第9話

 花子さんの話が終わった。「キウィフルーツは好き?」と言われて、ふたりは黙ってうなずいた。そして、花子さんは暗闇のなかに消え、しばらくすると緑色のジュースの入ったグラスを三つ、トレイに載せて戻ってきた。


 キウィフルーツ・ジュースを飲む前に、みゆりはドアの方を見た。細い縦長の光が見える。まだドアストッパーはちゃんとドアを押さえてくれているみたいだ。トイレの照明は人感センサーでスイッチがオンオフされるようになっていたが、明かりがついたままなのは、センサーがみゆりたちの存在をまだ捉えているということだろうか? 自分の身体がどこにあるのか、みゆりは一瞬、見失いそうになった。


 三人とも黙ってキウィフルーツ・ジュースを飲んでいた。ちびちびと、その沈黙を少しでも長続きさせようとするように。


 隣から音がするのでみゆりが見ると、あいかが泣いていた。すんすん、と控えめな音を立てて鼻をすすっていた。涙はこぼれていなかった。こぼさないようにしているのか、あいかの顔は少し上の方を向いていた。でも、照明に照らされて、目に涙がたまっていることがかえって目立っていた。


 みゆりは、さっきからずっとひっかかっていた。それが何なのかはまだわからない。花子さんの話を聞いているあいだに、思いつきそうなことがあったのに、なかなか思いつけない。


 楽しいこと、苦しいこと。


 そのふたつのちがいが、みゆりにはよくわからない。楽しいと苦しいは、そんなに簡単に分けられるものだろうか。大きい花子さんと小さい花子さんが姉妹なのだとしたら、楽しいと苦しいも姉妹のはずだ。


「楽しいときは、ちょっと苦しい」みゆりは言った。花子さんはみゆりの顔を見た。あいかはまだ上の方を向いていた。「苦しいときは、ちょっと楽しい」


「なんだい、それは?」花子さんが訊いた。


 みゆりにもよくわからなかった。わからないまま、言葉をつづけた。


「花子さんは今、楽しいですか?」


「まあ、それなりに楽しくやってるよ。好きな格好して、好きなことやって、まあまあ楽しい」


「‘まあまあ楽しい’ということは、ちょっとは苦しいんじゃないですか?」


「苦しくはないよ」


「本当に?」


「心苦しいとは思ってる。妹さんのことや、あの子たちのこと、何にもしてやれなくて。ひとりでこんなことしてていいのかとも思ってる。あんたの言うとおり、百パーセント楽しいわけじゃない」


「それじゃあ、小さい花子さんも、そうなんじゃないですか?」


「どういうこと?」


 みゆりは黙った。もう少しで何かがわかりそうなのに、自分が何を言おうとしているのか、見失ってしまった。


「あの子たちはまちがいなく、百パーセント苦しいよ」と花子さんは言った。「あんたの言おうとしていること、わからなくはない。でも、たぶんそれはまちがってる。あんたの想像を絶するような苦しみを味わってきた子たちなんだ。あの子たちの苦しみの前で、あたしたちは沈黙するしかない」


「でも、この世界には楽しいことがいっぱいあるって教えてあげれば……」


 みゆりはそう言いながら、自分でも中身の無いことを言っているように思えた。この世界に楽しいことがいっぱいあるなんて、みゆりは信じていなかった。ひとりぼっちのみゆりには、世界はむしろ苦しいことの方が多かった。


 それでも、楽しいことがいつか始まる予感はあった。しかしその予感がいつ生まれたのか、みゆりはうまく思い出せない。


「無駄だよ。みゆり。あの子たちはみんな死んでるんだ。暗いところに閉じ込められて、もう二度と出てこられない。この世界にどんなに楽しいことがあったとしても、その楽しいことをもう二度と味わえない。それがあの子たちの苦しみなんだ」


「でも……」みゆりにはまだ納得がいかなかった。花子さんの言っていることは正しい。しかし、正しいからこそ、そこにまちがいがあるようにも思えた。


 そのとき、あいかが急にシートから立ち上がった。そして、みゆりの前を通って、その場から離れていった。他のシートをまたぎこし、向かっていく先には、ドアの隙間の細長い光があった。


「あいかちゃん!」


 あいかは振り返らなかった。そしてドアを開き、向こうに出て行ってしまった。


「みゆり、あの子を今すぐ追いかけな」花子さんは言った。「嫌な予感がする」


 花子さんが手をかざすと、みゆりたちの席とドアとのあいだを阻んでいたシートの列が一瞬で無くなった。


「走れ!」


 みゆりはドアのところまでまっすぐ走り、薄暗いホストクラブを出た。「ちゃんと閉めてって!」という声が後ろから聞こえたので、ドアストッパーを取ってポケットに入れてからドアを閉めた。

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