第22話
美海は瞬きをしている。潤んだ青色が波のように揺らいでいた。それを間近に観察していることに気がついて、覆い被さっている自覚が追いつく。
一度目は我慢できたはずの何かのスイッチが押されて、俺はその場に縫い付けられてしまった。静止はまずい。脳内は警鐘を鳴らしていたが、身体がついてこない。
美海は寝転がっているのだから、避けようもない。そのまま、停止して数秒。動いたのは美海のほうで、暖かい手のひらが俺の胸板へ突かれる。
近い。近過ぎる。寝かせることに視野が狭まっていた。それが無理やりに押し広げられたように、自分を俯瞰する視点が復活する。復活していいことなんて、ひとつたりともなかった。
ますます動揺が膨らんで爆発しそうになる。
「しょうたくん」
「あ、ああ」
美海がどういう意図で動いているのか。それを考えようとする脳みその余白すらもない。掠れた相槌のなんと情けないことか。自分の余裕のなさに気持ちが焦って上擦る。
「いつも、ありがとう」
「なんだ、よ。急に」
妄想に浮かされたような脳に、突発的に出された異物が違和感を生じさせて、少しの間ができた。その些末な間が、頭の回転をじわりと再開させる。
「いっぱい、めいわくかけてるから。甘えちゃってるなって、思ったの」
「別にそんなの」
甘えていないとは言わないが、重荷ではない。いや、正式にはそれでも構わない、だろう。心情は画然だったが、赤裸々にできるかはまた別だ。
抽出された言葉は意味のなさない要領を得ない尻切れトンボになった。
「こんなふうに、触れ合って甘えちゃうのは、しょうたくんだけ」
離れつつあった妄想に、寸刻で引き寄せられる。強烈な引力からは逃げられない。明莉のニヤついた顔が横切っていったことが、最高のダメ押しだったような気がする。
「俺だって、美海だけだよ」
「つみきさんは?」
「そう言うんじゃないって話しただろ」
「そうじゃなくても、幼なじみでしょ? ふたりとも、きょりが近いから」
「美海と触れ合うのとじゃ、ちょっと違うだろ」
掘り下げられたら、墓穴だ。分かっていたが、頭は回っていなかった。思考のフィルターを通さずにいれば、こんなことになるのは当然だ。
しかし、頭が回っていないのは美海も一緒だった。にわかに切り出したのも、熱のせいだったのだろう。どちらもふわふわしているのだから、目的地などない浮遊になるのは自然の摂理と言えた。そして、ふわふわしている美海は、深部に切り込むことなく緩く笑う。
「そうだね」
ふくふくと笑われてしまって、俺は目元を覆った。視界を塞がなければ、眩しさに視覚を失いかねない。
そうして動くことで、ようよう運動機能が戻ってきた。俺は美海の手を取って布団の中に戻すと、身を離して息を吐く。
俺が疲弊している理由に思い至るどころか、思いを巡らすこともできないのか。美海は緩々とした顔でいる。蕩けたように見えるのは、熱があるからだ。こんなことを考えている場合ではない。浮かれるべきときなんてものがいつかは分からないが、今ではないことだけは確かだ。
俺は咳払いで、空気を払う。実際に空気が入れ替わるわけもないが、少なからず俺の心中にはいくらか効果があった。いくらか、ではあるが。
「ブランケット、取ってくるな」
「うん」
相槌は首肯だったが、美海の瞳は移動する俺を追ってきた。寂しいと呟いた言葉が耳に蘇る。
……寂しい、と不意に一人暮らしをしている部屋を見渡した。
キッチンに一緒に買ったマグカップが置かれている。そして、机の上には家族の写真が置かれていた。
寂しい。とまたぞろ言葉を噛み締める。
熱の直接の原因は昨日の雨だ。心労なんてことにするつもりはなかった。けれど、こうも気が抜けているのは、そういう側面もあるのではないかと達する。
こんなものは、所詮こっちの勝手な邪推による思い込みだ。それでも、頭の片隅に残すくらいには、一考の余地があるものに思えた。
フリューの訓練は順調だ。空島の生活にも難儀している風ではない。大きな問題を抱えているわけではないだろう。だが、海から空。最初にすごいな、と感心したことが今になって重量を増した。
病気になれば、家族とともに慣れた土地に住んでいたって、気弱になる。それが、真新しい生活を頑張っている末ともなれば、破格になるのも頷けた。
俺はブランケットを持って美海のそばに戻ると、ベッドの淵に腰をかけてブランケットを布団の上からかける。美海は目を細めるばかりだ。
「いいよ。気にしなくて」
口を開くのも億劫なのだろう。先走ったかもしれないが、それでも俺が口を開くと美海は安らぐような顔で頷いた。
「明莉が戻ってくるまで、こうしてるから」
布団の隙間から手のひらを重ねて、美海を見下ろす。深い首肯を見届けて、頷き返した。美海は目を閉じて、息を吐き出す。
「ゆっくりしてろ。寝てもいいからな」
明莉が戻ってくるまで、どれだけの時間がかかるのか。ここまでどれだけ時間が経っていたのか。感覚は美海に奪われていたので、体内時計が狂いまくっていた。だから、まったく予測が立たない。
俺は、頷いて目を閉じてしまった美海を黙って見つめていた。睫毛が長い。髪の毛と同じ薄い栗色の瞳のカーテンは綺麗だ。できれば、熱に浮かされるような顔色でなければ安心できた。苦しそうでないのはいいことだが、それでも赤ら顔は気になる。
そうして見つめていると、普段との違いが目についた。薄く開かれた唇は、やはり苦しいのかもしれない。額と頬に流れる髪は、いつもよりもへたっているように見える。これは横になっているからだろうから、俺の主観が過分に含まれているだけだ。
重ねている手のひらも、普段よりずっと暖かい。……普段より、と比較対象があることに、苦笑いが零れた。
今、観察しているのは横に置くとして、日頃も同じくらい見つめているらしいと気がついて、苦味は深くなる。それは、さぞかし視線がうるさいのではないか。美海に思うところがあってもおかしくはない。
衝動的に、フリューの乗り方を監視しているからだと屁理屈を組み立てるが、無駄な足掻きであることは自分が一番よく分かっていた。
不安定な乗り方と、近頃の上達してきた運転を思い出せる。状態だって、ちゃんと見守っていた。
だが、同じくらい、風になびく栗色の髪の毛も、気持ちよさそうに目を細めて高揚感で頬を薄く上気させているのも、取っ手を持つ指の白さと華奢さも。何もかもがまざまざと脳内シアターに映し出される。
あまりにも鮮やかだったので、空いたほうの手で額を押さえてしまった。心の底から深い吐息が零れそうになって、音にならないように耐えた。
美海が寝ているのか。目を閉じているだけなのかは分からない。けれど、休養を邪魔したくなかったし、自分の考えに触れられてしまったら弁明もできない。くしゃくしゃと前髪を引っ掻き回す。
密室ってのは、よくないものらしい。他に運んでくれる人なんていなかったのだから、こうするしかなかった。それに、俺だって他の誰かに任せることはできそうになかったから、それはいい。
しかし、その後は自ら手を繋いで見守る道を選んでいた。自縄自縛しているだけだ。逃げ場のない袋小路に飛び込んでいる。馬鹿なことだ。
それでも、ここを離れることは考えられない。ずっとこうしているわけにはいかないことは百も承知だ。
当然、俺は自分の部屋に帰る。明莉と戸尾とは関係値が違うのだから、ここにいられる道理がない。いくら心配を盾にしたって、無茶があった。俺自身、そうしておける自信もない。だから、終わりはやってくる。こんな状況に飛び込む必要もなかったはずだ。
……ひとつも進展しない。思考が同じところを延々と回り続けている。
その間、美海から視線を外すことはない。それがすべての答えであるような気がした。何をどんなに考えても、言い訳を用意してみても、決着するところは同じだ。
美海を意識している。たったそれだけに過ぎない。
零れそうになる吐息は、どうにか飲み込む。吐いたところでどうにもならない。それに、今は美海への感情をひとつとして排出したくはなかった。そこまで極まっているのだから、もうどうしようもない。胸がぐだぐだと煮詰まる。
いっぱいっぱいで逃げ出したい気持ちが膨らむ反面、心配ともったいなさが掻き混ぜられていた。明莉の帰宅を願っているようで、願っていない。
いや、こればかりは帰ってきてもらわなくては困る。薬や飲み物など、必要な買い出しに行ってくれたのだから、それは困るのだ。分かっていても消えないから、煩悶と呼ぶのだろう。
美海は寝てしまったのか。すぅすぅと寝息が聞こえてくる。静かな部屋に響く音は和やかだ。寝顔も。このまま和やかに体調が回復すればいい。
今日まで無理をしていたのだろう。ここでゆっくりと休息を取ればいい。強引だが、試験前でよかったと思うべきだろう。
和やかさにあぐらをかいていた。二人きりの空間に気を許していたことは確かだ。来るべき者がいることが分かっていてもなお、気持ちを弛ませるほどに。
とん、と滑り込んできたノックに、肩を竦めて飛び上がりそうになった。
「翔大? 美海ちゃん? 入っていい?」
手を離して、一息を吐く。邪魔くささと安堵が一丸になって去来した。それを伏せて大股で扉へ向かって開く。
明莉も美海の症状が分からないままに、突貫してくれる暴虐っぷりは持ち合わせていなかったようだ。
ビニール袋をぶら下げた明莉が手を上げて応える。おしゃべりを減らす思考もあるらしい。空気が読めないわけじゃないから、明莉の自由さを努めて改善させようなんて思えずにここまでやってきたのだろう。
時々、本当に時々、外すことはあった。けれど、確実に外してはならないときには外さない。今はそのときのようで助かった。
「美海ちゃんは?」
「眠った」
「ふ~ん」
……訂正。美海を思いやる気持ちはあるが、俺をからかう気持ちは一寸たりとも目減りしていないらしい。それこそ平常運転で明莉らしいと思ってしまうのだから、こっちの慣れも問題なのだろう。
「一旦、入ってくれ。扉閉めて」
「あ、うん。これ、薬とスポーツドリンクと普通の水ね。数本。それから、ゼリーとかプリンとかも入れてあるから、冷蔵庫に入れてあげて。体温計とかは持ってるかな? 一応、買ってきたけど」
「それ、結構いい値段したんじゃないのか。払う」
「半分でいいよ」
「いや」
「大丈夫大丈夫。そういえば、保険医に連絡入れた?」
「あ」
大丈夫じゃないだろうと強弁しようとしたのを防ごうとしたわけでもないのだろう。連続した問いかけに、俺は間の抜けた音を上げた。
最善を取っているつもりだったが、やはり頭は回っていなかったらしい。その原因がどこにあるかは置いておきたい自省の部分だ。
「何やってんの。あたし、呼んでくるから、もう少し翔大が美海ちゃん見てて。すぐ戻ってくるから、余計なことしちゃダメだぞ」
「するか」
反駁と同時に明莉から荷物を受け取る。
「助かる」
「任せてよ」
にっと笑った明莉は、たった今閉じたばかりの扉を開いてあっという間に去って行った。頼り甲斐がある。それは間違いないのだが、爽快な気分で受け取れないのは、わずかに滲むニヤついた顔つきのせいだ。
この後、どれだけ突っ込まれるのか。奇襲されなかっただけマシだと思うべきだろう。もしもそうなっていれば、からかうばかりでは済まない。それこそ、本格的に押される。今までの比にならないアドバイスがぐんぐん背を押してくれるに決まっていた。
悪意でないだけに、たちが悪い。ましてや、自分がそれを享受してしまいそうなだけに勘弁して欲しかった。
ぐしゃぐしゃと前髪を掻き回して、明莉が買ってきてくれた厚意を冷蔵庫にしまう。薬などはローテーブルの上に置いておいた。
物が多くないのは、整えている最中だからだろうか。ここ最近の土日は訓練で潰れていた。買い足しに行く時間はなかったはずだ。
もう少し休日を作っておけばよかった、と反省する。
それを深く鑑みる間もなく、明莉が保険医を連れて帰ってきた。学校職員として寮に住んでいるので、生徒たちの急病について対応してくれる。すべてがすべてというわけでもないが、大抵のことには応対してくれた。
保険医がやってきてからは、物事はトントン拍子に進んだ。このトントン拍子は俺が美海の部屋を後にするところまであっという間だった。
さくっと明莉とともに後にした部屋に、後ろ髪はかなり引かれている。しかし、そうも言っていられないのだから仕方がない。
明莉は三階が自室らしいので、別れるのが早かったのが勿怪の幸いだ。速攻で二人きりの時間を突かれたので、その短い道中を躱して流してやり過ごした。
そうして、男子寮の自分の部屋に戻ったところで、ふらふらとベッドの上にうつ伏せで倒れ込んだ。
削れた何かに対する疲労感がどっと身体を重くする。避けたい疲弊ではない。しかし、だからと言って諸手を挙げて受け入れられるかと言われると、それはまた話が違う。
先々のことや今までのことに思考が飛び石のように飛んで跳ねて無秩序に動き回った。小さな子どもでも、もう少し自分のルールに従って動くものではないか。それほどぐちゃぐちゃに心を引っ掻き回されていた。
ふぅーっと深呼吸すると、自分の服からほのかに美海の香りがする。それにトドメを刺されて、喉を詰めた。
諦観というのは、こういうことを言うのかもしれない。
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