第15話
そのうちに、月岡さんはふーっと長く息を吐き出した。そうして、上げられた顔が俺を見据えてくる。答えは出ているようなものだ。
「お願いします」
「分かった。一旦ギャラリーに戻ろう」
「うん」
戻るのにUターンさせるのは怖い。俺は出発したギャラリーとは違う、右側のほうへ接着した。曲がることも難しいが、Uターンよりはマシだ。
月岡さんは俺の後をそろそろとついてギャラリーへと戻ってきた。危うさはあるし時間はかかるが、ついて来られないわけじゃない。だから、二人乗りは効果を得られるはずだ。楽観視だけではない根拠はあった。
「こっちのフリューに乗ってもらえるか」
「うん。どうしたらいい?」
息を吐いて、気持ちを整える。どうしたら。これが俺の逡巡の原因と言ってよかった。二人乗り。意識すると、どうにもすわりが悪くなる。
「前に入ってくれ」
「前……?」
「持ち手と俺の間に入る」
「え? 後ろじゃなくて?」
「訓練なら前のほうがいい」
フリューのブレーキとアクセルは持ち手だ。だから、訓練のためなら後ろから抱える形で、ブレーキやアクセルの感じを覚えるのがいい。落ちる可能性も軽減できるため、幼いころにはそういう二人乗りをさせられる。
友人同士であれば、後ろに乗せるのが常だ。逆に言えば、恋人同士ならこの前乗りを使う。イチャイチャするために都合の良い乗り方だった。だからこそ、邪さが顔を出す。
月岡さんも、まさかそんな乗り方になるとは思わなかったのか。俺とフリューの間に視線をきょろきょろと往復させていた。
「……いいの?」
「月岡さんが嫌じゃなければ、と俺は何度も言ってるだろ。やめておくか?」
責めたいわけじゃない。異性に後ろから抱き込まれる。忌避感を抱いても仕方がないことだ。改めて嫌だと言うのなら、別の方法を探すつもりはあった。
俺だって緊張はするのだから、回避するのであればそれはそれで構わない。そうなるだろうと、俺は半ば回避の方向へ思考が傾いていた。だから、油断しきっていたのだ。
片腕でフリューを支えていたその隙間に、するりと入ってきた身体にぎょっとしてしまった。表情が見えないので、本当に納得しているのかどうか分からない。いや、行動を起こされておいて、疑うのは失礼だろうが。
「嫌だなんて、思ってないから」
ぽつりと零されて、耳が熱くなる。それ以上の意味などないだろうが、この至近距離で漏らされると意識もしようというものだ。こうなるのが分かりきっていたから、意識せずにはいられなかった。
「それじゃあ、乗るよ」
それは、触る宣言と同等だ。微かに肩がこわばったような気がしたが、俺が意識を仕草に出せば、それこそ何かが破綻する。その気配だけは嗅ぎ取ることができた。
そっと、抱え込み過ぎないように注意しながら。それでも腕を重ねて取っ手を持つ必要があるので、覆い被さるように。矛盾を抱えながら、月岡さんの身体を抱き込んだ。
俺と月岡さんとの身長差は、十五センチほどだろうか。その細身の身体は、俺の腕の中にしっくりときた。まろいミルクのような香りと、華やかなシャンプーの香りが混ざり合って胸をくすぐる。
騒がしい心音が月岡さんに届いてしまうのではないかと思うと、余計に乱れた。
「大丈夫そう?」
「鷹宮君こそ、大丈夫?」
お互い、何の確認なのか。その確証がないままに口にしているような気がした。
「緊張するけど、大丈夫」
誤魔化すには限度があった。今にも、言葉と一緒に内臓が出そうだ。馬鹿正直に告げると、月岡さんの頭が少し下がってくすりと小さな音が聞こえる。
「私も。でも、鷹宮君だから大丈夫」
大丈夫じゃないけど。そう言いそうになる言葉を飲み込む。大丈夫だ。先にそう言ったのは俺なので、はしごを外すわけにもいかない。
「よかった」
俺だからなんて言われて、よかったなんて思えるほど呑気ではなかった。一陣の混乱が胸に去来する。しかし、状況が進展してしまった以上、引くに引けない。
俺は月岡さんの手のひらを握り込むように、アクセルをかけた。フリューに乗るのはいつものことだ。にもかかわらず、ターボの音が異様に耳につく。内側も外側もうるさくて、ちっともよくはなかった。
とはいえ、進んでしまえばいつも通りの回遊だ。一度慣れてしまえばというのは、こういう自分の実態があってこそだった。そうして思考が繋がったところで、緊張が落ち着く。
月岡さんは正面を向いていた。いくら身体が触れないように気をつけたところで、くっついているようなものだ。前を向いていたって、横顔のラインがなんとなく分かる。
長髪なので隠れているだけで、そうした細部が観察しなくたって目に入った。そして、微妙に覗く耳元が赤くなっていることに気がつく。思わず手に力が入りそうになって、腕に力を込めて堪えた。
……堪えられていたかどうかは分からない。月岡さんが何を考えているのか。どういう心境なのかも分からなかった。沈黙のままに、練習場を横断する。
訓練なのだから具合を確かめなければ、と思いこそすれ、喉が渇いて言葉が張り付いた。こほんと咳払いをすると、眼前の肩が揺れる。肩身の狭さが高まってくるが、そうも言っていられない。
お互いに気まずさや羞恥を捻じ伏せてこうしているのだから、有意義にしなければそれこそただのそういう意味でしかなくなってしまう。建前のためにも、と考えている時点で、目的をわざわざ掲げて自分の感情を誤魔化しているような気がした。
「スピードを上げるよ」
「ひゃ、あ、う、うん」
ぴゃっと持ち上がった肩に、高く上擦った声が飛び込んできて頭蓋骨が揺れる。頭の中に熾火を突っ込まれたようだった。
「わ、るい。ごめん。くすぐったかったよな、ごめん」
他の感触だと認めるのは、こちらだって無理だ。咄嗟に口走った言葉に、月岡さんがこくこくと何度も頷いている。それが逆に、他の感触を覚えているような気がしたが、気がつかない振りでやり過ごした。
月岡さんもなかったことにするかのように、必死に耳を押さえている。
「大丈夫。変な声出してごめんね。ビックリさせちゃったよね。スピード! スピード上げてもらって大丈夫だから!」
矢継ぎ早に諳んじられる台詞ほど、白々しく状況を伝えるものはない。だが、認めてしまって都合が悪いのはこちらだって一緒だ。
もしもここに、明莉がいたのなら変わっていただろう。豪快に引っ掻き回してくれるものがいるのといないのとでは、天地の差がある。そんな存在がいないのだから、やるべきことを粛々と進めるべきだ。
俺は月岡さんの言葉に従うように、アクセルを入れてスピードを上げた。訓練場で出すには、初速がつき過ぎていたかもしれない。だが、その振り切る瞬間が、俺たちには必要だった。
……結果的に、功を奏しただけと言うのだろうが。
「うわぁ」
と、月岡さんが上げたのは感嘆だった。恐怖に慄いている声ではない。そのことに胸を撫で下ろしたことで、一緒に心も落ち着いた。
「どうだ?」
今度は耳元にならないように注意して声をかける。フリュー中でも会話は難なくできるので、そっぽを向いていても問題はなかった。
「すごい。気持ちいいね」
「外ならもっと気持ちいいよ。訓練場の周り、一周しようか?」
フリューが一般的な公的施設には、フリューで近付くことで反応する自動扉が一部に設けられている。何かを搬入するときや緊急時に利用するものだ。それ以外にも、しれっとした機会で利用することはある。渋る理由もなかった。
「いいの?」
「何か問題があるか?」
「人に見られるかも」
根っから消え去ることはない。意識が胸に漂動しているのはお互い様のようだ。
「構わないよ。気持ちいい体験、したくないか?」
我が事ながら、言葉のチョイスを間違った。気がついたのは、口にした後だ。覆水は盆に返らない。
月岡さんがそれをどう受け取ったのか。文脈を汲めば、俺にとってよくない方向になることは読めた。こんな洞察力は欲しくなかったが、残念ながら外れているとは思えない。数拍置かれた沈黙が、それを如実に物語っていた。
「鷹宮君って意地悪なの?」
「……図ったわけじゃない」
「ふふっ、じゃあ」
恐らく、状況を払拭するために乗ってくれたのだろう。だが、そうして改まって区切られた音は、こちらの緊張感を煽った。それから、とんでもない爆弾が返される。自分の言い回しが発端であったから、これは自爆と言うのかもしれない。
「鷹宮君に気持ちよくしてもらいたいな」
「げっほ」
思いっきりむせた俺に、月岡さんは笑いを弾けさせた。あけすけな態度に踏み切ったことで、計っていた距離感が吹っ飛んだようだ。
「鷹宮君が最初だからね」
「悪かったよ。ほら、もういいから行くぞ」
開き直って、抱きしめるように包み込んでアクセルを吹かす。そうして、扉から抜け出して練習場の外周へと飛び出した。月岡さんの返答は待たなかったが、外に出たことで返事は立ち消える。
「うわぁ。気持ちいい」
浮き立つような声音が耳に馴染む。
「いいだろ? 怖くないか?」
「……うん。鷹宮君がいるから」
それは単純な安全性を示しているはずだ。余分な感情を勘案しているのは自惚れである。だが、どうしたって感じる体温は切り離せるものではない。
「なら、良かった。感覚、掴めそうか」
「それはちょっと分かんないよ。一人で乗ってみなくちゃ大言はできないかも」
「変に自信を持たないほうが安全でいられるだろうから、その心根は大事にしてていいと思うよ」
「ありがとう。鷹宮君は、運転上手いね」
「慣れてるからね。月岡さんも慣れればきっと、こんなふうに気持ちよく乗りこなせるようになるよ」
「鷹宮君がいなくても怖くないといいな」
漏らされる感想で、危険度だけではない意味合いが見え隠れして見える。自意識過剰だと自制を促す自分もいるが、浮ついた気持ちになる短絡的な自分もいた。
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