第六章

第23話

 美海が復活したのは、それから二日後だった。正確には、一日後には熱は下がっていたらしいが、大事を取ったようだ。

 完全回復した姿は、ハツラツとしてキラキラと輝いている。……これは俺の目にフィルターがかかっている節が否めないので、口にはしなかったが。


「元気になって良かった」

「うん。お世話焼いてくれたんでしょ? ありがとうね。翔大君。助かりました」


 ぺこりと頭を下げられて、苦笑が零れた。どうやら、記憶があやふやらしい。それでよかったと思うべきか。無念に思うべきか。

 振り返れば、練習中に比べて度外れた接触があったわけではない。ただ、それが俺の心にクリティカルヒットしたというだけの話だ。


「どういたしまして。明莉も助けてくれたから、俺はちょっと運んだだけ」

「積木さんとはもう話したよ。翔大君がとっても大切に運んでくれたって聞いたし、めちゃくちゃ心配して寄り添っていたって」


 ぐっと喉が詰まる。事実と相違ないが、明莉が口にした内容よりも要約されているはずだ。それが分かるから、額を抑えて視線を逸らした。


「翔大君? どうかした? 私、何か困ったことしたかな?」


 ふわりとした問いかけに首を左右に振る。


「大丈夫だ。ちょっとふわふわしていたけど、迷惑なことなんてなかった」


 嘘は言っていない。迷惑ではなかった。狼狽えてときめいて七転八倒しているのは、俺の問題だ。

 はっきりと告げたことで、美海は安心したらしい。胸を撫で下ろすのが、視線を逸らしていても分かった。そりゃ、そうか。おぼろげな記憶というのは、不安になってもおかしくない。安心させられたのならば何よりだ。

 俺は姿勢を正して、美海へと向き直る。普段通り。赤ら顔ではない。健康的な顔色で、芯からほっとした。


「試験前に治ってよかったな」

「それを言うなら試験前に体調を崩して悔しい」

「頑張ってたんだから、ちょうどいい休憩時期だったんだよ。それに、雨に濡れたしな。仕方ない」

「翔大君は平気じゃん。それに、重なって守ってくれてたのに」

「馬鹿なんだよ」

「俗説で逃げられると思わないでよ」


 むっと頬を膨らませる。

 何気ない仕草は、今までだってたくさん見てきた。今までだって、十分可愛らしく見えていた。しかし、フィルターの入った目には眩し過ぎる。


「そんなこと言われても、ひかなかったものはひかなかったんだからしょうがないだろ。休めたんだからよしとしておこう。試験までもう四日だし、最終調整しなくちゃな」

「……そうだね」


 置かれた間に、飲み込んだ何かを気取ることはできた。しかし、風邪をひくかひかないかの運任せの二択を口論しあうのは不毛だ。美海だって、それが分かっているから飲み込んだのだろう。

 そう結論づけて、フリューを持ち上げた。


「やろうか」


 それを合図にして、自分たちが待ち合わせた理由へと邁進する。

 ぎくしゃくしたくはないし、するつもりもない。そこに突入しないためには、分かりやすいことへ集中するのが一番だった。

 美海だって、試験への最終調整に可否はないようだ。自信はついたようではあったが、自信だけで技術が向上するわけではない。

 曇天は続いている。風も強い。雨季の季節柄からしても、このままいけば試験日も同じような天候になるだろう。試験に向けて最終調整するには、うってつけだった。

 そうして集中すれば、余所事を気に留める暇もなくなる。俺たちはひたすらに訓練に励んだ。




 翌々日まで俺たちは放課後のすべてを訓練に費やした。

 明日を当日に備えた休みにしたのは、俺からの提案だ。美海はまだどこか不安げな態度を見せていたが、ギリギリまで根を詰めてもどうしようもないことは分かっているのだろう。休息も必要だ。風邪をひいた直後ということもあって、駄々を捏ねたりはしなかった。


「もう心配しなくても大丈夫だよ」


 駄々を捏ねるようなことはなかったが、不安そうな態度は消えない。

 言葉ひとつで払拭できるとは思えなかった。それでも、口にせずにはいられなかったのだ。美海は眉を下げて、力の抜けたように笑う。


「緊張はするもん」

「まぁ、それはな。何か頑張る理由があるといいんだけど」


 仮に自信があったとしても、試験と名のつくものは緊張するものだ。俺だって、緊張している。失敗を想像しているというよりは、成績がどうなるかというものだが。それでも何でも、緊張感はある。

 緩和させるための何かを考えて、組んだ腕の二の腕辺りを指先でぺしぺしと叩いていた。


「頑張ろうって気持ちはあるから大丈夫」


 美海は自分を鼓舞するように、両手を拳にして構える。

 そう思えているなら大丈夫なのかもしれない。だが、それでも微々たる緊張でも除去できないものかと頭を悩ませた。

 そうして、ひどく単純な答えに行き着く。あまりにも単純だったので、むしろハードルが高い気がしたが、こうなれば破れかぶれだった。それに、美海のために役立ちそうな発想は、どんなものでも捨てられない。

 あの日、諦観した気持ちの輪郭は明瞭に心の中に居座っている。


「……じゃ、無事にクリアできたら、ご褒美。何か考えといて」

「私に?」

「そうじゃなきゃ、誰にご褒美あげるんだよ」

「だって、翔大君だって手伝ってくれたんだから、ご褒美があってもいいんじゃない?」


 ごく自然に慮られるのは、最初から一緒だ。今日まで、お礼について物品や何でもを言い出さないで済む程度には抑えられていた。それが再発したようだ。


「じゃあ、それも美海が考えといて」

「私が?」

「美海がお返ししてくれるつもりでいるんだったら、それはそうだろ? 何でもなんて投げないでくれよ」


 あのときとは状況が違う。今、何でもなんてどこへでも意味を付属させられるものを投げられれば、俺は無様な欲望を曝け出しかねない。

 実際には、理性が自制を働かせるだろうけれど。けれども、脳内はてんやわんやであるし、一人であればもんどり打ちかねない。そんな胸騒ぎを切り抜けるために、先回りした。

 決して、卑怯ではない。はずだ。奇妙な発言でもない。お礼を自分の意思で行うのならば、考えるのもひとつだ。


「じゃあ、ご褒美とお礼ね」

「ああ。ご褒美は何でもいいから、遠慮するなよ」

「何でもなんて言ってもいいの?」


 まさか切り返されるとは思わずに、苦笑が零れた。美海に俺ほどの邪念はないだろう。それでも、何でもに食いつくほどには冗談を交わし合えるようになっている。それが思い出のひとつとしてカウントされるようにも。


「構わないよ」

「え~じゃあ、何かとびっきりの我が儘でも考えようかな」


 弾んだような音は、冗談なのが丸わかりだ。だが、緊張ばかりに気を取られなくなったようなので、目的は果たせていた。


「任せろ」


 笑ってやると、美海はきゃらきゃらと声を上げて笑う。楽しそうな笑顔が曇天に射す陽の光のようで、目を眇めた。

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