第16話
「大丈夫だよ。一緒に乗らなくても、一緒にはいるから」
どこか告白めいている。そうでないにしても、特別な響きはあった。やっぱり、自意識がそうしたものを含ませたのだろう。こっぱずかしさがじわじわと耳朶を熱くした。月岡さんが前にいてくれて助かった。
「……ありがとう。頑張るね」
「無理はしなくていいからな。怖いときは怖いって言ってくれよ」
黙られるほうが怖い。明莉ならそんな心配はいらないだろう。しかし、月岡さんであれば遠慮しかねない。恐怖を味わわせたくはなかった。
「うん、ありがとう。鷹宮君がいてくれれば安心できるから、大丈夫だよ」
「今の話じゃなくて、一人のときの話をしてるからな」
「分かってるよ。でも、鷹宮君が一緒にいてくれるんでしょ?」
「月岡さんが俺を許してくれるならね」
「何にも気にすることはないよ」
何にも、について直截に内容を共有しているわけではない。ただ、その何にもには、ここまでのやり取り一切合切を含んでいる。無条件にそう信じられたのは、お互いに狼狽した空気を共有していたからだ。
それは確実だとは言えないだろう。それでも、言葉を真に受けたとしても、おかしなこともない。俺は安心して吐息を零した。
「だったら、良かった。ひとまず、ちゃんと乗れるようになろうな」
「ちゃんと、ってどれくらい?」
確かに、地に足の着いた目標を立てるほうがいい。ちゃんと、なんてあやふやな指標では、慣れない人間にはつらいだろう。
「それじゃあ、試験に向けてってことでいいんじゃないか?」
「試験ってどれくらいできればいいの?」
「確か、外を走るんじゃなかったかな。障害物はあまり置かれないとは聞いたけど、その辺は毎年流動するらしい」
「鷹宮君、詳しいね」
「明莉から聞かされた」
約束を取り付けるように誘導した後から、明莉はフリューの授業に関する情報を垂れ流す蛇口と化していた。他のことも吐き出すが、俺へ情報を詰め込まなければならないと妄執しているかのようなありさまだ。
大抵のことは、月岡さんを落とすための手段だという文言がついている。取り合わないでいられれば良かったが、明莉の猛攻を撥ね除けることは難しい。いくら戸尾が仲裁してくれたとしても、明莉のかかりまくったエンジンにブレーキが利くことはなかった。
とはいえ、こうして有益に使えているのだから、強ち無駄でもなかったのだろう。
「積木さんも手伝ってくれてるんだね」
「楽しんでる節がある」
「私の練習を?」
きょとんとしているのが、背中からも分かった。正確には、月岡さんと近付くための手段になり得る訓練を、だ。その仔細を伝えるつもりもないので、曖昧に相槌を打った。
「まぁ、何にでも首を突っ込むやつだからな。とにかく、その試験を目標に据えよう。月岡さんだって、試験がパスできないと困るだろうし、ちょうどいいんじゃないか」
「そうだね。追試は受けたくないし」
「フリューの追試は一応、単位内では授業を受ければクリアできるけど、本免許に影響が出るらしい」
「本免許って繋っていない島同士を飛ぶためなんだよね? 空船が使えれば飛べなくてもいいけど……」
「月岡さんが困らないならそこまで重要ではないかもしれないけど、持っておいたほうが安全ではあるよ。いざというときのためにも」
「いざってある?」
「あんまりない。けど、誰かの緊急事態にフリューで飛ばせるってのは割と役に立つものらしい。緊急搬送だとかもね」
「そっか。じゃあ、最終目標は免許取得になるね」
「そのためにも試験だな」
「はい、鷹宮先生」
笑い混じり。真剣味は落ちるけれど、重くなり過ぎないのはありがたかった。俺だって、恩に着せたいわけたいわけじゃない。
「先生も頑張ります」
それらしい言葉を返すと、月岡さんは笑い声を立てて笑った。顔が見えない分、その細やかな笑い声が鮮明に響く。月岡さんの緊張は解けているようだ。
「じゃあ、先生。ひとつ、いい?」
「どうした?」
あちら側から発案があることは珍しい。
意識を確認されることはあったが、明莉発信だったり、事件が先にあってのことだったり。先生という教えを請う相手の設定を元にして投げられるようなことに心当たりがなかった。
何か運転において不具合があるのかもしれない。そう思うと、不安が渦巻く。平然と返答したつもりだったが、胸中はじたばたと暴れていた。
「堅苦しい呼び方はいらないよ」
「急だな」
「ずっと思ってたんだけど、なんかタイミングなくって。月岡さんって長いでしょ?」
「鷹宮君も同じじゃないか?」
「翔大君も長さは同じだから一緒でしょ? でも、私は美海だもん。月岡よりずっと短いよ」
「先生なんだから、むしろ礼儀正しくすべきじゃないか?」
出し抜けに引き合いに出された名前呼びに、面食らっていた。どぎまぎというよりも、驚いたというほうが正しい。と、信じたかった。
「じゃあ、私が翔大君って呼べば美海になる?」
「そんなに気になるか?」
呼ばれる自分の名前が、特殊に響く。俺を名前で呼ぶのは、主には明莉だけだ。気になっているのは俺のほうだった。
「こうして練習するようになるのに、他人行儀なのは何かもったいないなって」
「もったいない」
言わんとすることは分かるが、月岡さんが仲良くしたい対象として見てくれていることは嬉しい。
復唱してしまった俺に、月岡さんは言葉を探すように「うーん」と呻き声を上げる。そのうちに、諦めたのか。声が止まると同時に、月岡さんの顔がわずかにこちら側へと傾いた。仰ぎ見るには控えめだったが、頬が見える。横目がこちらを見上げているのが分かった。
「こういう感じなんだよ?」
ただでさえ、近い。それが、言うと同時に、月岡さんの頭が俺の胸元に触れた。とても近い。香りが混ざり合って絡むような妄想が走った。
月岡さんだって、そういうものを含んで漂わせたのだろう。冗談めかしていたって、察知したことは間違ってはいない。爆発的に心拍数が上がった心臓は痛いくらいだった。
「あのな」
反抗する俺の言葉を遮るように、するりと頭が鎖骨と首筋の間に擦り寄せられる。ぐわっと身体の中で沸騰したものの正体を掴むどころではない。激情だ。思わず、片手で月岡さんの腰を抱いていた。
月岡さんの頬に朱色が散らばる。それでも、逃げることはない。生唾を飲み込んだのは、無意識だった。
「翔大君」
「何だよ」
「翔大君」
繰り返しの要求が、じんわりと胸に届く。腰まで抱いておいて、今更じたばたしても遅い。
「美海」
舌先で転がした響きが可愛らしくて、どうしようもない感情が胸の中で暴れ狂った。
月岡さん、というクラスメイトが、美海という女性として形を成して強烈な存在になる。元々、意識に引っ掛かって消えない存在だった。それが確固とした輝きを持ってしまえば、もう逃れることはできない。
「よろしくね?」
何を。と口走りそうになる自分の手綱を強く握り締めた。当たり前だ。何をとは何だ。訓練以外の何があるというのか。
「ああ、よろしく」
返事をするのに耳元を避ける余裕はなかった。
それから一週間。毎日放課後に練習場を借りて、土日も返上で練習を続けている。戸尾との遊びは明莉直々に延期を言い渡された。スピードに慣れた美海は、少しずつ上達のスピードも上げている。
二人乗りの成果は十分にあった。恥を忍んでよろしくと交わし合ったことも、成果に影響をもたらしただろう。
実に単純なことだが、呼び方が変わるだけで対応力が変わった。屈託ない言葉を交わすことも増えて、注意や抽象的な感覚を伝えることにも躊躇がなくなったのだ。
それだけが上達に作用したとは言えない。だが、妙な遠慮を挟んだ状態では、一週間でこうも成果はでなかったはずだ。少なくとも、俺は今の状態はよいことだと思っている。
実質、一週間。もう練習場を走るのならば問題はなくなっていた。
「そろそろ、外で練習しようか」
「……本当に大丈夫かな?」
いよいよもって伝えたはずだが、自信がついているわけでもないらしい。へにょりと眉を下げて、不安を投げかけてくる。俺の判断であれば大丈夫と思っているのは、信頼されているようでくすぐったい。
「ちゃんと、パラシュート装着で地面から一メートルから開始だから大丈夫。練習場じゃ高いところから飛べてるだろ」
「でも、外は気持ちが良い分、色々あるでしょ」
「風向きでもバランスの取り方に色々あるからな。でも、一度走っただろ? 一メートルくらいなら、大丈夫」
いくら大丈夫だと太鼓判を押したとしても、絶対とは言えないし、美海だってそう思うことはできないだろう。俺だって、重ねたところで保証を伝えきることができるとは思わなかった。
「いざとなったら俺が下に入るから心配するな」
「それはそれで別の心配があるんだけど!?」
ぎょっと食いつかれて苦笑する。威勢良く声を上げることも増えた。気さくになったと言えば、明莉とは違って微笑ましさが上回る。これは贔屓だろう。どっちに対するものかは明言するつもりはない。
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