第18話
ゴール地点に辿り着いたと同時に、美海は力尽きてしまったようだ。停止するまではよかったが、下りる段になってふらりと揺れた。そこにすぐさま身体を滑らせて手を差し出す。目を見開いた美海が、腕の中へと飛び込んできた。
美海も落ちたくはないのだろう。こちらが背を支えて抱き留めるのと、あちらが首に手を回して縋ってくるのに差はなかった。よそから見れば、抱擁に見えたであろうほどに。
「大丈夫か?」
「ちゃんと飛べたよ」
「ああ」
「よかった」
安堵したように弛緩して、こちらに身体を預けてくる。着地の瞬間であったから、どちらにも負担はない。本当に、ただただ抱擁しているだけにも等しかっただろう。間を置いて身体を預けられると、甘えられている気分になった。
「よく頑張ったな」
「翔大君がいたからだよ。本当にありがとう」
「こら。感極まるにはまだ早いだろ」
それくらい、美海の中では劇的な何かがあったのだろう。その中身を看破することはできなかったけれど、感情の変化だけは感じ取れた。だから、否定はしない。けれど、ありがとうにはまだ早いのもまた事実だ。
「ふふっ。だって、とっても嬉しかった。一人でできるようになるって、とっても自信になるね」
抱きつかれているので、顔が見えない。けれど、弾んだ声が。抱擁となってしまっている腕の力強さが。そのひとつひとつが入念に感情を伝えてきた。
身体の間で潰れている柔らかな塊には、気がついていない振りをする。その背を叩いて、興奮めいている美海の感情を落ち着けようとした。もしかすると、柔和さへの動揺を収めようとしているだけであったかもしれない。
「美海がそう思えたんだったら、やった甲斐があったよ。おめでとう。とにかく、一旦落ち着いて」
「だって!」
ぱっと顔を上げた美海は、相当に近かった。抱き合っているも同じなのだから、そんなものは当然だ。
しかし、その近さに毛ほども怯まない美海の勢いは侮れなかった。喜びを伝えようと前のめりになっているものだから、口を開こうとすると唇が触れるんじゃないかと思うほどに近い。
実際には、そこまでではないことは分かっている。視認がおかしい。分かっているけれども、それほどパニックになっていた。
「分かった、分かった! 俺も美優がそうやって自信を持ってくれて本当に嬉しいから、落ち着いてくれ。頼むから!」
口を開けば、近さはより生々しく感じられる。その感覚が美海に冷静さを取り戻させてくれればよかった。しかし、興奮状態にそんな視野の広さが生まれるわけもない。
「嬉しいんだもん」
顔を伏せて胸板にじゃれついてきてくれるのは、顔を突き合わせているよりはいくらかマシだ。キスの可能性への気苦労はなくなったが、じゃれついてくる仕草の可愛さは跳ね上がる。背を叩いていた手が撫でているようになっているのは、自制心がなくて始末に負えない。
「じゃあ、この調子で練習を繰り返していこう。頑張れそうだろ?」
「うん!」
顔を上げて頷く顔は、いつになく晴れやかで前向きだ。どこか自信なさげな表情が抜けなかった。それがなくなって、こうも無邪気に頷けるようになったことは、本当に嬉しい。
それはこちらにも自信と達成感をもたらしてくれる。晴れていればもっと爽快な感情になれていたかもしれないのに、と惜しむ程度には感情移入していた。
こっちの感銘をよそに、美海はするりと腕をすり抜けていく。ほっともしたが、無念さも湧き上がった。
しかし、この調子と勧めたのは俺だ。美海の動きに静止をかける理由もない。やる気を削ぐつもりもなかったので、俺はそこから美海の練習にひたすらに付き合った。
一度自信がついたらしい美海は、練習場と同じように自由に移動することができている。一メートルという高さに変化はなかったが、それでもこれだけ運転できれば楽しいだろうというレベルにはなっていた。
本人が実力に満足しているかどうかは定かではないが、楽しそうではある。だから、俺も楽しんでそれについて回った。
慣れきっているどころか、散歩が趣味。そこまでに至っている側としては、走りだけに着目すれば物足りなさはある。だが、それ以上に泰然と運転できている美海の姿が胸を満たした。
その様子に見惚れて、夢中になっていた。目を離すわけにはいかないのだから、それで構わなかったはずだ。しかし、そのせいで周りへ意識が向いていなかったのは落ち度だろう。
ぽつりと雨が降ってくるその瞬間まで、俺たちは曇天が悪化していたことにすら気がついていなかった。あ、と思った瞬間には、ぽつぽつと一気に雨粒が打ちつけてくる。
「美海、今日はもう引き上げよう」
「うん。そうだね。ありがとう、翔大君」
手応えを得られたからか。いつにもまして感謝がぽろぽろ落ちてくる。比較的普段からそうであるので、太っ腹過ぎる大盤振る舞いだ。
「どういたしまして。このままフリューで寮まで帰るか」
「隣にいてくれる?」
「どうして離れる必要があるんだよ」
そんなことは一瞬でも考えたりしなかった。真っ正直に答えると、美海は目を瞬いて頬を赤くする。そして、ぽすんと二の腕に力なく拳がぶつけられた。殴るというよりも、押し当てるといったほうが正しい。
「そういうとこ!」
「なんだよ」
「ずっと一緒にいるってしれっと言っちゃうところ。勘違いされるよ」
勘違い。
脳内で噛み砕いたところで、ようやく意味の付随がいくらだってできることに気がつく。緊張が昂って耳の裏が熱くなっていった。
「美海はちゃんと意味分かってるから、いいじゃん」
こうなると、開き直るしかない。目を逸らして取り繕うように呟いた俺に、美海が二の腕に押し当てていた手のひらを開いて抱きついてきた。ぎゅっと触れる柔い感触が、視線を吸い寄せられる。
「勘違いしたら、どうするの?」
下から上目遣いで見上げられて、がちんと身体が固まった。
その隙に、美海はぱっと身体を離してフリューを手に戻ろうとし始める。雨脚を考えれば不自然ではないが、踵を返した美海の耳が真っ赤になっているのを見たら、情動に突き動かされていた。
去ろうとしていた手を掴んで引き止める。後ろに立てば、耳元で喋ることになった。そんな企みがあったわけではなく、結果的にそうなっていただけだが。
「勘違いじゃないって言ったら、どうするの」
自分でも予期しない言葉だった。煽られただけか。本心がまろびでたのか。どちらにしても、低い声に混じりっけはなかった。
こちらを振り返った美海の顔が、熟れたように赤くなる。どうしようもなく胸をかきむしりたくなった。その頬に手を伸ばす。熱いのは、美海の顔か。俺の手か。そんなことはもうどうでもよかった。
どちらともなく、距離を詰めていく。どうするつもりだったのか。美海以外のすべてが遠のいて、一点に集中していた。もう少し。くっついてもおかしくないほどの距離へ近付く。それでも、異常な至近距離でないのだから、許容範囲がバグっていることを自覚した。どくどくと高まっていく心音がやかましい。
しかし、その中にどぼどぼと邪魔立てする音がぶち込まれた。はっと目を見合わせる。肌に当たる雨粒が痛い。
「帰ろう」
掴んでいた腕をそのまま引き寄せてフリューに乗せる。
「ちょ、っと、翔大君?」
「雨の中の運転はまだ早い。送ってくよ」
「まま、待って待って」
慌てているのを無視して、美海のフリューを後部に載せて固定する。持ち運べるようにフックカスタマイズしていてよかった。それを利用して、逃げようとしている美海を後ろから抱きしめるようにフリューに乗り込む。
「しょうたくん」
いっぱいいっぱいになってしまったのか。小さな子どものような拙い音が名を呼ぶ。それは俺の行動を引き止めることはなく、むしろ一層の庇護欲を刺激するばかりだった。
「帰ろう。濡れる」
「でも、これ」
「誰も走ってないよ。大丈夫」
強情に進められたのは、勢いでしかなかっただろう。一瞬でも我に返っていれば……一瞬でも、美海が俺を心から拒絶していれば、こんな行動はできなかった。
けれども、腕の中に閉じ込めた美海は困惑こそすれ、拒絶はしていない。その差分が分かるほどには、打ち解けている自負があった。それだけを軸にして、俺はアクセルを吹かす。
雨脚の強まる中を、美海を女子寮まで運んだ。
「ありがとう、翔大君」
騒々しい雨脚の中で淑やかに落とされた言葉だけで、女子寮への寄り道だって苦にならない。美海が少しでも濡れなければ良いと、その身体を抱き込んで進んだ。
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