第四章
第14話
淡泊な台所に並ぶようになったマグカップはくすぐったい。
好みからズレているものでもなかった。ただ、猫のイラストは他の食器に比べれば、いくらかコミカルさがある。何より、月岡さんからのプレゼントという付加価値は大きい。我ながらげんきんではあるが、どこか癒やされるような心地で日々を過ごしていた。
そして、そんな穏やかな日々に、今日から新たな予定が組み込まれる。明莉に連れ出された外出先で、月岡さんと約束した訓練だ。
平日の放課後も考えたが、初日は休日がいいだろう。そう言い出したのは明莉だった。直接、予定の話し合いに参加していたわけではない。だが、何かと俺にアドバイスのようなものを浴びせてきていた。
大部分を聞き流していたが、使えそうなものだけは頭に留めて採用している。そのひとつが、休日開始というものだった。
練習場の利用申請をして、ジャージ姿で練習場前に集合する。そわそわしながら待っていると、俺以上に緊張した月岡さんが姿を現した。緊張の原因は自明だ。そこまでか、と苦々しい。ちっとも苦手意識が拭えていないようだ。
「おはよう」
「おはよう。今日からよろしくね」
挨拶を忘れない。笑顔も忘れていないが、頬が引きつっていた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「だって、授業とはまた違うし」
「俺のほうがよっぽど緊張するんだけどなぁ」
「そういう緊張をさせてるだろうなぁ、と思うから余計に迷惑をかけられないとか色々考えちゃうんだよ」
「月岡さんは気を遣い過ぎだよ」
生きづらそうな律儀さだ。当人も自覚があるのか。困り顔になってしまった。
そんな顔をさせたいわけじゃない。だが、気を遣い過ぎらても困る。というより、憂いを抱えて訓練に挑んで欲しくなかった。
「気にしなくていいから、頑張ろう」
「鷹宮君は人が良すぎじゃない?」
「月岡さんがいい人なんだろ」
「私、鷹宮君にお世話されても何も返せないんだけど」
「俺がお節介なだけ……いや、明莉がこうしたってことで、明莉のせいにしとこう」
半分以上は本気で思っているが、冗談めかして口の端に乗せた。
そうして、練習場を開く。誰もいない練習場は、しんと静まり返っていて、とても広い。この広い空間を自由にできると思うと、やけに心が浮ついた。
月岡さんとの二人きりの交流に、などということはない、と信じたい。明莉にねちねち突かれ続けているために、意識に上ることはある。いくら俺でも、明莉の印象操作だけで影響されているわけではないが。
月岡さんが良い子なのは、疑いようのない事実だ。それがあるからこそ、どこか浮ついた心は存在していた。馬鹿みたいだ。
「積木さん、怒らない?」
「不貞腐れるだけだろ」
月岡さんだって、本気で言っている様子はなかった。こちらも、軽口で明莉の態度を予測する。これは冗談ではない本気であったが、月岡さんは面白そうに笑っているだけだった。
恐らく、そこまで明莉が本気で不貞腐れるとは思っていないのだろう。まだ明莉を掴みきれていない。そんな会話をしながら、ギャラリーへと上った。
「よし」
タイミングを計るかのように告げると、月岡さんの背筋がぴっと伸びる。
「ひとまず、乗ってみようか」
「緊張するなぁ」
「授業中は普通に乗ろうとしているじゃん」
「あんまり上達してないのも知ってるでしょ」
ぼやくように臆する発言をしながらも、行動力は伴っていた。やらねばならぬことだと割り切っているのか。向上心はあるのだろう。でなければ、いくら明莉が提案したところで、乗ってきたりはしないはずだ。
そうして、フリューに乗った月岡さんは宙へと飛び出した。……飛び出した、つもりなのだろう。だが、如何せんスピードが出ていない。
そのせいで、バランスの取りづらさを増しているのではないか。そんな危うい運転をしている。授業中も目にしていたし、不調であることも知っていた。しかし、こうして一対一で対面すると、その不調っぷりは目に余る。
どうしても恐怖が勝っているのは、一度落ちたことが関連しているのか。それを思うと、有無を言わさずスピードを出せというアドバイスもしづらい。鈍い動きは何とも心許なかった。
「鷹宮君、どうしたらいい?」
「もう少し、スピード出せるか? そっちのほうが安定するよ」
こくりと頷いた月岡さんは、加速させたつもりであるのだろう。微々としか言いようがないのが困ったところだ。
月岡さんにしてみれば、変化があるのだろう。飛んでいればちょっとした速度変化であっても、風圧などが直だ。慣れない間は、ちょっとした変化が恐ろしく感じる。ただでさえビビっているのだから、そう簡単に踏み切れるはずもない。一度でも、スピード感に触れてみれば感覚が掴めると思うのだが。
そう考えて、吹き込まれ続けている明莉の声が再生された。聞き流しきっているつもりでいるのだが、どうしたって留まるものがある。
吐息を零してしまったのは、明莉の言葉を残してしまっていることに対してだ。そして、それを実行しようとする自分に対してであって、月岡さんへの呆れではない。
けれど、自信のない月岡さんはそうは取れなかったようだ。しゅんとしてしまっていた。そんな状態でよい訓練ができるはずもない。俺は再度漏れそうになる吐息を飲み込んで、月岡さんのそばへと近付いた。
フリューでほんの数メートル。時間にして数秒。慣れていれば、一足飛び。
そのくらいしかない距離を、月岡さんは怯えている。庇護欲のようなものが体内を渦巻くが、庇護だけのままでいられるわけもない。このままでは、月岡さんが危険なだけだ。
「……月岡さん」
「あっという間だね」
隣に並んで視線を合わせると、月岡さんは眉を下げて空笑いを浮かべる。無理やりに笑っているのは考えるまでもなかった。その曇りを晴らしてやりたい。無論、実技的なこともある。ただ、それよりも感情論で助けてやりたかった。
「月岡さんが良ければ、ひとつ提案があるんだけど」
「拒否するようなことないよ」
返答に迷いはなかった。むしろ、提案したこちらに逡巡があるくらいだ。明莉からの案だから怖じ気づいているわけではない。
杞憂だった。気障りなわけもない。緊張だとか。そういうものだ。
「二人乗りしようか」
即応した月岡さんも、さすがにぎょっとしたらしい。目を丸くして、まじまじと見てくる。
「フリューで移動する感覚を掴むには、やっぱり二人乗りがうってつけだ。ここなら、問題もないし、人の目もない。月岡さんが拒否しないというなら、やったほうが上達のためにはいいと思う」
言い訳めいていた。そう感じるのは、自分に浮ついた感情が揺蕩っているからだ。理由があるのであって、下心が先にあるわけではない。そう自分に言い訳しているようだった。
月岡さんは、長い睫毛をぱちくりと瞬く。影が青い瞳に落ちて、ちらちらと光って見えた。
「いいの?」
「それは俺の台詞だと思うけど」
「だって、積木さんが」
「明莉?」
何故、明莉が許可の是非に関わってくるのか。さっぱり分からずに首を傾げると、月岡さんも鏡のように首を傾げてくる。
「付き合ってるんじゃないの?」
一瞬、ぶん殴られたのかと思った。愕然としてしまった俺に、月岡さんもビックリしている。
「え、違った? 二人で買い物してたみたいだし、二人でひそひそ話していたし、仲良いし。付き合ってるんだと思ってたんだけど……」
客観的な補足を受けると、勘違いも理解できるような気がした。頭が痛い。顔を覆って、ため息を吐き出してしまう。
「ただの幼なじみだよ」
「そうなの? えっと、それは、本当はお互いに好きだけど言えないままでいるとか、そういうことはなく?」
「仮にそうだったとしたら、その推察を俺に言っていいものなの?」
「あれ? そうか。でも、鷹宮君はそういうことではなく?」
「俺も明莉も明確にそういうことではない」
断言すると、月岡さんは怪訝を浮かべた。
明莉の心境が分かるのかと疑っているのかもしれない。確かに、人の感情を全知できるわけもないので、その疑念はもっともだった。俺だって、いくら幼なじみだからって、予測できるとは思えない。明莉の頓狂な思考を読むことなど不可能だ。
だが、こればかりは歴然としている。
何故なら
「明莉は彼氏いるからな」
これ以上、明瞭な理由はない。もしかして、なんて余計な心配をする余白すら残していなかった。豪語する俺に、月岡さんは納得顔になる。しかし、晴れ渡るというには、まだ残り香があった。
「鷹宮君は?」
「ない」
白眼で即断すれば、月岡さんは苦い顔になる。
「そんなにざっくり言わなくても」
「明莉は幼なじみ以外を考えられないし、ないものはないの。明莉だって、同じこと言うと思うぞ。だから、そういうことを気にする必要はない」
「そっか」
明莉の彼氏について、ここで深掘りするつもりはない。話を元の軌道に戻すと、月岡さんは頷いたまま俯いて思考に沈んでいった。
この黙考が、俺が相手であることに悩んでいるのか。それとも、恐怖の問題か。できれば後者であって欲しいと願いながら、停止したままの月岡さんを見つめていた。
止まっているのは上手い。ホバリングはフリューに補助機能がついている。だから、止まっていることはそれほど難しくないが、バランスは取らねばならない。シーボードで波を乗りこなしていた体幹は、ないわけではないのだろう。
やはり、スピードに慣れさえすればどうにかなりそうだった。しかし、これは他人事だからこその軽視だろう。挑戦する立場となれば、手軽に取りまとめられるものでもない。
俺だって、今すぐ一人でシーボードに乗れと言われたら二の足を踏む。泳げるけれども、そういう問題ではない。
ましてや、月岡さんは一度落ちているのだ。ここでたじろぐ気持ちもよく分かった。決断を急がせるつもりはない。慌てるようなこともなかった。今日は一日、月岡さんに付き合うつもりで予定を立てている。
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