攻略対象 勇者アルルク

第4話 モブ村娘、覚醒!?



 ぐるるるる……




 重低音となって腹の底に響く唸り声は、獰猛な肉食獣のそれだった。


 レーナの居た場所に鋭く尖った尻尾の先端を突き立てた異形は、逃げた獲物に毒々しい赤一色の眼を向けて、口惜し気に唸り続けている。視線を向けられているのは、間一髪、アルルクに首根っこを掴まれて、思い切り背後に投げ飛ばされたレーナだ。


 異形は、濃い紫のもやを纏ってはいたけれど、朝日の中でその姿は驚くほどはっきりと捉えることが出来た。人と同じく2本づつの手足で――けれど頭部の左右に大きく突き出た捻じれたツノと、背中に生える蝙蝠に似た1対の翼、地面に付きそうなほど長く伸びた腕が特徴的な容姿だ。腕の先には長すぎる指と鋭い鉤爪が付いていて、苛立っているのか足元に転がる大石をガリガリと音を立てて引っ搔いている。身体はびっしりと鈍色の鱗に覆われていて、頭部から背中にかけて白いたてがみが付いていた。


 本能的な嫌悪感と恐怖が込み上げるには充分すぎる異質な姿だ。


 こんな生き物が居るなどと云う話は、レーナがこの世界に生まれてからの12年間、一度も聞いたことは無い。何より、こんなモノが普通にうろついているのなら、ごく一般的な親なら絶対に、子供だけでその生息地に当たる場所へ送り出したりはしないはずだ。今日も、彼女が夜勤帰りの父親と入れ違いで家を出発するときに「休んだっていいんだぞ? レーナの笑顔を見れるだけでお父さんたちは元気になれるんだから、近所の子たちと遊んで来ても良いんだぞ」などと、鬱陶しい程しつこい心配と気遣いをみせていたのだ。そんな親が、異形が居ると分かっている場所へ子供が向かうのを止めないわけがない。


「つまり、完全なイレギュラーってことよね。はぁ……、なんでわたしにばっかり、こんなおかしなことが起こるんだろぉ」


 大きすぎる恐怖心が、かえってレーナを冷静にさせる。


(ここに生まれる前は、ソーシャルゲームで推しを目指していた平凡な女子高生だったんだよね。転生なんて特別な経験をしたのなら、凄い力が――とか期待もしたけど、そもそも言葉で躓いちゃったから年齢なりにお勉強していくしかなかったし。身体能力だって、年齢なりどころか織物家業のアルルクよりもずっと小柄だから、力仕事もやっとで、井戸から釣瓶つるべを引き上げることもできないし……。なんでこんな一般庶民モブ転生しちゃったわたしに、イレギュラーが襲ってくるのよーーーー!!)


 レーナは、現実逃避したくなるほどの危機に、ついここまでの人生を振り返ってしまう。走馬灯だとは思いたくないが、その可能性は高い……と、絶望的な視線を異形に向ける。


 すると、レーナの怯えが伝わったのか、異形が耳まで裂けた口を歪めてニヤリと笑った気配がした。醜悪な表情で見据えられて、彼女は全身が震えて一歩も動けない。異形はレーナの反応を愉しむ様に、長い両手を振り上げ、もったいぶって鋭い爪の切っ先をゆっくりと彼女に向けてゆく。


「こ、こ、こここ、こっ……」


 短い第2の人生だったな――との諦めと共に、レーナが目を瞑ろうとした瞬間、間の抜けたニワトリの鳴き声が響いた。いや違う。声の主は、レーナの目の前で、震えながらも両足を踏ん張って仁王立ちしているアルルクだ。背中を向けられて表情は見えないけれど、声が震えていることから、恐怖心を押し殺して無理をしているのは確かだ。


「このや・ろぉーーーー!! レーナに手はださせねぇぇぇっ!!!」


 アルルクは叫ぶと同時に地面を蹴り、異形に向かって突進する。右手にレーナが取り落とした水桶を引っ掴んで。


(え!? なに持って――)


 どん


 突拍子の無いアルルクの行動に、注意を持っていかれた瞬間、レーナは脇腹に強い衝撃を受けた。次いで、足元から地面の感覚が離れて、全身が勢い良く空中に吊り上げられる。


「レーナァァァァァッ!!! くそっ」


 レーナが状況を理解できずにいるうちに、アルルクの絶叫がやかましく木霊して彼女の鼓膜を震わせた。耳がキンキンする程の大音声だ。しかも「くそ」などと、とんでもなく乱暴な言葉遣いをしている。だからレーナが、いつも通りに注意しようと口を開きかけると――


 ごぽっ


 ――と、生ぬるい液体が口から溢れた。


 彼女の足の裏に地面の感覚は無い。視界は天地がさかさまになって、アルルクが見せたことのない険しい形相で、レーナの元へ駆け寄ってくる。水桶を右手に振り上げて。


『なにバカなことやってんの』


 そう言ってレーナは笑おうとした。だが、彼女の視界いっぱいに鮮血が飛び散って、声でなく咳ばかりが込み上げる。気道に妙に多くの何かが入り込んだせいで、息を吸うことが出来ない上に、咳ばかりが次々に出て来る。胸がつぶれるくらいの息苦しさに、身体を二つに折り曲げようとしたレーナは、そこで初めて自身の脇腹に深々と突き刺さった異形の爪を目に映した。


「よくもレーナを殺したなぁぁぁーーーー!!!!」


 えっぐえっぐと泣きながら、アルルクが水桶を振り上げて、異形に叩き付ける。何度も何度も、離れては勢いをつけて飛び掛かりながら桶で殴りつける。


(そんなもので叩いて効くわけないじゃない! 10歳の子供がこんな化け物にかなうわけないじゃない! それにわたし生きてるし!! なにより死んだと思ったなら、アルルクだけでも逃げなさいよっ!!! 駄目だ、こんなおバカを置いて死ぬわけにいかないわーーーーーー!!!!)


 声が出ない分、強く強く心の内で叫んだレーナの腹の底がカッと熱を持ち、静電気の様な鋭い痛みが体の中で弾けた。と同時に「ビキン」と響く硬質な音を、彼女は自分の中から聞いた気がした。


「ぐぎゃぉぉぉおおぉぉぉ!!!!」


 獣の様な咆哮が上がり、脇腹に感じていた熱が消え去ったと感じた瞬間、レーナの小さな体は空中に放り出された。さっきの硬い音は、どうやらレーナを空中に縫い留めていた異形の指と爪がまとめて切断された音だったようだ。そうレーナが理解したのも束の間、支えを失った彼女は、そのまま地面めがけて吸い寄せられる。


「レーナをかえせぇぇぇーーーーーーっ!!!!」


 凄い勢いで近付く地面とレーナの間に、涙と鼻水で顔中をぐちゃぐちゃにしたアルルクが割り込んだ。


 どぅ


 鈍い音がして、異形に何度目かの突撃をしようとしたアルルクと、その上に落下したレーナが揃って地面に叩き付けられる。


 ざんっ


 前向きに倒れこんだアルルクの目の前の地面を抉る様に、異形の尻尾と鋭い爪が突き立てられる。


「――っぶねー!!」


「ほんとよ! 桶なんかで飛び掛かるなんて危なすぎるわ!!」


「ぅわ! 生きてる!!!」


 小柄とはいえ、落下してきたレーナの下敷きになったにもかかわらず、即座に身体を起こして叫んだアルルクに、彼女もつられて声を上げる。しかも生きていることに驚愕されて、複雑な心持ちのレーナだ。文句を言おうとした彼女からパッと視線を外したアルルクは、すぐさま上に乗っかったレーナを振り落とす勢いで身を起こし、未だ地面に爪と尾を突き立てた姿勢の異形に飛び掛かる姿勢を見せる。


「これ!」


 咄嗟に、レーナがアルルクに差し出したのは、さっき自分の体内から「ビキン」と硬質な音を立てて飛び出して来たモノだ。水桶よりはマシな武器になると判断したレーナが、反射的に手渡した物だったが、アルルクは左手に水桶を持ったまま、右手にソレを握りしめて飛び出した。


「たぁぁぁーーーっ!!」


 一際大きく声を上げ、地面を蹴ったアルルクはどこからそんな力が湧いたのかと思うほど勢い良く、異形の懐に飛び込んで行く。


「ぐおおぉぉぉ!!!!」


 迎え撃つ異形も彼の気勢に呼応して、咆哮を上げる。


 異形は長い尾を振り回して、アルルクを叩き伏せようとした。けれど彼は大きな身体をしなやかに逸らせ、巧みにその攻撃をかわす。


 次いで、鋭い爪がまっすぐ心臓を狙ってきたところを、左手に持った水桶を盾の様に構えて長い爪の側面に押し当て、軌道を変えていなした。


 飛び掛かる勢いのまま異形の懐に入ったアルルクは、飛び掛かる勢いを保ちつつ、全体重も乗せながら右手に握りしめたレーナに渡されたモノ――異形自身の片手を突き出す。


 どん


 塊同士がぶつかり合った鈍くて硬い音が響いて、それまで激しく動いていたアルルクと異形はぴたりと静止した。


「アルル……ク……?」


 言いようのない不安に襲われて、レーナは動かない幼馴染の名前を呼ぶ。


 背中しか見えないアルルクがどうなっているのかは分からない。けれど、こちらに顔を向けている異形が、酷く歪んだ表情をして唸り声も上げられず、ただ大きな口をはくはくと動かすのが見えた。


(アルルクの攻撃が――もしかして、ちゃんと当たった……の?)


 一筋の光明が見えた気がした途端、アルルクの小さな背中の中央にぽつりと赤い染みが浮き出て来る。その染みが段々と範囲を広げる意味が分からず、いや、理解するのを拒否したままレーナは凝視し続ける。


 すると、その染みの中央から、彼が武器として手にしていたはずの異形の爪が1本、2本と突き出て来た。

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