第21話

 二〇五号室。階数が百の位の数字になる。揺らし過ぎないように気をつけて、二階分の階段を上った。

 美海はずっと静かだ。具合の悪さが呼吸などに現れていないだけマシだと取るべきなのか。それとも、そうした出力すらできない状態にあるのか。背中にいる美海の状態が分からな過ぎて、急ぎたくなってしまう。

 だが、美海に負担になるような移動はできなかった。だとすると、確認する方法はひとつしかない。それもまた負担になるかもしれないが、心を砕かずにはいられなかった。


「美海、大丈夫か? もうすぐ着くからな」


 不安を拭うためではあったが、返事がないことも織り込み済みだったかもしれない。一方的でも、語りかけていなければ不安は取り除けなかった。それだけだ。

 それでも、美海は


「うん」


 とか細い声を上げた。

 その一言にどれだけほっとしたことだろう。

 それを糧にして、部屋へと向かった。美海は黙って体力を温存していたようだったが、状況は理解していたらしい。扉の前に辿り着くと、後ろから鍵が差し出された。


「おねがい」

「ああ」


 入っていいものか。その疑点はよぎらなかったわけじゃない。美海が願ったとはいえ、熱に浮かされている判断だ。信じてよいものか。そうした疑点はあったが、だからと言って、ここで日和ったところでどうしようもない。

 俺は一息を吐いて、美海の部屋へと入った。部屋の造りは男子寮の部屋と変わりがない。見慣れたレイアウトのはずだったが、見慣れているレイアウトであるからこそ、違いが浮き彫りになる。

 細々とした小物が、女性らしい柔らかいデザインをしていて、何かいい香りがした。詳細へ目を向けるわけにはいかない。息を整えて、ベッドへと向かった。

 ワンルームであることは助かったと言える。区分された寝室が存在していれば、入る障壁は高くなっていたはずだ。

 自分が思っている以上に……明莉に突っ込まれてもどうしようもないほどに、美海を意識していることを自覚させられる。それを振り払いながら、ベッドの端に立った。


「寝かせるぞ」

「うん」


 逐一許可を求める是非は考えていられない。プライベートの中でもプライベートなところに踏み込んでいる。どれだけ仕方がないといえど、尋ねずにはいられなかった。

 そうして、美海をベッドへ下ろす。しかし、弛緩しきった美海を安全に下ろすのは、なかなか手間取った。

 なにぶん、人をおんぶして運んだ経験などないに等しい。幼いころに怪我した明莉をおんぶした記憶があったが、下りるときは明莉が自力で下りたような気がする。つまり、実質経験はない。

 安全第一にすると慎重になり過ぎて、拙くなる。支えるように下ろしていると、美海はでろんと俺の肩口の身体を寄せてきた。抱擁しているようなものだ。昨日も、喜びの抱擁した。同じことだ。しかし、シチュエーションが違い過ぎる。

 昨日の抱擁には理由付けができた。今だって、看病とラベリングできる。それでも、昨日のやり取りを踏んだうえでこうすることを、無意識的に切り捨てることは難しかった。

 何よりここは、密室だ。人の目がどれほど人の行動や意識に影響を及ぼすのか。そんな体感を今したくはなかった。

 美海は目を伏せている。俺との接触に対して、何の感情も生まれていないようだった。大丈夫だろうか。具合の悪さが飛び込んできて、感情が引き締められる。優先順位を違うつもりはなかった。

 俺は抱擁した状態のまま、美海をベッドに横たわらせる。覆い被せるようなやり方には、口から心臓が飛び出しそうだった。紛らわせながら、布団をかけて額に落ちた髪の毛を払う。美海の伏せられた目が薄らと持ち上がった。


「ありがとう、翔大君」

「どういたしまして。寒くないか?」

「熱い」

「熱くても布団を脱いじゃダメだからな。明莉がドラッグストアに行ってくれてるから、薬を飲んだらすぐに休むこと。それでも下がらなかったら、病院に行くように。それとも、今からもう病院へ行くか? タクシー呼ぼうか? 寮に申請しておけば、スムーズに行くと思うから、そうして」


 滔々と話しているところで、くいっと服を引かれた。潤んだ瞳でこちらを見上げてくる美海を見下ろす。

 事務的だっただろうか。意識を塗り替えるために、早口になっていたかもしれない。自覚が芽生えるとこっぱずかしさが滲む。不安にさせてしまっただろうかと気持ちが揺らいだ。看病らしい看病をしようと躍起になっていたかもしれない。


「どうした?」

「――っ」

「美海?」

「いかないで」


 上手く聞き取れずに傾げた耳に、ぽつんとインクのように落とされる。じわじわと脳髄に染み渡って、鮮やかな色を広げた。美海の色がぶちまけられた脳みそが、不純物に驚いてバグる。神経伝達に支障をきたし、がちりと硬直してしまった。


「さみしい」


 夢うつつだ。朦朧としているのかもしれない。相手が俺だと分かっているのだろうか。そんな疑惑を抱きそうになるも、水っぽく揺れる瞳は俺を捕らえている。とても逃げられるようなものではない。

 服を引いている手へ、そろそろと手を伸ばす。引き剥がされると思ったらしい。ぴくりと跳ねた指先が、自らの意思で離れていった。細い指先が握り締められて痛々しい。力んでいるようには見えない弱々しい握りであるのに、胸を切り裂くような痛みがあった。

 その指へ手を伸ばす。息が詰まるような時間をかけて、美海の手のひらを握り締めた。滑らかな肌は吸い付くようで、ほの暖かい。昨日、触れたときよりも体温が高いのが分かった。


「しょうた、くん」

「明莉が帰って来るまでだ」


 明莉が戻ってきて、その後付き合ってくれるのかどうかは分からない。ただの買い出し役でしかないと割り切って、看病を丸投げしてくる可能性もあった。後押しのエンジンがかかっていたら、その公算のほうが大きい。

 美海はこくんと小さく首を縦に振って、力を抜いたようだった。指先からもそれを感じ取れる。

 どうかゆっくり休んで欲しい。

 そう黙って願いながら、体内はどごどごと血流が大騒ぎしていた。こっちの熱まで上がって、ぼーっとしそうになる。

 それを解決しようとしたら、無作為に口を開くしかなかった。気の紛らわし方のレパートリーの少なさに、頭を抱えそうになる。体力を消耗させたいわけでもないのに。自分本位だと思いながらも、沈黙したままに美海が横になっているそばで手を繋いでいることは難しかった。

 明莉の言葉を否定できる部分が皆目なくなってしまう。


「何か、したほうがいいことあるか?」

「うわぎ、ぬぎたい」


 浮かされている鼓膜は、脱ぐという単語だけを無性に鮮明に拾った。一人だったなら、物理的に頭をぶん殴って再起動させただろうが、そんな不穏な行動を取るわけにもいかない。機能不全と闘いながら、思考を落ち着かせた。


「……邪魔か?」

「ごわごわする」


 休日の訓練はジャージと私服半々だった。といっても、私服だってほぼジャージのような形だ。だが、ジャージだろうと何だろうと、訓練していた上着を着たままベッドに潜り込むことが心地良いわけもない。怠慢だった。

 しかし、と改めて美海を見下ろす。染まった目元。潤んだ瞳。薄く開かれた唇から漏れる吐息。シーツの上に広がった栗色の髪の毛。視覚情報が目の奥をちかちかと明滅させる。

 脱がせる。

 この子を引き起こして、腕から上着を抜いて、脱がせる。どれくらい密着せねばならぬのか。円滑にいけるとは思えない。思考が脳内でぐるぐると渦を巻いて嵐を作る。そんな場合でもないと言うのに、目が回りそうだった。

 美海はその間にも、ごそごそと布団の中で蠢いている。俺が手を握っているのと、身体が言うことを利かないという枷で成功していないだけだ。だが、その枷があってなお格闘するほどなのだから、それほど上着が邪魔なのだろう。


「……分かったから、動いて体力を使うな」

「ごめんね。めいわくかけて」


 端からひ弱な音ではあったが、それが更に加速してたどたどしくなっている。


「大丈夫。気にしなくていい。身体に触れるぞ?」

「……うん」


 頷くまでの間が、気にならなかったわけじゃない。だが、それを突いたところで詮無きことだ。

 やることはやる。余分な情報をくっつけてしまうと、平静を保てない。俺は辛うじて保てる平静を胸に抱いて、布団を捲った。

 呼吸が浅くなって、代わりに頻度が高くなりそうになる。長く息を吐いて、美海の背中に手を回して上半身を持ち上げた。美海も自主的に袖を引き抜こうとしているが、力が入らないらしい。もたもたとした動きに手を出して、着替えを手伝った。

 柔い感触が敏感に五感を通じてくる。接触した身体に、何度もぶつかる胸の膨らみの感触をどう遠ざければいいのか分からない。呼吸が乱れるのを堪えたところで、心拍数の乱れを制御できるはずもなかった。

 どうにか上着を脱がせると、大息が零れる。気力が減っていくのが可視化できそうだった。


「ありがとう……椅子のとこに、ブランケットがあるから、取ってくれる?」

「布団だけでも大丈夫じゃないか?」

「いちおう」

「分かった」


 言いながら、美海を再びベッドへと戻す。自力で動けるのかもしれないが、起こしたのだから、と身体が動いていた。

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