第11話

 ドアが開ききると同時に、暗闇がみゆりを一瞬で包みこんだ。大きい花子さんのときよりもずっと濃い暗闇だった。みゆりは手探りして、壁やドアを探そうとした。しかし手は空を切るばかりで、あたりには何も見つからなかった。


「あいかちゃん」みゆりは叫んだ。声はまったく響かず、たちまち周囲の暗闇に吸収されてしまった。


 ポケットの中を探ると、ドアストッパーがまだあった。しかし、それを使うべきドアはどこにもない。みゆりはドアストッパーを床に置いた。何の意味があるのかわからないが、もしここにまだドアがあるのなら、閉じるときに引っかかってくれるかもしれない。すでにドアは閉じてしまっているのかもしれないが、それでも何かの目印にはなるかもしれない。この暗闇の中で、選択肢はあまりにも限られていた。


 ドアストッパーをまたぎ越し、みゆりはほとんどすり足で慎重に進んだ。床はトイレと同じリノリウムのようだった。あたりを手探りしても、何も触れるものはなく、虚空がただつづいているだけだった。自分がまっすぐ歩けているのか、みゆりは不安だった。まっすぐ歩かないと、あいかを見つけても、元の場所まで戻ることができない。そして、元の場所まで戻れたとしても、この暗闇の外に出られる保証はない。


 この方角で良いのかどうか、みゆりには何の確信もなかった。ドアを前にしたときと同じ向きのまま歩いているだけだ。ただ、あいかもそうするだろうと思っていた。とくに理由がなければ、人はまっすぐ歩こうとするだろう。もしまっすぐ歩けるのなら。


 もう戻れないかもしれない。みゆりは不安に押しつぶされそうになっていた。暗闇の中で、みゆりは完全に孤独だった。これまで味わったことのないような、まじりけのない孤独。永遠にこの暗闇のなかをさまよいつづけなければならないのか。そう思うと吐き気がした。


 大きい花子さんの言っていた通りだ。みゆりはようやくわかってきた。小さい花子さんは、百パーセントの苦しみでできている。小さい花子さんが目に見えないのは、小さいからではない。そもそも存在しないからだ。この暗闇のなかで、存在を失ったまま永久に留まりつづける無の澱み。それが小さい花子さんの正体だ。みゆりが触れているこの深い暗闇こそが、小さい花子さんなのだ。


 みゆりは歩きつづけなければならなかった。無駄だとわかっていても、歩きつづけた。どこまで行ってもこの暗闇からは逃れられない。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。止まれば、あっという間に暗闇に飲み込まれ、小さい花子さんの一部になってしまうだろう。


 あいかは先の方でまだ歩いているだろうか? わからない。すでに追い越してしまったのかもしれない。あいかの身体はほどけ、この暗闇のなかに散らばってしまったのかもしれない。


「あいかちゃん!」みゆりは叫んだ。「あいか!」


 声は全く響かなかった。空気を震わせる声ではなく、心の中で叫んだ言葉のようだった。「あいかちゃん」みゆりはつづけた。つづけるしかなかった。


 もうどれだけ歩いただろう。何キロも歩いた気もするし、まだ十メートルも歩いてない気もする。しかしいずれにしても、だんだん疲れてきていた。止まることができないと意識すると、ますます疲労が重くのしかかるようだった。ゆっくりと、前に一歩一歩進めていた足が、今にも止まってしまいそうだった。そして、止まればこの暗闇に取り込まれてしまう。どこが自分の足なのかもわからなくなる。歩くという動作をつづけることが、自分がまだ消えていないことの唯一の証明になっていた。


 どこか遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。風もないのに、風で運ばれてきた切れ端のような声だった。みゆりはその声に耳を澄ませた。


 みゆり


 くり返し呼ばれた。しかし、どんなに待っても、どんなに歩いても、その声がそれ以上はっきりと聞こえることはなさそうだった。


「あなたは誰?」みゆりは言った。声はほとんど響いていないように感じた。もう一度大きな声で、「あなたは誰?」と言った。


 もう戻って


 声は言った。


「あいか?」


 みゆりは神経を集中して、声のする方角を探した。しかし、頭を動かして耳の位置を変えてみても、声の聞こえ方は少しも変わらなかった。


 もういいよ あたしは妹に会えたから あんたはここにいる理由がない


「妹さんに会えたって、どういうこと?」


 あたしたちはここにいるから ここでいいから


「あいかも小さい花子さんになっちゃったってこと? そんなのだめだよ。わたしの手を握って!」


 みゆりは前方に手を差し出した。


 もう遅い 戻って あんただけでも


「いやだ!」みゆりは叫んだ。自分でも驚くほどの大きな声が、暗闇のなかに響き渡った。「だって、ここを出たらわたしはあいかのこと忘れちゃう」


 忘れていいよ


「わたしだけがあいかに気づいていた。ずっと気づいてた。忘れることなんてできない」


 早く戻るんだ そうしないと あたしがあんたを捕まえてしまう


 みゆりは前に歩きつづけた。


 楽しいときは、ちょっと苦しい。みゆりは自分の言葉を思い出していた。しかしその言葉は空回りするばかりで、みゆりは楽しいことと苦しいことの距離を測りかねていた。


 本当に、ふたつは別々のことなのか。小さい花子さんには、本当に苦しみしかないのか。楽しかったことを、ひとつでも思い出せれば。苦しいときでも、ちょっと楽しければ。


「あいか。わたしは、戻ることはできない」みゆりは話をつづけた。「わたしは、あいかとお友だちになるために来たの」


 返事はなかった。みゆりはつづけた。


「だから、あいかを取り戻すまで戻ることはできない」


 あたしたち 会ったばかりなんだよ 他人だよ


「今は他人でも、すぐそうじゃなくなるから。あいかとお友だちになったら、楽しい予感しかないから。苦しくても、楽しいことちゃんと見つけられる」


 ここにいるのは苦しんで死んだ子どもたちだよ この子たちにはもう未来なんてない 楽しいことなんて永久にやってこない


「だから!」みゆりは言った。「この子たちの分も楽しくなろう。この子たちのこと忘れちゃうんじゃなくて。この子たちが楽しめなかった分、わたしたちが楽しめばいい」


 みゆり あたしの妹はもう助からないんだよ それなのに あたしたちだけで楽しめって言うの?


「楽しいときも、苦しみを忘れないこと。見て見ぬふりしないこと。わたしにはそれしかできない」


 何かが足に当たった。かがんで触ってみた。それはドアストッパーだった。


 そして目の前でドアが開いた。まぶしい照明の光にみゆりが立ちすくんでいると、誰かがみゆりの手をつかんだ。そしてみゆりは手を引かれ、ドアの外に出た。

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