞いてきた。


「そうだよ」高倉もマスクを装着してそう言った瞬間、笠木の持っていたスマートフォンが地面に溜まった水溜まりの中に落ちた。昨晩は雨だったので所々に水溜まりがあった。


「ああ」笠木が慌ててスマートフォンを水溜まりの中から救出し、スマートフォンを振って水を弾いた。


「大丈夫?これ使って拭いていいよ」高倉は自分の履いていたパンツのポケットの中に入れていたハンカチを笠木に渡した。


「ありがとう。いいの?」笠木が聞いてきたので高倉は頷いた。笠木は動揺した顔でハンカチを使いスマートフォンを拭いた。


「防水だよね?」高倉は聞いた。


「うん」笠木はスマートフォンを何度か触って確認をした後、緊張していた顔が綻んだ。「よかった。大丈夫そう」


「防水仕様のスマホに変えてよかったね」高倉は言った。


「うん。ハンカチごめん…今度新しいの買って返すね」笠木は謝った。


「いいよ別に」高倉はそう言うと、玄関に足を運んだ。


 高倉がインターホンのチャイムを押すと、中から声が聞こえた。


「はい」高倉の母親の姉、叔母の声がした。


「高倉有隆です」高倉は名乗った。


 叔母は何も言わずにインターホンの通話を切った。玄関の向こう側にバタバタと歩く音が聞こえた。玄関のドアの鍵が開く音が聞こえ、ドアの引き戸が狭く開いた。


 中から痩せ細った叔母が顔を出した。若い頃はスタイルが良く端正な顔立ちをしていたのだろうなという面影はあったが、顔には年齢相応の皺が刻まれていた。目の下にはクマもあり顔色も良くなかった。高倉を見る叔母の表情は、学生時代に高倉を優しく迎え入れてくれた面影はなく、恐ろしい獣を見るような恐々とした表情を浮かべていた。


「急に連絡を入れてすみませんでした。どうしても探したいものがあって」高倉は叔母に言った。


「分かったから、早く入って早く出て行って」叔母は高倉からすぐに視線を外して言った。


「お邪魔します」高倉がドアを開け無言で家の中に入ると、後ろから入ってきた笠木が叔母に声を掛けた。目の前に居た叔母は汚らわしいものを見るような目で笠木を見ると、視線を外して廊下の横にある襖を開けて居間に戻り、何も言わずに襖を閉めた。


「ごめんね。こっちの部屋だよ」高倉は事前に叔母から指定されていた奥の空き部屋を指差して笠木の顔を見た。笠木は叔母の態度に愕然とした様子だった。初対面であの態度なら無理はないと高倉は思ったが、弟の事件の影響で親戚に絶縁をされている中での頼み込んでの訪問だった。仕方がなかった。


 高倉は廊下を進むと、弟の昔暮らしていた部屋に足を踏み入れた。部屋の床は畳が敷き詰められている。今は物置のように使用されており、畳が湿気た匂いがした。弟が暮らしていた面影はもう何もなかった。高倉はふと寂しさを感じた自分に驚いた。


 部屋は使われていない家具が雑多に置いてあり、襖の目の前の部屋の隅の押し入れの前に段ボールが一つ置いてあった。これは叔母が事前に用意してくれた母親の遺品だと高倉は電話で聞いていたので分かった。この段ボールの置いてある場所に、以前は弟のベッドが置いてあり、弟が高校の補習授業から帰ってくる前に先に家に上がり込んだ高倉が勝手に寝ていて弟に怒られた事を思い出した。


「この段ボールだと思う」高倉は弟との思い出を頭の中から追い出すかの如く頭を振るうと、段ボールに近寄って中を開いて見た。中には写真立てや複数のアルバム、ノート、色褪せたぬいぐるみ、オルゴールのようなものが入っていた。


「これがお母さんの遺品?有隆君は写真が見たいんだっけ?」笠木は小声で聞いてきた。


「うん」高倉は中からまず写真立てを取り出して見た。写真立てに飾られている写真は幼い頃の母親と母親の姉である叔母と、母親の両親との四人家族の写真だった。母親は一番前に座り、笑顔でピースサインを作っている。


「これがお母さんの小さい頃?可愛い人だね」笠木は写真を見て言った。


「顔だけね」高倉はその写真立てを段ボールの中に戻して言った。次にアルバムを取り出した。


 埃でべたついたアルバムをつまみページを捲っていく。このアルバムは母親の幼少期の写真だらけだった。高倉はアルバムを段ボールの中に戻し、別のアルバムを手に取り中を見た。


 学生時代らしき母親がセーラー服で友人と写っている写真がまず先に目に入った。母親は友人の中でもとりわけ顔が整っていた。女優の昔の写真を見ているようだ。この笑顔の女子学生が何故将来子供を虐待するようになったのかは高倉には分からなかった。母親の笑顔を見ていると吐き気がしてきた。写真を破り捨てたい衝動に駆られた。


「これもしかして有隆君と弟さん?」笠木の声が聞こえたので高倉は我に返った。笠木を見ると、笠木は別のアルバムを開いて見ていた。高倉は笠木の見ているページを見た。二十代らしき母親が生まれたての子供二人を抱いている写真が見えた。


「多分ね」高倉は言った。双子の顔は幼いながらにそっくりだった。双子の着ている服も色違いの同じ柄だった。


「どっちが有隆君か分からないね」笠木は言った。「ごめんね。僕があの時弟さんの自殺を止められていたらって未だに思うよ」


「創也は関係ない。弟はどのみち死刑になった」高倉は笠木の目の前で焼身自殺を図った弟を思い出した。


「何で殺人をするようになっちゃったんだろうね…」笠木は写真を見ながら小声で呟いた。「有隆君は今年の末で執行猶予が終わるんだよね」


「そうだよ。あまり時間がないから弟の写真はもう片付けよう」高倉は話題を変えたくなり言った。笠木の見ていた写真から目を背け、手元に持っていたアルバムを再度捲っていく。


 しばらく二人とも無言が続いた。


「これ有隆君のお父さん?」笠木が沈黙を破った。


 高倉は笠木の見ているアルバムを見た。そこには海の見える崖の手前の柵を背景に立って写真に写っている男女二人が見えた。まだ二十代らしき母親は微笑み、男は無表情だった。


 高倉は目を見開いてその写真の入ったアルバムを笠木から受け取り、掛けていた眼鏡を右手で掛け直し間近で写真を見た。高倉はその写真をアルバムの中から抜き取ろうと、上に貼ってある透明なカバーフィルムを剥がそうとした。だが古い写真はフィルムに完全に張り付いており、剥がそうとすると写真の一部がフィルムに張り付いて一部色が剥がれてしまった。

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