第5話
みゆりのお母さんはびっくりしていた。みゆりが誰かを家に連れてくるなんて初めてのことだったのだ。
「お邪魔します。みゆりちゃんと同学年のあいかと言います」あいかはみゆりのお母さんに言って、美しい角度でおじぎした。
猫背のみゆりとちがってあいかは姿勢がいい。他人を警戒しているときはかなり口が悪くなるが、もともとは育ちのいいお嬢さんなのだ。
「何もおかまいできないけど、ゆっくりしていってね」
「もう遅いので三十分くらいで失礼します」とあいかは言って、みゆりと二階に上がっていった。
みゆりの部屋で、ふたりはベッドに隣り合って座った。みゆりがいつもの癖で、勉強椅子ではなくベッドに座ったら、あいかもその隣に座ったのだ。
しばらくそうして黙っていた後で、「漫画とか読む?」とみゆりは棒読みで訊いた。読まない、とあいかは答えた。当たり前かとみゆりは思った。そしてまた黙り込んだあとで、ようやくあいかは話し出した。
「あたしの妹が捕まってるんだ」
「妹?」
あれは友だちじゃなくて、妹だったのか。みゆりはなぜかほっとした。
「ああ。ひとつ下の妹。怖がりでさ。小さい花子さんの噂を信じて、いっつもあたしにくっついていた。それなのに、あたしのせいで」
あいかの次の言葉が出てくるまで、みゆりは何もしゃべらなかった。
「いなくなる前の数日間、小さい花子さんに捕まるってあの子はあたしに何度も訴えた。他の子が捕まるところを見てしまった、今度は自分が捕まるだろうって。あたしは信じなかった。捕まったという子はそもそも存在してなかったんだ。わざわざ妹のクラスの担任にも訊いてみたけど、そんな名前の子はこのクラスにはいないって」
「小さい花子さんに捕まると、その人に関わる記憶も記録もぜんぶなくなっちゃうから」
「ああ。でもそのときは信じてなかった。妹はあたしに構ってほしくて嘘をついてるんだと思った。それで、しつこいって、結構きついこと言っちゃったんだ。次の日、学校でずっとそのことを考えていて、やっぱり謝ろうと思った。ちゃんと話を聞いてあげるべきだったと反省した。でも、妹のクラスに見に行っても、あの子の姿はなかった。下校時間にまた見に行ったけど、やっぱりいなかった。そして、妹はその日帰ってこなかった。あたしだけがそのことに気づいていて、お父さんもお母さんも妹のことをすっかり忘れているみたいだった」
「わたしは気づいてたよ」みゆりは言った。「あいかちゃんのそばに空白ができていること。それをあいかちゃんが気にしていること」
「どうしよう」あいかは弱々しい声で言った。「大きい花子さんに相談に行ったのに、相手にされなかった。諦めなって。同じ花子さんという名前でも、大きい花子さんは小さい花子さんと成り立ちがちがうんだって言ってた」
「成り立ちって?」
「大きい花子さんは昔の子どもたちの遊びから生まれたんだ。夜の学校で肝試しするときに、お話の上手な子がでっち上げた怪談がトイレの花子さん。トイレの花子さんは子どもたちを怖がらせるけど、決して傷つけない。でも、だんだん学校の怪談は時代遅れになっていったし、学校も戸締まりをしっかりするようになって肝試しなんてできなくなると、トイレの花子さんは子どもたちの噂から消えていった。大きい花子さんは最近までほとんど冬眠状態だったんだよ」
「なんで今はホストの格好なんかしてるんだろう?」
「さあね。ふてくされてるんじゃないの。子どもたちから忘れられて、余生を楽しんでるんじゃないかな」
「でも、最近でも大きい花子さんの噂はあるよね」
「うん。ただし、小さい花子さんとセットで」
「小さい花子さんにねらわれたら、大きい花子さんに守ってもらえばいい」みゆりは、誰かが話していた噂話をそのまま暗唱するように言った。
「そう。そして、あたしもそれを信じた。信じるしかなかったんだ。あたしには妹を助ける力はないから。だけど、大きい花子さんにもそんな力はないって言われた。ただ、お守りはもらったけどね」
そう言って、あいかはみゆりにカードを差し出した。
「これ、名刺?」みゆりは言った。縦書きで、みゆりたちの小学校の名前と校章、そして「ナンバーワンホスト」と書かれた下に、大きく「花子」という文字が印刷されていた。こうして書かれると源氏名のようだった。
「その名刺を持っていると、小さい花子さんも簡単には手出しできないって。ただし、テリトリーがあるらしいけど」
「テリトリーから外れると無効ってこと?」
「そう。二階女子トイレ周辺が大きい花子さんのテリトリーで、一階女子トイレ周辺が小さい花子さんのテリトリー。階段のあたりは中立ゾーンになっている。みゆりの分ももらってきたから、あげるよ」
そう言って、あいかは名刺をもう一枚取り出してみゆりに渡した。「学校にいるあいだはカバンじゃなくて服のポケットとかに入れとけって。肌身離さず持ってないと効果が薄れるらしいよ」
「ありがとう」あいかが自分のこともちゃんと考えていてくれたことが、みゆりには素直にうれしかった。
「でも、これじゃ予防にしかならない」あいかは言った。「捕まった人を助ける力はないってさ」
「こんな名刺をつくることができるんなら、捕まった人を助けることもできそうだけど」
「そのことをさっきはずっと話してたんだ。だけど首を縦に振らないんだよ」
「助ける力がないってこと?」
「わかんない。もしかしたら、本当は力があるのに、隠しているだけかもしれない。だから、明日、また大きい花子さんに会いに行こうと思う。一緒に来てくれる?」
「もちろん」みゆりは言った。本当は、もうみゆりには大きい花子さんに会いに行く理由はなかった。名刺をもらったのだから、小さい花子さんにねらわれる心配はもうなくなっていた。それでも、あいかの誘いを断りたくはなかった。
「ありがとう」あいかはほっとした顔で言った。「ねえ、このうちに余ってるドアストッパーはない?」
「確かあったと思うけど、なんで?」
「明日は一緒に大きい花子さんと話そう。ドアはドアストッパーに任せればいい」
「誰かがドアストッパーを引き抜いて持ってっちゃったら?」
「そんな人いないよ」あいかは言って、少しほほ笑んだ。あいかの笑顔を、みゆりはそのとき初めて見た。
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