第17話
「美海なら軽いし、抱き留めるのも無理じゃないよ」
一メートルくらいなら問題ない。俺自身が百七十以上あるのだから、抱き留めるのに弊害はないはずだ。
自信を持って告げたというのに、美海は唖然としている。
「何だよ」
あんまりにも唖然とされるので、自分の発言に不安が膨らんだ。
落とすなんてこれっぽっちも思わないけれど、こうまでされると妙な発言をしたのではと揺らぐ。美海は未だに驚きから立ち直れていないのか。まじまじと俺を見る。何がそれほど驚嘆に値するのか分からない。
「……翔大君って時々、めちゃくちゃ男前って言うか、そういうことしれっと言うよね」
「何でだよ。危ない目に遭っている子を助けるのはおかしくないだろ。一緒にいるって約束したんだし」
約束は多少過言だっただろう。明言したわけではない。けれども、そうした発言をした過去はある。そして、美海だって拒否していない。それを取り出した俺に、美海は表情を崩した。
「そうだけど、そこまで律儀に助けてくれるとは考えてないよ。抱き留めてくれるって結構ロマンスだと思うけど」
「それこそ、今更だろ」
こう言ってはなんだが、初手の事故は抱き留めたようなものだ。美海も何を切り取っているのか見当がついたのだろう。目を逸らした。
「気にしなくていいよ。ちゃんと捕まえるから、安心して練習しよう」
「ありがとう。翔大君の精神がイケメンだってことがよく分かったよ」
「過大評価」
物々しいことを言っているつもりはないし、見ると決めた世話を途中放棄するつもりはなかった。それに、目の前で人が落下するのをみすみす見逃す勇気もない。
「そういうところなんだけどな」
首を傾げながらしみじみと零される。どれだけ言われてもピンとこない。そして、美海はそんな俺の状態を分かっているようだった。
食い下がっても仕方がないと諦めているらしく、フリューを手に取って乗る準備を始めている。動きがナチュラルになったことはいいことだ。如何せん、評価が腑に落ちないというだけで。
「ちゃんと、パラシュートも着てくれ」
「これ、着ておくだけでいいんだよね? 何かしておく必要がある?」
「着ておけば大丈夫だ」
大丈夫を馬鹿みたいに連呼していた。かえって不安になるのでは、というくらいだ。
だが、一度会話が横道に逸れたのが良かったのか。美海は法外に気にしている様子はなかった。こちらとしては驚愕されるばかりで釈然としないが、心労を軽くすることができたのならば御の字だ。
美海は淡々と準備を進めていく。俺は美海の隣にフリューを持って並んだ。
「一緒に行くの?」
「ああ。そうする。それなら、すぐに支えられるし。抱き留めるまでいかなくてもいいかもしれない。そっちのほうが美海だって安心だろ」
「そうだね。翔大君が怪我したら心配だもん」
「気をつけるよ」
俺自身は、自分のことをさして気に留めていなかった。もちろん、事故を起こさない警戒と備え。そうした心構えを忘れるつもりはない。
しかし、今まで自分がフリューで負ってきた怪我は、走って転んだ擦り傷と大きな差はなかった。そうした経験があるものだから、勘定に入れることに迷いはない。そんなことを言えば心配されるのは分かっているので、慎んで忠告だけを口にした。
美海は深く頷いて、それからフリューへ乗る。一メートルの上昇。当初と違って、美海はそれを難なくこなす。
隣に並ぶと深く息を吸い込む音が届いた。それから、前を見据える。ちゃんと前を見るように、としたアドバイスを美海は律儀に守っていた。それが乗り出すときの癖になっているようだ。
ルーチンをした美海と一緒に、アクセルを吹かして飛び立つ。初速に問題はない。そこから五十メートルほどを徐行で進んで、美海はフリューを着地させた。最初から長く走らない見極めは信頼が置ける。
地面に足を着けた美海は、深く息を吐き出した。
「どうだ? 行けそうか?」
「もうちょっと慣れないと怖いかな? それに今は隣に翔大君がいてくれるから軽減されてるだけかもしれない」
「……一人で走ってみるか?」
「一人」
練習場を数周できるようになるころには、一人で悠々と走っていた。マットで安全性が保たれていたからと言われればそれまでだ。それでも、一人で走ることにも慣れてきていたはずだった。その美海が復唱する音は壊れそうなほどに弱々しい。
「怖いか?」
「地面だよ?」
「じゃあ、前で俺が待ってるってのは?」
「前?」
「ゴール地点で待つ。そうだな……五十メートルの徐行。今と一緒でいいから」
美海は下唇を噛んでフリューを見つめている。敵対しているかのような鋭さが迸っているのは、苦手意識が削がれていないのを痛切に感じさせた。
初手、落下。
経験は安易に拭えるものではなかった。こればっかりは、俺の努力ではどうにもならない。せいぜい、こうして手を貸すしかできないのだから、黙って美海のペースを待った。
沈黙は長い。急かすつもりはなく、ざわつく風と曇天を見上げていた。天候が崩れてしまえば、運転は更に難しくなる。決断するのであれば、という感情がもたげた。
だが、焦らせるのも本意ではない。じりじりと待っている間は、実際はそれほど長くなかったかもしれない。美海は覚悟を決めた顔を持ち上げてきた。濃い青の瞳に、ぎらりと熱意に満ちたような光が輝く。
分かりやすく、好ましい。
「やってみる」
「分かった。待ってるから、急がなくていい。いつもみたいにゆっくり。気をつけて。危ないと思ったらパラシュートを開くこと。この紐を引く。いいな?」
美海は深く頷く。その深度を使い分けていることは、もう分かっていた。首肯だけでも心配はいらない。
俺は先にフリューで移動して、美海へと向き直った。止まる以上はフリューで待ち構えている必要はないために着地する。手を上げると、美海が再度頷くのが見えた。
五十メートル向こうくらいなら、注視していればその仕草を目視できる。空島の住人は視力が良いと聞くが、その比較はどことしているのかも不明の眉唾だ。今は美海の動きを視認できていれば良かった。
鈍重に上昇する美海の高さは、一メートルよりも少し低い。そこから徐行が始まる。徐行というにも鈍いが、正面に人が待っていることを考えればそうなるのも頷けた。脇に避けると美海はショックを受けた顔になったが、そばに留まっていれば少しは安心したらしい。
俺がいる、ということが重要なようだ。美海に頼られているのは悪い気はしなかった。すっかりほだされている。
その姿をじっくりと見守っていた。凝視している時間は、今日に限らず長い。風になびく栗色の髪の毛が、さらさらと流れている。曇天のせいで輝きこそないが、暗さの中を優雅に泳ぐ糸は美しい。室内では感じ取れない自然風が、美海の周りを漂っている。
練習場内でも、綺麗な姿だった。そこに魔法がかかったような煌めきが増す。見守っているのか。見惚れているのか。自分でも判断はつかない。肝要な部分は見ている、という部分であるから、どっちでも構わないだろう。
美海は俺が純度のみで見ていないことにも気がつかずに、時折俺の姿を確認しながらこちらへと近付いてきた。そばにくると、いつでも飛び出せるように身構えてしまう。これは習い癖かもしれない。手の届く範囲では、構えずにはいられなかった。
美海が落ちると本気で疑っているわけではないが、もしもはあり得る。特に環境が変わった今日は、断然危険度は高かった。そして、その危機意識は概ね正解であったらしい。
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