第7話
それっきり、は俺の得意技らしい。
会話が止まってから、俺と月岡さんは進展もなく黙止のままに授業を終えた。事故相手の気後れもあるだろうが、かといってこうも距離が測れないものか。自分の態度を苦々しく思いながらも、やむなくそのまま離れた。
名残惜しさ、というほどではない。だが、どことなくもったいなさなんてもの抱えていた。それはどの感情を発端にしたものかも分からないものだ。単純に、様子が気になったということであったかもしれない。
その引っ掛かりは、今度は消滅することはなかった。それは、スルーした結果事故に繋がったことがあったからだろう。
決して、俺のせいではないし、月岡さんのせいでもない。だが、衝突した事実は揺るがないし、なかったことになるはずもなかった。だから、最初の違和感とは違って、月岡さんのことはずっと心に引っ掛かっている。
もやもやする、というのとは違う、はずだ。引っ掛かってる、はまさしく引っ掛かっている、が正しい。綿密な理由や理屈をくっつけられない。そういうものだった。
だが、やはり、半端なままなことに思うところはあったのだろう。そして、そんなときに限って、引き寄せの法則を引き当てるものらしい。
帰り道。寮へと続く公園のような敷地の途中で
「鷹宮君」
と声をかけられた。俺はフリューを止めて、着陸する。月岡さんはフリューに乗っていなかった。
「月岡さん? どうかしたの?」
確かに、引っ掛かっていたけれど、声をかけられるとは夢にも思っていない。首を傾げると、月岡さんはペットボトルの珈琲を差し出してきた。
「えっと、ひとまず、これね」
「え?」
俺が呆然としているのもお構いなしに、月岡さんは俺の手のひらにペットボトルを押し付けてくる。取り落としそうだったので、流れで受け取ってしまった。
しかし、ひとまずという限定と、これという指示語では、何が何だか分かりやしない。
「申し訳ありませんでした。ありがとうございました」
俺の混乱をよそに、決め手のようにがばりと頭を下げられて、これがお詫びの品だと気がついた。
「いや! 本当にいいから! そんなに畏まらないでくれよ」
明莉に引っ張り回されているときのほうが、よっぽどひやりとする場面はある。あんな衝突は可愛いものだ。俺は本当に気にしていなかった。
「でも、事故だから。ちゃんとお詫びはしておかなきゃと思って」
「構わないよ。お詫びも受け取りました」
ひとまず、と言った前置きが、気になる。なので、これでいいと先手を打ったつもりだった。
だが、こちらを一心に見つめる瞳からは、嫌な予感がする。この場合、更なるお詫びをしてくれるかもしれない可能性であるから、嫌な予感というのは非道かもしれないが。
「それくらいじゃ足りないと思うから、他にも何か」
「いいって。そんなにお詫びされると、こっちも立つ瀬がないから」
こっちに過ちがないとは言い切れない。そんなに重ねられても困惑してしまう。
「何でもいいんだよ?」
「……迂闊かよ」
これで着想が迂闊に辿り着く俺の妄想力がよろしくない。分かっていても、ぽろりと落ちてしまったものは取り消せなかった。
月岡さんは目を丸くしている。瞬く睫毛が長いことに気がついた。
「何でもなんてそう言うもんじゃないと思うぞ」
「変かな?」
純粋だ。こちらが不埒なだけか。きょとんと首を傾げられると、圧倒的にこっちの分が悪い。うやむやな苦笑いが零れた。
「変じゃないけど、安請け合いはよくないでしょ」
「もちろん、できることならだよ?」
できることでも、とんでもないことが言える。できることに換算するかどうかは別にして、できないことでもない。不埒な案もできることに含まれてしまう。良識があるものはそんな提案をすることはないし、俺にそんな蛮勇があるはずもない。だから、今ここではさしたる危険性はないだろう。
だが、軽率であることに変わりはなかった。その中身を伝える手腕も俺にはないけれど。
「遠慮しておくよ。これだけで十分」
もらったペットボトルを目線の高さに持ち上げると、月岡さんは不服そうにする。普通、胸のつかえが下りる場面ではなかろうか。律儀というか何というか。生きづらそうな性格をしている。
「鷹宮君って欲ないの?」
「悟りを開いた覚えはないな」
ないどころか、その欲求を優先する想像を走らせていたくらいだ。肩を竦めて濁すしかない。
「じゃあ、もうちょっと恩恵に与ってもいいと思うけど」
「お詫びするほうがぐいぐい来るなよ」
押し付けてしまえば、別の何かだろう。押しつけがましいとまで言うつもりはない。生憎、押し切られることには慣れている。
「だって、本当に申し訳なかったなって。下敷きにしちゃったし……」
落胆する姿は、真に迫っていた。こればっかりは加害者となったが故の譲れぬ感情であるのかもしれない。だが、こちらとしては下敷きになったときの滑稽な感想が蘇って、得も言われぬ感情が逆巻いた。
「月岡さんの衝撃を少しは吸収できたならよかったよ」
「そう言われると、余計に肩身が狭いんだけど」
「そうだな、ごめん。でも、本当に気にしないでくれ。練習中ならあれくらいよくあることだから。幼なじみに引っ張り回されて、もっと怖い思いをしたこともある」
「アグレッシブな幼なじみがいるんだね」
二つ名めいた感想が出てきたが、強ち間違っていない。前傾姿勢で突き進む感じは、お似合いだった。
「でも、本当に空だと普通なの?」
信じていないのか。問いを繋げる。明莉の話を掘り下げたいとは思わないので、別の話題を広げてくれるのはありがたかった。
「普通だな。海じゃそういうのはないのか?」
「海でも事故はあるよ。でも、ぶつかっても水中だから……あんまり、気にしたことないかも」
「いや、十分大した事故だよ」
水中に何の価値を見出しているのか。事故にならない理由なんてひとつだってない。水中に落ちるのと、マットに落ちるのとに差はないように思える。それとも、この感覚は俺の思い込みなのだろうか。違いが分からないだけに、疑問を呈さずにはいられなかった。
「でも、ライフジャケット装着で水中に落ちるのは案外へっちゃらだし、泳ぐのはみんな得意だから、すぐに立て直してきて、事故って感じがないっていうか。空から落ちると、本当に落下でしょ? うーん。これすごく変なこと言ってるかな?」
言語化を試みているが、覚束なくなっていく。喋りながら、月岡さんの声音はどんどん先細っていった。最終的に首を傾げる始末だ。そんなことを聞かれても、こちらも首を傾げるしかない。
「海だと、落ちても泳ぐだけって感じで、事故って感じないの」
「みんな泳ぐの得意なの?」
「うん。シーボードを覚えるより先に、泳ぎを覚えるもの。水没都市みたいなものだから、水に浸かるのは常なの」
「寒そうだな」
「まぁまぁね。でも、空のほうが高度あるし、冬は雪が降るんでしょ?」
「フリューで飛ぶのが地獄に思えるほどには」
楽しい散歩が寒さによって、拷問のような時間に変貌する。なので、冬はあまり出かけたくないし、スピードを出したくない。手厚い防寒は必須だ。
「主な交通手段なのに?」
「そうだな。我慢して使うことのほうが正直、多い。飛ぶ分には積雪を気にしなくていいし。でも、雪じゃなくても歩くときは普通に歩くよ。月岡さんも徒歩じゃん」
「私はまだ上手く走れないから徒歩なの。そのうち、みんなみたいに飛んで移動したいなって思うよ。風を切るのは気持ちよさそうだもの。シーボードも潮風と水飛沫が気持ちいいから」
乗り物は違う。環境だって違う。けれど、同じようにスピードの出る乗り物で風を切る。その想像はできた。
「海は気持ちいいものなんだな」
「鷹宮君は海に下りたことはないの?」
「うん。海に近付いたこともない。波があるとか写真や動画で見たことがあるだけだ。綺麗な色をしているよな。月岡さんの瞳みたいな」
月岡さんは、薄く唇を開いてぱちぱちと長い睫毛を重ね合わせた。会話と空気が止まる。何か変なことを言ったか。気付けずにいたことに思考が到達するより先に、
「私の瞳より、海のほうがずっと綺麗だよ」
と言われて、かっと耳が熱くなった。
我が事ながら、よくもまぁと省みる。反省とまでは呼べないが、尻こそばゆさにたまらなくなった。
頭がぐるぐるする。月岡さんが困ったような顔ではにかんでいるものだから、余計に。本気で口説こうとしているのならまだしも、流れで零す軟派さはどう収拾すればいいのか。
「なんか、ごめん。いや、綺麗だよ」
打ち消すのも変になって、結局繰り返す羽目になる。俺は額を抑えて呻くことしかできなかった。本心であるが故に、もがくしかない。
月岡さんだって、困るばかりだろう。さすがに二度目は気恥ずかしさが上回ったのか。額を抑えても遮りきらない視界の端で、照れくさそうな顔になっていた。
「ありがとう、鷹宮君」
「どういたしまして」
その感謝が恥ずかしそうであるものだから、こっちだって下手なことは言えない。気の利いた文句は持ち合わせがなかった。小物っぷりが身に沁みる。
図書室で顔を合わせたときから分かっていたことだが、そのくせ綺麗などと嘯ける自分の拙劣さが憎らしかった。
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