第6話
「月岡さんは海育ちなんだよね?」
「うん。そうだよ。だから、フリューは乗り方、分からなくて。初めてだったんだよね。迷惑かけないようにしなくちゃと思ってたんだけど、難しいね」
「慣れるまでは、なかなかバランスが取れないしね。今日は走ってみるってスタートだったけど、次の授業からはちゃんと一から教えてもらえると思うし、そうすればコツを掴めるようになってくると思うよ」
伝聞調になってしまうのは、授業内容を把握しているわけもないからだ。どうしたって、推測になってしまう。これでは、月岡さんの不安はちっとも解消されないはずだ。
「数をこなせば大丈夫だって、おばあちゃんにも言われたよ。小さな子だって乗れるようになるから、心配し過ぎなくていいって」
「そうだな。幼稚園児でも数センチの浮上であっても、乗りこなすことはできるから」
「すごいなぁ。私、そんなに運動神経よくないんだよね。だから、時間がかかるかもって緊張してたの。やっぱり、難しいかも」
「気負い過ぎないでね」
運動音痴と一言で言っても、その段階には相当の差がある。壊滅的な人間がフリューに乗れるようになるのか。その実体を俺は知らない。
少なくとも、俺の周りにはフリューに乗れずじまいな子はいなかった。下手くそな子はいたが、小学生になるころには乗れるようになっていく。そういうものだった。
月岡さんは、俺の答えに笑って肩を竦める。マットの端に到達したところで、ようやく地面に下りた。足下が硬くなって、ひと心地がつく。月岡さんも同じなのか。深い息が吐かれた。
「ここまでありがとう。もう大丈夫だよ」
そう言って、手を差し出される。ぼさっとしてしまった俺に、月岡さんがフリューを示した。ああ、とワンテンポ遅れて、月岡さんのフリューを返す。
カスタマイズもされていない新品だ。俺のほうは傷が入っているし、取っ手のグリップ部分は藍色に変えている。ターボ周りも汚れているし、劣化しているのは紛れもない。
こうして見ると、分かりやすく初心者だ。もう少し早く気がつくことができたのではないか、と思うほどには。
気にかかったときに、かかったままにしておけばよかった。そうしていれば、事故らなかったとは言い切れない。俺ではない誰かとぶつかっていた可能性はあるし、そこまで防げるものでもないだろう。どうにもならないことだった。
だが……と、ギャラリーに上っていく後ろ姿を見上げながら思う。すこぶる慌てていた。今は常軌を逸していない。会話におかしなところもないし、歩きにおかしなこともないので怪我もしてないだろう。平常、に見える。
だからこれは、余計なお世話かもしれない。だが……と過ったことを、再度胸の中で転がす。
二人でギャラリーに上ると、人一人分を空けて並び、壁に背を預けてフロアを見つめていた。言うべきか、言わざるべきか。転がしていたものが胸につかえる。
横目で見る月岡さんは、フリューで動き回っている生徒をじっと見ていた。何かを学ぼうとしているのか。そう考えるほどには、何事にも真面目に取り組んでいる印象がある。その横顔からは、やはり異常性は見当たらなかった。
そこから目を離して、高い天井を見上げる。ふぅーっと息を吐き出すと、月岡さんがちらりとこちらを見た。物音に反応されたのは気まずかったが、タイミングとしてはちょうどよかったのだろう。
そうでなければ、俺はまだしばらく思考を堂々巡りさせて、一人遊びに明け暮れていたはずだ。
「大丈夫か?」
……我ながら、会話力の低さに呆れ返った。
月岡さんはぱちくりと目を瞬く。だが、すぐに合点がいったような顔になって、拳を作ってみせた。
「大丈夫だよ。どこも怪我してないから」
「……怖くないのか」
自分が口下手なことはもう散々自覚したので、細工もなくストレートに投げる。月岡さんは緩く目を見張って、握っていた拳を震わせた。けれど、笑顔はキープされている。
「そりゃ、少しは。でも、あのくらいはよくあることなんでしょ?」
けろっとした調子が、普段と一緒か違うのか。その判断ができるほど、月岡さんとの付き合いがない。ただひとつ言えることは、こういう体験を一般化するのは乱暴ということだ。
「でも、月岡さんは初めてでしょ? 怖いものだと思うけど。無理はしなくていいんだぞ」
耐性値は人それぞれ違う。
俺は小さいころから、割と高所からの落下でも気にならなかった。それは、マットの安全性に助けられて怪我をしなかったということもあるだろう。人との接触による落下もなかったはずだ。明莉とじゃれて落ちたことはあったが。あれは自分がはしゃいだ結果なので、事故とはまた別ベクトルで片付けられている。
とにかく、俺はへっちゃらだった。落ちても落ちても復活するので、両親の心労はたまったものじゃなかっただろう。そんな自分が異質とまではいかずとも、珍しいほうの自覚はあった。
月岡さんには、そんなちょっとばかりおかしい性質があるようには思えない。どれもこれも、俺の想像の域を出ないことだが。
「……そうだね。やっぱり、ちょっと怖いかな」
「見てなくてもいいんじゃないか」
そう言って、俺はギャラリーに座り込む。今、生徒は低い位置を飛んでいるので、そうするとフロアの下のほうは見えなくなった。
その仕草が伝わったのだろう。月岡さんも同じように腰を下ろして、ふぅと息を吐き出した。思うところはあったのだろう。でなければ、従う理由はないはずだ。よほど、意志薄弱でなければ。
「落ちるのにも、そのうち慣れるかな?」
「慣れないように頑張ったほうがいいと思う」
「頑張れば落ちないままに乗り回せるようになるもの?」
「頑張れば」
これ以上は言いようがない。頑張れば、できないことはないはずだ。俺はどこどこ落ちたが、あれは俺が調子に乗っていただけに過ぎないし、小さかった。高校生が訓練するのに、落ちるのが不可欠にはならないだろう。
「うーん」
月岡さんは自信がないのか。あからさまな呻き声を上げ始めてしまった。
「海島にも乗り物はあるんだよな?」
「うん。シーボードがあるよ。水上バイクのようなの。大体、作りはフリューと変わらないと思うけど、着水して波を捉えるのと空中の風を捉えるのは全然感覚が違って。すごく、変な感じ」
「波を捕まえるのもめちゃくちゃ大変そうなんだけど……」
自分の想像が合っているかどうか分からない。ただ、どう考えても自然に左右される運転などとてもできそうにもなかった。
それとも、風を捉えるなんて考えていないように、慣れれば波について考え込むことはないのだろうか。それでも、想像力は欠如していて上手く嵌まらなかったし、上手くできる気がしなかった。
分かったのは、感覚が違うのだろうということだけだ。
「ちゃんと捉える面があるもん。空は何もないところを飛ぶんだよ? 難しい」
「バランスを取ることに集中してれば、そのうち捉えるとか何とか考えることはなくなると思う。海でもそうじゃないのか?」
「海ではそうだったけど……もう、そんな細かいこと考えてないかも。でも、そっか。やっぱり、空も同じ?」
「同じだと思うよ。俺も正直、考えてないし、月岡さんほど違いを分かってるとは言えないけどさ」
この感覚の違いは想像でしかない。体感している月岡さんにしか分からないことのほうが多いだろう。そうなると、俺はもうお手上げだ。曖昧で不確かなアドバイスにも満たない下手な励まししかできない。合わせて口下手であるのだから、不毛さは人一倍だった。
「海もね、落ちるのは変わらないから、一緒だよね」
「……溺れない?」
「ライフジャケット装着で練習するの」
「そうか。ちゃんと安全性は保たれてるんだな」
「マットと一緒だよ。事故が起こったら大変なのも一緒だし……でも、そうだね。そう思えば、やれるような気もしてきた」
「なら、よかった」
共通点を見つけて、月岡さんは一人で気持ちを立て直している。あっさりとしているかはさておき、士気を持てたのであればよかった。自らの役に立たなさは、ちっともよくないが。
「ありがとう、鷹宮君」
「いや、どういたしまして」
一度否定が零れてしまったが、軌道修正した。自分が役に立っていない自覚はあったが、ここで拘泥するのはおかしい。
月岡さんは、俺の相槌をタイミングとしたのか。立ち上がって、フロアを見渡すのを再開した。
実践してみなければ、立ち直れているかどうかは分からない。だが、気持ちは持ち直したようだ。切り替えが早くて凄まじい。海と空。こうも環境の違う場所へ飛び込んで前向きにいられるのは感心する。
自分が今から海に順応できるか。それを考えると、感心の度合いは深まる。到底、とは腰が引け過ぎているかもしれない。だが、現状、とても馴染める気はしないし、無防備に飛び込めるとは思えなかった。
月岡さんのようにいられるとは思えない。覇気が瑞々しかった。明莉とはまた違う。向上心が含まれた横顔は、見ていて眩しかった。
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