第25話
美海は真正面を見据えてから天を仰ぎ、大きく呼吸をする。その仕草は、俺のアドバイスが生きてのことだろうか。緊張していても、思考は働くらしい。
それから、美海の足が地面から離れていく。フリューに乗り上げるバランスは崩れない。アクセルが吹かされて、少しずつ舞い上がっていく。訓練では一メートルから始めたが、試験では二メートルを飛ばなくてはならない。
そこに飛ぶまで、美海には多少の時間がかかる。その間に吹き付ける風に、いくらかフリューが揺れていた。不安定な動きには心臓が痛くなる。
マジで吐きそうだな。
自分の順番や試験などに気を回す余力など欠片もない。自分の番が来たときには、気疲れで使い物にならなくなっているのではあるまいか。
しかし、こちらの過剰な不安状態が杞憂であるかのように、美海はきちんと二メートルほどに浮遊を成功させた。上がった後は、そこまで危なげはない。
ただし、これは微風であることが前提にある。突風が混ざった天候ではどうなることか。ごくりと飲み下した唾は渋い。
美海の上空からの出発は、静かだった。静かにスピードを上げていく。緩やかに過ぎるが、美海にはこれがスムーズに進み出せるスピードだ。それが分かっているから、俺はほんの少し肩の力を抜いた。
その安堵がよくなかったのか。そんなふうに、考えるくらいでもなければ、やっていけない。ぶわりと舞い上がった突風に心臓が干上がった。
「美海……っ」
呼びかけは、風が攫っていく。見上げ続けていた美海はバランスを崩して倒れかけている。冷や汗が背中を濡らした。
飛び出しそうになる身体を停止させられていたのは、まだ美海が踏ん張っていたからだ。そうでなければ、とても看過できる心境ではなかった。乱入すれば、不合格だ。
踏ん張っている。まだ。
と、強く自分の意識を引き止めた。締め過ぎた力みで、爪先が手のひらに食い込む。美海は右に倒れそうになるフリューのバランスを取っていた。必死になると、ばたつくところがある。咄嗟に左右が分からなくなるくらいにはまずい。
そう思うと同時に口が動いていた。
「左だぞ!」
美海から見た左を指させたことは、奇跡的だっただろう。咄嗟のわりには、最上な気の利かせ方だった。
空中で恐慌前の美海と視線が合う。率直に意思が通じたことが分かったのは、どういう原理だろうか。美海の瞳が曇天の中で輝く青空のようだった。そして、身体がバランスを取り戻す。
雄叫びを堪えられたのは、まぐれでしかない。ぐっと拳を握り締めて、大息を吐いた。吐いてしまったので、声が出なかっただけだ。
結果的には、異様な注目を浴びずに済んでよかったと思っている。そのときの俺は美海しか見えておらず、注目どうこうなんてことを考えていなかった。なので、明莉がにんまりとこっちを見ていたことなど、視界の端にも入っていなかったのだ。それが見えていたところで、美海への態度を改めてはいなかっただろうけれど。
そこからも、美海は風に煽られながらバランスを崩しては取り戻して、ゴールへと向かった。蛇行になっているところもあるが、天候を考慮すれば及第点のはずだ。
前にはもっとひどい状態の生徒もいた。存外、試験のように整えられると、乗り方が安定しないものはいる。比較して安堵するのも後ろめたいが、そうして気持ちを落ち着かせていた。
その間に、美海がゴールに到着する。着陸。ここが一番の踏ん張りどころだ。普通でも失敗が多い。風があれば難易度は跳ね上がる。美海も苦手意識を持っているようで、訓練中も何度かひやっとしたことがあった。
吸った呼吸が、ひゅっと音を立てる。自分の身体から漏れる異音に、緊張感が最高潮に達した。
信じていないわけじゃない。陳腐な励ましばかりだったが、どれだって本気で思っていた。美海なら大丈夫だ。だが、それは心配しないとは同義ではない。何かあったら、と不安はどこからだって、雨後の筍のように生えてくる。
そして、美海はその不安を取っ払うほどに、堂々とした動きではなかった。どこかふらつきながら、どうにかこうにか着地する。接着でたたらを踏んでいたが、転ばずには済んだようだ。
そのことに、どっと力が抜ける。そのまま膝をついてしまいそうになって、足に力を入れて踏ん張った。
ゴール後はゴール地点待機だ。言葉を交わすことはできない。しかし、美海はこちらをじっと見つめていた。
顔色が復活しているのかどうか。そのわずかな差まで視認できるものではない。ただ、遠目に見る分には、安堵の色が見えた。それを見ると、ますます心が弛む。
それから、達成感の波が襲ってきた。どこか泣きそうな気持ちになる。
一生懸命。そんな態度を取ることも珍しいのだから、こうした達成感を得ることだって、ほとんどない。あったとしても、学校や明莉から引き込まれた何かのイベントだった。そのときの達成感とは、格別に違う。
胸の中で吹き荒れる感情を飼い慣らすことができなくて、美海のそばに駆け寄りたかった。物理的な距離が設けられていて、本当によかったと思う。でなければ、俺は美海を抱きすくめていただろう。
そんな俺の代わりかのように、次の次に飛び立った明莉が、ゴール地点で美海に抱きついて喜んでいた。
「翔大君!」
危なげなく、というにはちょっとばかり風に煽られながら試験を終えた俺の元へ、美海が一直線に向かってくる。満面の笑みを浮かべた姿は、太陽のように煌めいていた。曇天など、どこかに吹っ飛ばせてしまえるのではなかろうか。
天使では?
「よかったな」
へへっと笑う顔つきは、今までにないくらいだらしがない。これだけおおっぴらに喜んでいるのを見れば、こっちまで嬉しくなる。
美海は興奮を隠しきれないのか。会話の距離を通過してもまだ、こちらへ近付いてきた。え、と思っているうちに、両手を掬い取られて握り締められる。白魚のような指先が、しっとりと絡みついてきて体温が上がった。
この勢いで抱きつかれなくてよかった、と本気で思った。そうなっていたら、俺は外聞もなく強い抱擁を返してしまっていただろう。手を握り込まれている分には、何も返すことができない。よかった。自分が信用ならない。
「翔大君のおかげ。本当にありがとう」
万感篭もったように囁かれて、握られた手を額に押し当てられる。呼気が手首に触れて、その吐息混じりの声が触覚からも身体に刻まれた。
「美海が頑張ったからだよ」
落ち着いた声が出たのは、空気に飲まれたからだろう。そうでなければ、みっともない声を出していたかもしれない。
そして、本当に手が拘束されていてよかった。そうでなければ、すぐそばにある頬に触れていただろう。自制心をどこに捨て去ってきたのか。風の中かもしれない。
「ありがとう」
「どういたしまして。ご褒美は決めたか?」
感謝されることは嬉しかった。しかし、放っておくと感謝を口にするばかりの機械になってしまいかねない。今までの傾向からしても、外れていないはずだ。それが分かっているから、会話を先へと進める。
美海はキラキラとした顔のまま、へにょりと眉を下げた。器用な表情だ。
「どうしよう。まだ、考えてる途中かな……何でもいいって言われると、何がいいのかよく分かんなくなっちゃって」
進めようとした話は、進め過ぎたらしい。急かして悪かったと思ったが、美海は楽しそうに考え込んでいる。楽しんでくれるのならば、それは嬉しい。
しかし、思考するのであれば、手を離してはくれないだろうか。手出しをしないで済むと安堵していたが、繋がれているときめきがないわけでもない。
「即座に決めることはないから、ゆっくり考えなよ」
「え~、でもご褒美でしょ? なんか、こう……今決めて、わくわくしたい」
どうやら、思ったよりもずっと興奮しているようだ。ご褒美にわくわくしてくれるのはいいが、それほど期待されるとハードルが上がる。
「じゃあ、わくわくを後に引き延ばすってことで」
「うーん。あ、でも、お礼のほうは考えたよ。何かプレゼントするから、今度一緒に遊びに行こう?」
それはもう、俺へのご褒美だろ。
軽口を叩きそうになる内頬を噛んで堪えた。それに、お礼だからご褒美で間違っていない。
しかし、それにしても。
遊びに行くなんて、今まで特殊行為に分類したことがない。たとえ、女子と二人だとしても、だ。何しろ、相手は明莉だった。だから、遊びという言葉はそのまま遊びであって、他意などない。
しかし、美海の口から聞くと感覚が違った。他意はないことだって同じだろうに。それでも、二人で出かけるという情報はでかでかと掲げられていた。
「それはいいけど……じゃあ、そのときに、俺からもご褒美をあげるよ」
「本当? じゃあ、ご褒美、翔大君に任せてもいい?」
「いいのか?」
思えば、感謝の仕方は美海に任せている。ご褒美をあげるのが俺となれば、任せられても変ではない。美海が欲しいものを叶える方式がいいと思っていただけだ。だから、向こうから求められるのならば、俺に否はない。
確認すると、美海は満面の笑みを浮かべたまま大きく頷いた。これはもしかすると、ハードルをぶち上げてしまったかもしれない。そう思いこそすれ、美海が喜んでくれるのであればそれで構わなかった。
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