第26話
あの後、美海はしばらく浮かれていた。
……正直、美海のことをどうこう言えないほどに、俺も浮かれていたのだろう。これ以上なくにやにやとニヤけ顔をした明莉に見つかって、散々な目に遭った。からかわれて励まされて、背をばんばん叩かれる。もはや暴力ではなかろうかというほどのやりざまだった。
しかし、反論できる箇所がなかったので、墓穴を掘らないためにも口は噤んだ。明莉に感情を気取られようものなら、もっと面倒なことになっている。戸尾と二人で突撃してきて、ダブルデートに変更されていたかもしれない。
そうでなくても、美海と二人で出かけることには変わりがないけれど。けれど、カップルの隣で二人にされる居心地の悪さを考えると、意識の割合が違う。それを回避できて、心底ほっとした。そうでもなければ、当日になってドタキャンをかましかねないほどに緊張していた。
それでなくても、朝からドタバタしている。練習中は、ジャージなどで済んだ。二人で買い物に行くのでは、服装が違ってくる。どれがいいのか悪いのか。明莉相手に気にしたことのないファッションショーを開催して、慌てて部屋を飛び出した。
余裕なんてものはない。美海に会う前にその状態で、買い物に行こうものならどうなるのか。高揚と緊張が胃の中でミックスされて、胃もたれしそうだ。それを幸福と捉えているのだから、感情がごちゃごちゃだった。
そうして、寮島の中央にある公園前の待ち合わせに向かう。今日はフリューじゃない。公共交通機関を使うことにした。
美海だって、合格したことで自信も持てたようだ。けれど、遊びに行くのに心配事はないほうがいい。美海のご褒美なのだから、一切の憂いなく楽しんで欲しかった。
徒歩で進む寮島の景色は、なだらかに過ぎていく。いつもはびゅんびゅん通り過ぎていくのだから、不思議な気持ちになった。美海と出会うために急ぎたい反面、この引き延ばされた時間がちょうどいいような気もする。
待ち合わせ場所に辿り着くと、美海は既に俺を待っていた。ロングカーディガンにショートパンツ。栗色の髪がポニーテールにされていて、爽やかな風が素晴らしく身の丈に合っていた。
私服を見るのは初めてじゃない。それでも、可愛さは今までの比ではなかった。自分がほとほとほだされて、籠絡されていることを体得する。分かりきっていたことだが、今更になって胸に迫った。
ひらりと手を振って迎えてくれる美海の元へ近付く。いつもよりも目線が近いのは、美海がソールの高いシューズを履いているからだ。
「ごめん。待たせた」
「ううん。私が早く来ちゃっただけだから。空船で動くの?」
「うん。水上バスみたいなものだと思う」
「勉強した?」
「……ちょっとだけ」
美海に伝えるなら、海の話題を介したほうがいい。あちらがこちらに来たのだから、とそれまでの生活を捨て置くわけでもないのだ。シーボードについても調べたりもしたが、そこまでの肩入れを伝えるつもりはなかった。照れくさくってならない。だが、どうしたって能動的に動いたことは通じてしまう。
美海が微笑むのを見ながら、
「ほら、空船場に行くぞ」
と歩を進めた。
離れた島同士を行き来するためには、大きな空船を使う。学園島内では、そこまで大きな空船ではない。マイクロバス程度のものだ。
そもそも多くの生徒がフリューで動くので、空船利用者は少ない。ただ、非常事態はあるし、複数人で行動する場合に選択するものはいる。基本的にはそれくらいの利用者しかいないので、空船は空いていた。
「静かなんだね」
「フリューと同じ仕組みで動いているからな。かなり工夫がされているらしい」
「フリューも静かだもんね。隣り合ってれば会話できるし」
「シーボードはそうじゃないのか?」
「水を掻き分けて進むからね。どうしてもうるさくって、あんまり並んで進むことに面白さは見出せないかな。会話できないわけじゃないんだけど、掻き消されることもあってちょっと困る感じ」
「でも、海を行くのも気持ちいいんだろ?」
「気持ちいいよ。風を切っていくのに波が加わる感じ」
「それは面白そうだ」
「機会があったら、海島に行くのもいいよね」
「里帰り?」
「ううん。こっちが故郷みたい。母方の祖母がこっちに住んでいて、そこに戻ってきたの。だから、里帰りにはならなくて、遊びに行くって感じになるね」
「そうか。もうこっちが実家になるんだな。じゃあ、今度遊びに行こうか」
「積木さんも誘う?」
「……戸尾も巻き込もう」
「戸尾君……?」
そういえば、戸尾のことを美海には話していなかったか。彼氏の存在は伝えたはずだが、詳細は伝えていないし、会ってもいないはずだ。顔くらいは知っているかもしれないが、直ちに繋がるとも思わない。
「隣のクラスの戸尾。明莉の彼氏だよ」
「そうなんだ。二人とも仲良いの?」
「男子寮に入り浸ってるくらいには、とても」
「ひゃー」
分かりやすく照れたような声を出す。こうも素直だと、嫌味も気まずさもない。からっと笑ってしまった。
「戸尾君はとっても寛容でいい彼氏なんだろうね」
「寛容?」
いい彼氏、までは分かる。友人と思しき相手であるから、貶めるわけもない。だが、具体的な人物像が出てくるほどのことでもないだろう。
首を傾げると、美海はこくりと頷いた。
「だって、積木さんが翔大君と二人で出かけるのを許してくれる人なんでしょ?」
「まぁ、それはそうだな。明莉が言い出したら聞かないっていうか……勢い任せってこともあると思う」
「でも、翔大君も変な気後れをすることもない関係を築けてるんでしょ?」
「ああ。そうだな。戸尾はいい男だよ。明莉の相手は、戸尾しかできないと思う」
「翔大君はちょっと積木さんの評価が厳しい」
「振り回されてるからな」
「仲がよくて羨ましいくらいだよ」
さらっと言われて、目を見開く。
自分たちの関係が周囲に仲良く見られていることは自覚していた。いかに翻弄されている相手だとしても、幼なじみとして今日まで付き合ってきたのだ。仲が良いのも事実だろう。だから、そこに驚きはない。
だが、それを羨まれるとなると話は違ってくる。ぽかんとした俺に、美海は緩く目を伏せた。
「私だって、翔大君と仲良くしたいもん」
「……仲良く、してるだろ」
仲良くの度合いを測りかねる。今は自分の想像が過大な面に帰結しかねない。それを抑え込みながら、体よく言葉を返した。
「積木さんには雑な態度も取るでしょ? 私とはそんなことないから、気を遣ってるのかなって」
「それは、なんかこう……違うだろ。確かに、明莉への態度は明莉のものかもしれないけど、美海との仲だって他にないよ」
紛れもない真実だが、自己申告では説得力に欠けるのだろう。美海が感受していないことを、言葉だけで伝えきるのは難しい。
「そうかなぁ」
「じゃ、何だよ。明莉みたいに振り回すのか? 美海が?」
「今日は我が儘する日だって言ったよ?」
「美海がそこまでできると思ってないよ。それに今日はご褒美でそうするんだから、特別だろ」
「特別かぁ」
特別。
示したのは状況のことだ。しかし、そんなものいくらだって意味を付け加えられる。そして、俺の中には付け加える感情が山積されていた。復唱されれば、尻こそばゆさが立ち上ってくるほどには。
また、その調子が噛んで含めるような。舌の上で転がすような。そんな音であれば、積み上がっていくものを体内に収めておけない。
ぷすっと漏れるくらいには、俺の感情は育ちきっていた。
「……他の子には、しない」
漏らしたものは、微少でしかない。極めて押し殺した低音だった。美海はぱちくりとこちらを見ている。それから、ほろりと相好を崩した。へらりと笑う顔に、心臓が高鳴る。
「嬉しい」
喜びを隠さない紅潮した頬に、胸がいっぱいになった。伝えてよかったという満足感。これ以上色々なものを封印しておけるのかという葛藤が暴れる。
可愛いという実直な感想で脳みそが埋まってしまっていた。
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