第2話

 同じようなシートとテーブルが見渡す限り一面に並んでいた。しかし、照明が当たっているのはスーツの人が座っている席の辺りだけだ。そこから遠ざかれば遠ざかるほど、シートもテーブルも暗闇のなかに沈んでいった。


 みゆりはその照明に照らされたところにたどり着くために、シートをふたつ乗り越えなければならなかった。シートは互いにぴったり隣り合って切れ目のない列をなし、その列を横切る通路はどこにもなかったのだ。運動神経のないみゆりには難儀な行程だ。靴を脱いでシートによじ登ったが、バランスを崩しシートごと倒れてしまわないか、おっかなびっくり進んでいた。


 コの字型の革張りシートの端の方に、そのスーツの人は座っていた。脚を組んで顎に手を当て、考え深げなポーズを取ってみゆりを見上げている。みゆりと同じくらいの身長の小柄な人だった。もしかしたら、小柄なのではなく、子どもなのかもしれない。


 茶色に染められた髪は肩の辺りまで伸びていて、何かで固めているのかところどころツンツンとがっていた。紫色の派手なネクタイはわざと緩められていて、その下のシャツは首元のボタンが止まっておらず、奥に細い鎖骨がちらりと見えた。何本かの指に派手な指輪がはめられていて、耳たぶにはピアスをしていた。


 こういうのテレビで見たことがある。みゆりは思った。ホストか、ヤクザだ。そのふたつがどうちがうのか、みゆりはあまりよく知らない。どちらかといえばホストの方が安全そうだけど、どちらにしても、みゆりには関係ない世界の人たちだと思っていた(お母さんが見ていた番組を隣で見ていただけなのだ)。


「座んなよ」と言われて、みゆりはコの字型シートの向かいの位置に座った。


 しばらく無言がつづいた。スーツの人はこちらを見下ろすようにややのけぞった姿勢をしていた。しかし、怖いという印象はあまりなかった。たぶんこれは、ヤクザではなく、ホストだ。みゆりはそう思った。でも、ホストと何を話せばいいのだろう。みゆりにはわからなかった。


「グレープフルーツは好き?」スーツの人は言った。


 みゆりはその質問の意味を考えた。この人は、グレープフルーツが好きかどうかを自分に聞いているのだろうか。もちろんそうだ。しかし、いろんなことが唐突すぎて、そんな当たり前のことにもみゆりは確信を持てなくなっていた。


「グレープ、フルーツは、好き?」スーツの人はくり返した。


「好きです」みゆりは言った。他に答えようもなかった。たとえグレープフルーツが嫌いだったとしても、好きだとみゆりは答えただろう。


 スーツの人は何も言わずに立ち上がり、照明の届かない暗い方に歩いて行って、やがて見えなくなった。床はふかふかの絨毯で、足音は聞こえなかった。


 ひとりでとり残されて、みゆりはガラスのテーブルを触ってみたり、スーツの人の前に置いてあったコースターを取り上げてみたりして時間を潰した。コースターは布製で、ずいぶんなめらかな生地でできていたが、とくに変わったところはなかった。みゆりはシートの背もたれに身を預けて、天井の方を見上げた。白くてぼんやりした光が上から注いできている。しかし、どこに電灯があるのか、それどころか、どこが天井なのかもわからなかった。光はまるで別の空間から降り注いでいるようだった。もしかしたらあれは、トイレのLED照明ではないだろうか、とみゆりはふと思った。この空間の上の方に小さな穴があいていて、そこから光が漏れてきているのではないか。


 気がつくと目の前にスーツの人が座っていた。いつのまにか戻ってきていたのだ。スーツの人が黙って何かを渡すようにこちらに手を差し出した。しかし手の中には何も入っていなかった。少しして気づいた。みゆりの前にグラスが置いてあったのだ。さっきのと色違いのコースターが下に敷いてあった。


 グラスにはジュースのようなものが入っていた。スーツの人も同じものを飲んでいるようだ。何も言ってくれないので、みゆりは小さな声で「いただきます」と言って、ジュースを飲んだ。グレープフルーツジュースだった。お酒は入っていないようだった。


 お互い黙ったまま、グレープフルーツジュースを飲みつづけた。スーツの人が先に飲み終わって、みゆりもつづいて飲み終わった。コースターの上にグラスを置いた。中に残った氷のせいでグラスにはたくさん水滴がついていたが、布のコースターがちゃんと吸い取ってくれていた。


「オレンジは好き?」スーツの人は言った。


 みゆりはグレープフルーツジュースよりどちらかといえばオレンジジュースの方が好きだ。でも、黙っていた。ジュースばかりそんなにたくさん飲めない。みゆりは目の前で手を振って、「もう大丈夫です」と言った。


 また沈黙が降りるのかな、とみゆりは思った。しかし、スーツの人はわざとらしいため息をついて、こう言った。


「あんた、しばらくここから出られないよ」


 みゆりは次の言葉を待った。しかしまた沈黙が降りただけだった。しかたなく、みゆりは聞いてみた。


「ここって、女子トイレですよね」


「ちがう。ここはあたしのホストクラブだ」


 やっぱりホストなんだ、とみゆりは思った。


「もしかして、トイレの花子さんですか?」みゆりは思い切って言ってみた。最初からそんな気がしたのだ。なんでホストの格好をしているのかは全く意味がわからなかったけれど。


「あたしは花子だ。でも、ここはトイレじゃない。あんたはトイレでグレープフルーツジュースを飲むのか? 飲まないだろう。だからここはトイレじゃないんだ」


 トイレじゃない、と花子さんは二回否定した。トイレと呼ばれるのが気に障ったのかもしれない。しかしみゆりはグレープフルーツジュースを飲んで、そろそろおしっこに行きたくなっていた。それでしかたなく、「トイレはどこですか?」と花子さんに訊いた。


「我慢するんだ」


「ええ?」みゆりは驚いて思わず声を上げた。


「いいか。この部屋のドアはこちらからは開かない。外からしか開かないんだ。あたしのせいじゃない。そういう決まりなんだ。誰かが外から開けてくれるまで待つんだな」


「いつごろ開けてもらえるんですか?」


 花子さんは肩をすくめた。みゆりはぞっとした。この空間に入ってから、みゆりがぞっとしたのはこれが初めてだった。


「もう漏れそうなんですけど」みゆりは情けない声で言った。


「ま、最悪の場合、そこらへんでやっちゃいなよ。なるべく遠くでね。臭うから」


「そんな……」


「グラスはたくさんあるから」


「はあ」


「グラスに出してさ。それをなるべく遠くのテーブルの上に置いてくればいいよ」


「はあ?」


「尿瓶だってガラスでできてるだろう? 似たようなものさ」


 そうか、言われてみればたしかに似たようなものかもしれない。そんな風に思ってしまうくらい、みゆりはもう限界に来ていた。「それではお言葉に甘えて」とでも言えばいいのだろうか。それがこの場で適切な台詞なのか、みゆりにはわからなかった。


「大丈夫です」みゆりに思いつくのはこの言葉だけだった。だから、そう言うしかなかった。


「本当に?」


「ええ、大丈夫です」


「顔色悪いよ。ほら。おでこで汗が水玉になってる」


「大丈夫です」


 ぜんぜん大丈夫ではなかった。もう何も言わず、今飲み干したばかりのグレープフルーツジュースのグラスを取って、暗闇の中へ駆けだしてしまいたかった。しかしそれは決してやってはいけないことだと思った。だって、ここにはさっきまでグレープフルーツジュースが入っていたのだ。グラスと尿瓶は似たようなものだ。しかし、このグラスにはグレープフルーツジュースが入っていた。グレープフルーツジュースが入っていたグラスは、未使用のグラスとはちがうし、尿瓶とはまったくちがう。


 使ってないグラスをもらおう。みゆりがそう思ったとき、何か音がして、みゆりと花子さんは同時にそちらの方を見た。さっきみゆりが出てきたあたりに細長い光の筋が縦に走っていたのだ。光の幅が徐々に広がっていって、そこに人影が立っているのが見えた。


 みゆりは急いでその光に向かって走り出した。手前のシートをよじ登り、乗り越え、もうひとつのシーツも同じように乗り越えた。そして人影のもとにたどり着くと、「どいて!」と叫んだ。人影が揺れて、横にどいた。そこをみゆりは走り抜け、元の女子トイレに戻ると、隣の個室に駆け込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る