第24話

 雨季を縫うような晴天。そうなることを祈って眠ったが、天候など人の気合いだけでどうにかなるはずもない。

 深いねずみ色がどんよりと空を覆う。試験日和とは言い難いその日。試験会場たる運動場に並ぶ前に、美海は緊張している様子を見せていた。いくらご褒美で一時的に気を紛らわせたとしても、直前まで能天気でいられるわけもない。仕方のないことだと、平凡的な励ましを投げて列に並んだ。

 順番は男女別の出席番号で、女子からスタートする。集合までは、きちんと列を成していた。しかし、一人目がスタートするころには、列は乱れている。

 不安なのは、何も美海だけではない。誰もが初めての試験なのだ。様子を見ていたいのは当然だろう。俺たちも明莉を含んで三人並んで群がるように天を見上げていた。

 美海と明莉は出席番号が近い。だから、一緒にいたのだろう。そこに俺が合流した形だ。美海は余裕がないのか。胸の前で腕を組んで、百メートルを直進する簡単な試験をこなす他の生徒の運転を見ている。声をかけることも考えたが、刺激しないほうがいいような気もして憚られた。

 適度に緊張しているほうが力を発揮できるものもいる。美海がその性質を持っているかどうかは分からないが、判断材料もない。ここで一か八かの賭けに出るほど、俺は無鉄砲ではなかった。

 明莉に緊張は見えないが、場を乱すほどにお気楽でもないらしい。その視線が不意にこちらを見上げてきて、眉間に皺を寄せた。

 正直に言って、試験前に言い募ってきかねない相手と話すのは精神衛生上避けたい。振り回され慣れていると言っても、すべてを躱せるわけでもなかった。特に今は、自身でも爆弾を抱えている自覚がある。突かれて動揺する弱点が着実にあるのだから、避けたい気持ちは強い。


「珍しいね」

「……何がだ」


 主語が省かれることなどよくある。それでも通じるからスルーしているが、だからっていちからゼロまで通じるわけではない。しかめ面の俺に、明莉は口角を持ち上げた。相手をしただけでもダメだったらしい。地雷が過ぎる。


「翔大がそんなに緊張しているなんて、珍しいよ」

「試験は初めてなんだから、珍しい緊張でもおかしくはないだろ」


 即座に答えられたのは、稀によくある上等な判断だった。ここでもたついていれば、明莉の顔はもっと愉快な顔つきになっていただろう。そうでなくても、十分に愉快だった。

 女子に告げる言葉でないとしても、実直にぶつけてやりたいくらいに、忌避感しかしない。上等な判断をしたって避けられないのだから、やはり地雷か何かだ。歩く地雷など、どうすれば避けられるというのか。


「美海ちゃんのことで緊張してるんでしょ」


 さっくりと抉った明莉の視線が、ちらりと美海へ向く。美海はそんな視線に気がつくこともなく、硬直したまま飛んでいる生徒を凝視していた。大丈夫なのか。渋い感情が過って、明莉の指摘が核心であることを知覚した。


「当たりだ」


 何がそんなに嬉しいのか。にこにこと絡んでくる。やはり、いいことはない。

 明莉の相手をする気苦労は、勘が良いところに起因している。良いほうに運べば、空気を読める調子のいいやつなのだ。俺相手には、エラーを吐き出しているに過ぎない。


「……だったら、何だよ」

「認めるなんて、本当に珍しいじゃん」

「教えてきたんだから、結果がどうなるのか気になるのは変じゃないだろ」


 表層に問題はなかった。辻褄も合っている。しかし、悪足掻きであることは誤魔化しきれなかった。

 幼なじみ相手というのは、こういうときに分の悪さを引き起こす。やに下がった顔は、見るに堪えない。今度こそ、本当にぶつけてやろうかと思ったくらいだ。


「いいことじゃない?」


 見透かしたうえで、表層の会話を続けてくる。こういう小賢しいことができるから、余計に引っ掻き回されている気分になるのだ。図星を突かれた八つ当たり半分だったかもしれない。


「だったら、いいだろ」

「そうだね。一生懸命になることはいいことだよ」


 図星、どころかより深いところを突かれたようだった。

 何事にもそれなりに付き合ってきたつもりだ。それが悪いことだとは思っていなかった。熱中できることだけが美徳ではないし、手を抜くわけでもない。だから、困ったことがあったわけではなかった。

 懸命になれることを羨むこともあったが、渇望はしない。その程度で済んでいて、悩んでいたわけでもなかった。いや、度々考えることくらいはあったかもしれない。だが、深刻性はなかった。

 だから、こうしてしめやかに突かれて、ようやく心中へ届く。

 美海への訓練へ熱中していたと言われれば、その通りだろう。美海に、という個人への感情の線も強い。何にせよ、こうして一生懸命になることは、珍しかった。

 明莉がずっと言っていたのは、そこなのか。こうも嬉しそうなのは、そうした性格的な変化に対してなのか。その元に寄り添っている感情なのか。後者はまだ胸底は明るみに出ていないと信じたいものだ。

 明莉は、もう言うべきことを言い切ったらしい。追撃してくることもなく、訳知り顔で隣に並んでいた。

 多分、ずっとこうなのだろうな、と訳もなく納得する。明莉との距離感は、ずっとこうだ。変な距離に当たり前にいて、無言であってもある程度の感情交換ができている。

 この特異さに怯まない戸尾が、明莉の彼氏でよかった。こちらだって、安心できるし、だからこその気遣いで済む。肩肘張らない友人関係を続けられる心地良さに大様でいられた。

 美海は、と視線を投げる。

 一心不乱に天を見上げているのを見て、もたげた思考は首を振って散らした。今はそんなことを考えている場合ではない。考えていたくもなかった。

 美海の成功を心の底から願っている。そこに、美海への感情は関わってはいるが、同一視はしていない。違う物事として捉えてもなお、成功を願っていた。


「月岡、準備に入れ」


 呼びかけがかかった途端に、美海は自我を取り戻す。その瞳がうろっと挙動不審に動いて、こちらへ向いた。偶然だろう。俺を意図して見つけようとしたわけではない。それでも、合ってしまったが最後だった。

 ぶわりと吹いた風が、美海の表情を更に情けのない顔にする。


「美海」


 まさしく、というタイミングで声をかけるのは躊躇われた。しかし、目が合っておきながらも口を開かないのも、それはそれで変だ。


「大丈夫だ。いつも通りにやれば、美海はやれるからな」


 どうしたって平凡になる。自分の無力さに絶句しそうだ。実際、美海の表情が晴れることはなかった。


「風、強いよ」

「一昨日もそれなりにあったよ。初めてのことじゃないから、心配しなくてもいい」


 どうすれば、この平凡さを払拭できるのか。そのことに、懊悩している時間はなかった。美海はもう準備に行かなければならない。平々凡々とした言いざまで、勇気が出るとは到底思えなかった。


「深呼吸して。最初はゆっくりでもいい。風の中を飛ぶのは気持ちが良いだろう?」


 美海はいっぱいいっぱいではあったようだが、言われれば行動を起こせるらしい。深呼吸を何度か繰り返す。それで顔色が晴れるわけではないけれど、身体の力は多少抜けたようだった。


「楽しんでこいよ」


 そこにパワーがあるとは、やはり思えない。

 それでも、美海はちょっぴり頬を緩めてくれた。たった、それっぽっちでも、一瞬でも。穏やかさを与えることができたのならば、俺の役目は全うできたと言える。乗るのは美海なのだ。俺にはこうすることしかできない。


「翔大君に、我が儘言うんだもんね」


 へらっと笑ってひとつ零すと、すぐに息を整えて


「行ってくるね」


 と、スタートラインへと向かった。その後ろ姿はピンと伸びている。

 大丈夫だ、と自分にも言い聞かせていた。人のことでこうも緊張するのは初めてだ。見送る栗色の髪の毛が風に揺れて乱れていた。




 美海が準備を終えたころには、明莉も呼ばれて行ったので、一人取り残されることになる。そうすると緊張感が昂って、胸元を押さえていないと肋骨が痛いくらいだった。

 そのうえ、先ほど一吹き。美海の髪の毛を揺らした風が、吹き続け始めていた。悪天候。雨の中よりも風の中のほうが運転が苦手なものは多い。そんな悪天候だ。

 それが不安をきりきりと高めて、肋骨だか胃だか、身体の内側が痛い。美海がスタートラインへ立つと、その緊張は競り上がってきた。よく吐かずにいられるな、と美海へ感服しそうになる。

 明莉が突いていた図星は、思った以上に的の中心の中心を捉えていたらしい。明莉の言葉に左右されている。こんなときに、そんな気質を持っていることを検めたくなかったものだ。そう思うと、いくらか気持ちが落ち着いた。明莉のせいで気持ちをコントロールできるのは釈然としない。

 だが、おかげで美海の姿を見ていられるのだから上々だ。美海の顔色は悪かったが、姿勢はいいし、フリューを持つ姿も形になっていた。そのままスタートを切ることができれば、どうにかなるはずだ。

 風に煽られることもあるかもしれないが、それくらいで不合格にはならない。この試験は最初の試験だ。

 基本ができていることを確認するもので、フリューの試験はこの先も時期を見て何度もあると聞いている。だから、最初の試験である今日は、天候の悪さを鑑みてくれるはずだ。落下や着陸に失敗しなければ。

 そして、不合格であっても追試の猶予は設けられている。これを落とせば終わるわけではない。とはいえ、緊張がなくなるはずもなかった。

 それは俺も美海も変わらない。実質的に飛ぶのは美海なのだから、あちらのほうが緊張感は高いだろう。

 ……多分。そう疑問を抱くほどには、図抜けて緊張していた。長く息を吐き出す。そうしたところで、気持ちが落ち着くことはない。


「それでは、月岡。準備ができたらスタートしてくれ」

「はい」


 教師はスタート地点とゴール地点に二人が待機している。フリューは移動手段で競技ではないので、スタートを急かされることはない。万全のタイミングで飛び上がれるというのは、大事なことだ。

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