第8話

 とにかく場を取り戻そうと、ぎくしゃくする前の会話へと立ち返る。強引さは否めないが、この空気に浸り続けるのは耐えられる気がしなかった。


「月岡さんも泳ぐのが得意なの? 運動音痴だって言ってたけど」


 無理やり巻き戻したのだから、どうしたってラグは生じる。月岡さんの反応はもっともだ。開いた間をどうこう言うつもりはなかった。


「泳ぐのだけは得意かも。でも、こっちじゃ役に立たないし、泳ぐ機会もなさそうかな」

「プールはあるぞ、モール島のほうに」


 学校にはない。フリューの免許取得のために、体育の授業はフリューに時間を取られてしまっている。水泳は除外されていた。

 モール島の情報は、遊興施設が充実しているということで見つけている。それを聞いた月岡さんの瞳が、波の飛沫が跳ねるように光った。


「本当? 泳げる?」

「温水プールだったはずだから、いつだって行けると思うよ」

「わー! 情報ありがとう、鷹宮君」


 両方の指を合わせて、ぱああと笑顔を咲かせた。泳げることがよほど嬉しいらしい。

 不安そうだったり、困惑しているようだったり、眉尻を下げた表情を見ることが多かった。事故のせいではあるだろうから、それは仕方がない。

 そこから外れた無垢な笑顔には心が満たされた。たったこれっぽっちのことで、こんなにも鮮やかな顔になってもらえるとは。


「ホームシックになったりするの?」

「そこまでしんみりしたものじゃないよ。身近なことだったし、遊泳できるなら嬉しいなって感じ。学園島は環境とってもいいし、過ごしやすいもん」

「海だって、同じような学園島? みたいなのが建ってるって聞いたけど」

「そうだね。でも、環境の整い方はここに及ばないと思うよ。これは私が向こうの学園島を全部知ってるってわけじゃないから、空が優秀ってのと同義かは分からないけどね」

「こっちの学園島にも色々あるよ。うちは中でも整っているほうだ」

「やっぱり? この学園にして良かった。初めての空島生活が不便だと苦手意識が芽生えそうだもん」

「困ってることはない?」


 聞いたところで何ができるわけでもなかっただろう。流れと言えばそれまでだ。だが、口にすれば、できる限り力になりたいという感情が伴ってきた。

 明莉が聞いていれば、珍しそうな目をしたかもしれない。


「不慣れなことばかりで、まだちょっと分かんない。これから困ったことが出てくるかもしれない」

「そうか。まだ、新生活始まったばかりだもんな」


 一ヶ月が経っているが、たかが一ヶ月だ。他の生徒たちも、徐々に生活を整えているところだろう。月岡さんがその枠外になるわけもない。むしろ、殊更に新生活であろうから、時間がかかるだろう。問いを投げたことが軽率だ。


「何か困ったことがあったら聞いてくれ」

「ありがとう……ってそうじゃなくて、私が何か聞くよって話でしょ」

「まだ諦めてなかったのか」


 うやむやにしようと企んでいたわけじゃない。ただ、流れに身を任せてしまおうとはしていた。それが見事に失敗して苦い。


「諦めるとか諦めないとかそういうことじゃないでしょ? お詫びなんだから」

「だから、受け取ったって言ってるだろ。気にしなくていいって」

「諦めてしまえばいいのに」


 たった今、そういう問題ではないといった文言を流用してくる。これはどっちもどっちなんだろう。平行線を辿りそうだ。


「そうは言ってもな」


 何でも、を真に受けて恩恵に与ろうとは思えない。一方的な被害者なら、もう少し取り付く島もあった。だが、俺にだって落ち度はあった。貫徹されても困る。これは向こうも思っているだろうが。そういう意味でも、平行線だった。

 これは似たもの同士だと思って、気を柔らかくするところなのだろうか。


「じゃあ、分かった。何かあったら言ってよ。そのときは、私が力になるから。それなら、いいでしょ?」

「……分かったよ」


 何がいいのか。疑問は残るが、この辺りが折れどころだろう。何かあったら、がそう起こる気もしないし、何かあったときに模範的に月岡さんに頼らなくても月岡さんには分からない。そういう意味で、折れどころだった。

 そんな回避の手口に気がつかないのだろう。善良なのか。月岡さんは俺の返事に納得していた。

 それで構わないのだけれど、大丈夫なのだろうかと不安にもなる。こんなチョロい子が、何でもやるなんて軽はずみに口走るなんて危険もいいところに思えた。具体例を伝える危ない橋を渡る気もないから、注意も何もできないけれど。


「頼ってね」

「ああ」

「それじゃ。こんなところで呼び止めてごめん。また明日ね」


 一度納得してしまうと、驚くほどあっさりと身を引く。ひらりと手を振って去って行く月岡さんの足取りは軽快だ。爽やかで可憐。

 引き止める理由もないが、それにしたってこっちの反応を見る間もない。手を振り返しながら、月岡さんの後ろ姿を見送る。時々、こちらを振り返りながら去って行く姿が、いじましくて微笑ましかった。




 それから、引っ掛かりはずっと引っ掛かり続けている。それというのも、接点ができてしまったからだ。

 顔を合わせれば挨拶することが増えたし、お辞儀をしたり、手を振り合ったりする。友人と言うには細やかな接触であるし、雑談するほどではない。どっちつかずな距離感だ。

 しかし、接点はあるものだから、引っ掛かりはずっと引っ掛かっていて、月岡さんに目をやる回数は増えていた。向こうからも増えているのかは分からない。こういうのは、こちらの意識の問題が付き纏うので、バイアスのない状態が分からなかった。

 目が合う。挨拶をする。知らん振りはされない。それだけが現実としてあるだけだ。そして、何より一番目が合うのは、体育の授業中だった。

 月岡さんがどうしているのか。事故になりかけていないか。怪我をしていないか。慣れてきているか。そうしたものが気になった。月岡さんも、俺が気に留めていることが分かっているのか。目が合うと浮かない顔になった。

 そうするほどには、快調とは言い難い。走れていないわけではないのだが、低速だし、休んでいる時間のほうが長いように思う。

 教師も月岡さんに目をかけてくれていた。だが、男性教師であるが故か否か。触れることを避けると、支えてスピードに慣れさせるなどの、小さな子にするようなやり方をすることもできない。教師は慎重になっている。特別指導は避けているようだった。

 そうなると、ひたすらに乗るしかない。コツを掴むまで月岡さん任せだ。落下こそ耐えているようだったが、いつ落ちてもおかしくはない。そんなやり方を繰り返していた。そんな状態を気にならないわけもない。

 これについては俺だけが気になっていたわけではなく、他のクラスメイトも同じようだった。初日に俺と事故を起こしている。月岡さんがフリューを苦手とすることは公になっていた。

 そんなものだから、周囲も月岡さんの邪魔にならないように動いている。だが、そこまでだ。アドバイスをすることはなかった。

 これは多分、自分が上手く教えられると思えないからだろう。空の住人にとって、フリューはそれこそ手足だ。その使い方を教えるというのは、非常に難しい。誰も彼もが様子を窺っていた。そうなると、俺も輪を乱せない。というよりも、手を出すほどに親密とは言えなかった。

 現状をぶち壊してしまえば良いのだろう。だが、教えるというのは上下関係が発生しかねない。元々、関係がない同士で踏み切るには、俺には勇気がいった。

 月岡さんとの間に、妙なものを持ち込みたくはない。せっかくと言うにはたどたどしいが、それでも緩やかな付き合いができていた。それを自分が思ったよりも大事にしていることには驚く。

 引っ掛かりと思っていたものは、心に根づいていた。授業以外でだって、目に入れる確率は高くなっている。あちらから視線が注がれることがある分、その頻度の自覚は薄れていた。

 不均衡であれば、罪悪感が大きくなって節制できていただろう。しかし、現実はそうではない。そして、そうした変化に限って見逃さないバイタリティに溢れる人間がいた。それも、なまなかではない身近に。

 衆人環視の教室内で口にすることはなかったが、帰り道に捕まってしまった。時機を見計らっていたかと思うと、げんなりとした気分が引き上げられる。


「翔大、最近どうしたの?」


 探りから入られた俺は、お伺いがどこにかかっているのか分かっていなかった。眉間に皺を寄せて首を傾げた俺に、明莉はにまにまとした笑みを浮かべる。不気味さ満点過ぎて、知らない振りをしたくなった。


「気になる人がいるんでしょ?」

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