第五章

第19話

「あ、翔大だ」


 翌日の土曜日。午前十時から訓練する約束をしたのは、昨日帰ってからスマホでだった。

 連絡先を交換したのは、訓練をすると決めた日だ。明莉が中継地点となっていたことは考えたくはない。そのときを思えば、昨日の積極性はどこから蒸留されたものなのかさっぱり分からなかった。

 とにかく、約束のために寮を出たところで後ろから声をかけられる。明莉について考えるのはよしたほうがいいのかもしれない。噂をすれば影、だ。しかも後ろから、と考えると苦味が口内に広がった。

 振り返ると、明莉の後ろに戸尾が続いている。明莉はあっけらかんとした顔でいたが、追従している戸尾は苦い顔になっていた。そちらが正しい。


「もうちょっと声を潜めるとかそういう態度はないのか」

「後ろめたいことじゃないし」

「校則違反ではある」


 俺に告げられてなお、けろっとしている明莉の精神は一体何でできているのか。幼なじみであっても、理解しきれなかった。多分、俺よりも戸尾のほうが理解しているような気がする。


「戸尾ももう少し自重しろよ」

「だって、明莉が来てくれるのは僕としても嬉しいし」


 苦い顔をしていたのは、あくまでも体面というか。俺に見つかったことに思うところがある、というだけの話で、行った事象への反省はないらしい。白々しい彼氏様だ。


「だからって、休日の男子寮からこの時間に出てくるのに、多少忍ぶくらいの感情はないわけか」

「この時間だから、堂々としてられるっていうのもあるよ。もっと朝だと困るし」

「戸尾もなかなか確信犯だよな」


 明莉が主導権を握っている交際のように見えている。しかし、案外戸尾が手綱を握っているのかもしれない。

 俺には、明莉と肩を張るほどに惚気てくる。彼氏がここまで言ってくれるのは、彼女としては冥利に尽きるだろう。見ていて良好なカップルだ。微笑ましいと思うには、明莉の相手に疲れないのかという疑念が拭えないけれど。戸尾はそんな明莉がいいのだから、俺が口を出すべきことはひとつだってなかった。


「それで? 休日のこんな時間から出かけるなんてどうしたの? 翔大にしては珍しいじゃん」

「練習だ」

「どうなってるの? 美海ちゃん、どんな感じ?」

「良い感じに飛べるようになってきてるよ」


 提案したのは明莉だ。その後も邪念ありきではあったものの、情報を提供してくれていた。状況を答えるくらいなら、美海も気にしないだろう。相手が明莉であれば、俺が押し切られたところまで読んでくれるかもしれない。


「そうじゃなくてさ」


 区切りながら隣に並んできた明莉を半眼で見下ろす。

 嫌な予感がした。後ろからついてくる戸尾も事情を汲んでいるのか。明莉の口から何か飛び出すのか予想もできているのだろう。苦笑を浮かべていた。その程度で見逃すから、戸尾は規格外に明莉に甘い。

 だから、部屋への凸も受け入れているのだろう。……まぁ、そこは戸尾の欲求もありきの話だろうが。


「美海ちゃんとどうなってるのって言ってるの」

「どうもこうもない」


 脳裏に過った昨日の一連は、注意深く胸の奥底へ仕舞い込む。なかったことにするには惜しいが、人に伝える気はない。

 明莉に一ミリでも漏らそうものならば、何をどう曲解されるか分かったものではないのだ。そんな綱渡りな真似はしない。伊達に幼なじみをしていなかった。


「えー、あれから一週間以上経ってるでしょ? どうもこうもないとか、翔大は欲ないわけ?」

「お前らに比べたら」


 ぽろっと出てしまった台詞はセクハラだった。他の誰かなら、自重をしただろう。しかし、相手が相手だ。戸尾を含んでしまったことは申し訳なかったが、明莉に対する遠慮はなかった。


「二対一だから、こっちのほうが健全だね」


 ……口の減らない相手であるので、悔いる暇もない。だからって、何を言ってもいいわけでもないが、幼なじみ独特の距離感は染みついてしまっている。

 これを許容できる戸尾には素直に感心していた。仲睦まじい異性の友人というのは、気にならないものだろうか。そんな考えを当初は強く抱いていた。しかし、戸尾は俺と明莉の他愛もない言い争いを微笑ましそうに見守っている。鷹揚な彼氏だ。


「健全であることと噂話に興じたい気持ちはイコールで結ばれないからな」

「噂話にできるような何かがあるの?」

「しつこいぞ」


 明莉が執念深いことは百も承知だった。反発したところで、食い下がってくることは目に見えている。それでも、口にせずにいれば大きな隙を与えるだけだ。


「ふーん? 否定はしないんだね?」

「……お前、そういうこと、本当やめたほうがいいぞ。よそでやったら嫌われるからな」


 勢いだらけで勘の働かない子であれば、もう少し取り扱いやすかっただろう。明莉の妙なところで鋭くなる第六感は、たまったものではない。


「他ではしないよ。薫はあたしに伏せるようなこと言わないし、探る必要もないし」

「僕は明莉に秘密にすることはないからね。でも、いくら鷹宮君だって、明莉に知られたくないことはあるんじゃないかな」

「バレバレなのに?」


 明莉のいいようにさせているようで、制御すべきところは制御している。不貞腐れたように首を傾げる明莉の頭を撫でて収めていた。それで収まる明莉の様子は見たいものではないので目を逸らす。


「バレバレでもだよ。鷹宮君と月岡さんが上手くいって欲しいなら茶化さないほうがいいこともあるんじゃない?」

「まぁ、それは。翔大はすーぐ意識するから」

「鷹宮君のことよく分かっているんだから、明莉が譲ってあげるほうがかっこいいよ」


 制御しているというか、言いくるめているかもしれない。かなり子ども扱いされているような気がしたが、明莉には効果覿面だった。まぁ、感情ありきの力なのだろう。俺ではこうならない。


「そうだよね。まぁ、そういうことだから、頑張ってね翔大」

「それ譲ってるか?」


 応援を追加する意味は、探りを入れているのと変わりがない。

 眉を顰めたが、明莉は気に留めなかった。結局、納得しているのは戸尾に対してだけなのだろう。特別扱いだ。


「ちゃんと応援してるってこと」


 そう言って、ばんばんと背中を叩いてくる。手つきが容赦なくて、身体の芯がブレた。それを目にしてか否か。


「力、強いよ」


 と、戸尾が明莉の手を剥がしていく。そうして、その手を取って繋いでいた。

 俺への当たりを収めてくれたと言えるし、やっぱりどこかで嫉妬されているのかもしれないとも思える。俺に対して、というよりも外に対して独占欲を見せることもあるらしい。

 と思うのは、うがっているのだろうか。その自信が持てるほどに、戸尾のことは分からない。それでも、明莉が満足げにしているのだから、相性のいいカップルなのだろう。イチャイチャというほど、今この場で湿り気があるわけではない。それでも、そうした背景を連想させる。

 これは同じ男子寮から出てきているという行動の上に積み上がっている真実だろうが。


「でも、応援はいいでしょ?」

「それはね。鷹宮君の幸せを祈ることはいいことだよ。僕も頑張って欲しいと思ってるし」

「おい」


 事もなげに、明莉の言葉を後押しされる。事情がどれほど筒抜けているのか分からないが、穏当に言われると苦笑しか零れない。


「勝手に応援するのは自由でしょ? 鷹宮君だって、一度も否定しないしさ。応援するだけ、タダだよ」

「そうそう。あたしたちからのパワーは無敵だよ。仲良し!」


 いつだって、惚気るのに照れがなかった。惚気ているとすら思っていないのかもしれない。

 そして、仲良しを補強するかのように、戸尾は明莉と同意見を寄越す。似ているところがあるのは知っていた。しかし、こんなところで意気投合してくれなくてもいい。

 応援されることは、悪い気ではなかった。できれば、別の場面で聞きたかったところだ。美海とのことを応援されるのだって悪い気はしないのだけれど。

 この二人に後押しをされると厄介ごとまでついてきそうで、苦々しさが迸る。タッグを組まれてしまえば、譲歩するしかない。表面上、引き下がるくらいは、処世術はあった。


「……分かった分かった。頑張ればいいんだろ」

「よし! そうと分かったら、しっかりやるんだよ。お昼を一緒に摂ったりとか、休憩時間に雑談をしたりとか、そういうことをして、どんどんアピールして女の子扱いして意識させて、仲良くなればいいよ」

「はいはい」


 明莉が俺たちの訓練についてくるわけでもない。適当に返事をしていると、胡乱な目で見られた。幼なじみだ。俺がいなしているのが分かっているのだろう。だが、これ以上まともに取り合って期待を込められるのも面倒くさい。


「せっかく、気になる女の子なんだから、大切にしなよ」


 今までよりも、からかっているニュアンスが激減した。落ち着いた口調になるだけで空気を変えられるのだから、日頃の行いというのは狡いものだ。


「雑に扱う気なんてない」


 恋愛の応援をされても濁すことしかできない。けれど、扱い方を示されると、拒めなかった。広義で大切にしていることに間違いはない。

 こちらもいくらかトーンを落として答えれば、その真意は届いたようだった。そうした間合いが分かっているのも、幼なじみとしての距離感なのだろう。


「分かってるならいい。翔大はすぐ飽きるから」

「美海に飽きるとかないだろ」


 対人なのだから。

 と思ったが、端的でも通じることに慢心していたのが祟った。明莉だって分かっていないわけではないだろうに。こういう隙を目溢ししてくれない。


「ふ~ん」


 にまにました頭を引っ叩きたいところだが、隣にいる彼氏の目が気になる。許されそうな気もしたが、それはそれで怖い。戸尾が俺に怒りを向けたことは一度もないが、そこまで無神経になるつもりはなかった。

 それに、と明莉の顔を横目で見る。

 飽きるというと響きが強い。だが、距離を詰めるだとか、趣味を極めるだとか。そうした能動性がない、という意味なら自覚があった。それを指摘されているのだろう。

 何かを全うして達成したことなどなかった。趣味ひとつにしても、無我夢中になったことなどないかもしれない。フリューによる散歩は趣味だが、何が何でも優先されるほどに没頭しているとは言えなかった。

 そんな俺が、自主的に美海との訓練に努めている。明莉が自主的と判断できているかは分からないが、それでも、俺が熱を入れていることが分かっているのだろう。

 幼なじみというのは、こういうところが居心地が悪い。掌握されているなんて思っちゃいなかった。それでも、現状を正しく受け取られてはいる。


「……ちゃんと、やるべきことをやる」

「達成できるように頑張ってね」


 内容の擦り合わせはしない。お互いにその確認はいらなかった。というよりも、俺は回避を狙い、明莉は匂わせを狙っている。方向性の違うシンクロだった。長年の賜物だろう。

 俺はそれ以上、下手な詭弁もなく顎を引いた。言葉と一緒に頷くには、美海を大切にすると宣言しているようでくすぐったい。

 明莉にはその機微すらも透けているだろう。一丁前な顔をするのが鬱陶しい。戸尾がいることで、空気が中和されている。

 苦笑で見上げた空は、暗い雲が混ざり合った。中和された空だ。美海への関わりを心に留めながら二人と別れた。

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