第二章

第5話

 体力測定が終わって、地上で競技する体育を数回。その後、体育の授業はフリューの訓練時間になった。

 卒業時に島移動の免許を取得するためには、今以上の運転への慣れと規則の確認が必要になる。座学もあるが、実技のほうがより大事だ。

 ジャージ姿でフリュー練習場に集まる。練習場は三棟ほど建っていて、大きな体育館ほどに広い。

 床部分には一面マットが敷いてあって、二階によくあるギャラリー部分が広めに作られている。マットの合間に足場のような柱がいくつも建っていて、それを障害物として避けたり、上に着地したりして練習するのだ。

 生徒たちは棟ごとに三つに分かれて、ギャラリーに囲むように集合する。一クラスは三十人。それを三分割するので、一棟で十人。安全面を考慮してのことだろう。

 そんなふうに少数であるので、明莉とはばらけた。その代わり、というわけでもないが、同じグループには月岡さんの姿がある。月岡さんは、フリューの舵部分になる取っ手を手にして支えながら、気難しい顔をしていた。

 まずは、フリューの概要から授業が始まった。

 ボードのような本体から、取っ手が付いている。陸上があったときに使われたキックボードというものの形状に似ているようだったが、ボード部分はサーフボードのハーフほどの大きさだ。その下に、ターボが着いている。それを取っ手部分のアクセルとブレーキで操作する。簡素な作りの乗り物であるが故に、慣れるまでには乗りこなしが難しい。

 そうした基礎にも、一応とばかりに教師が触れる。ほとんどの生徒はまともに聞いていなかった。空島に住んでいて、フリューに乗らずに生活を送る人というのは稀有だ。

 中には遠出をしないから必要ないと割り切っている人もいれば、歩くことを好む人もいる。生活圏によってはあり得ることだ。

 ただ、高校では授業でも扱うし、子どもであればあるほど乗る機会は多い。ここにいる生徒もその大多数で、今更なことを真面目に聞いているはずもなかった。

 その中で、月岡さんはちゃんと耳を傾けているように見えた。あくまでも見えるだけという可能性があったが、その姿が海育ちの噂を強くする。

 真実は分からない。島同士で生活圏が区切られているものだから、出身の島が違えば知り合いが誰もいないなんてことは簡単に起こる。俺だって、明莉と戸尾以外とは知り合いではなかった。だから、月岡さんが誰にも知られていないからといって、海島育ちなのかどうかは不明だ。

 だが、海育ちであるのならば、真面目に聞いている風に見えるのも納得できる。気難しい顔にも通じるだろう。

 そう思いこそすれ、それじゃあ乗ってみましょうという実践の段になると、意識はそちらに奪われた。

 というよりも、確証がないうえに、月岡さんとは表情が分かる対面にいる。ギャラリーの対面であるから、マットのある館内分の距離があるのだ。声をかける手段もなかった。

 あったとしても、かけられてもいなかっただろう。図書室での遭遇後、一度も話していない。下手に接触があった上で距離感が維持されてしまったが故に、再び声をかける難易度は底上げされている。

 そのため、生徒たちが各々動き出してからは、月岡さんの姿を見失った。いくら十人しかいないと言っても、フリューでの移動にはスピードが伴う。そして、慣れているものが多ければ入り乱れることは免れない。そのまま自由に飛び回っていれば、月岡さんのことはすっかり抜けていく。

 そのときの俺たちの結びつきなんてものは、その程度のものでしかなかった。そうして、稚拙な相手を忘れ去っていたのがよくなかったのか。そんな責任を負わずともよいだろうが、しかし、ひょいっとクラスメイトを避けたのはよくなかった。

 普通なら……慣れた人なら、予想もつくであろうし、目視で避けられる距離があったのだ。だが、俺が避けた先にいたのは、不安定に空中停止気味になっていた月岡さんだった。

 こっちがまずい、と思ったときには、月岡さんの顔は真っ青になっていた。停止気味ではあったが、完全停止はできていない月岡さんがこちらに突っ込んでくる。俺はギリギリで軌道を変えるように動いたし、実際ギリギリで月岡さんの正面にフリューを横にした状態で止まれていた。

 それでも、まずいと思った気持ちに変わりはない。ぶつかり方はせいぜい人同士のそれで、エンジンのついた乗り物同士の衝突には比べものにならない小さなものだっただろう。

 しかし、いくら停止中の衝突であっても、バランスを取り続けるのは難しい。月岡さんの真っ青な顔が胸に飛び込んできて、俺と月岡さんはそのままマットの上に落下した。

 初手の実技では、上空二メートルまでの飛行。高い。だが、下は深く柔らかいマットだ。卓越した技術がつぎ込まれている。学園で事故など起こされてはたまらないだろうし、そうでなくとも設備を整えることは義務だ。そのため、痛みは転んだ程度のものでしかなかった。

 だが、自分の上に倒れ込んだ月岡さんの顔色は、真っ青を通り越して紙のように真っ白になってしまっている。


「ご、ごめ……すぐに、退くから!」


 度を失っているからか。マットが深いからか。足先がマットを蹴ってもだついている。月岡さんにしてみれば、事故の加害者であるのだから、狼狽ももっともだった。

 しかし、こちらの要点はそこにはない。身体がぶつかる。それだけでも焦るが、胸板にぶつかっているバストが気になって仕方がない。やわっ、と思ってしまったのは責められないだろう。思うだけであったのだから。

 そして、月岡さんからはいい匂いがする。起き上がろうとマットと格闘しているのが、いただけない。

 身体がぶつかって痛いとかそういうことはなかった。だが、柔らかな塊がお互いの間で形を変えている。そんな場合ではなくとも、どうしたって意識が向かってしまった。

 月岡さんは焦りで周囲が見えていない。教師がこちらに来ているのが見えて、このままではまずいと意識が引っ叩かれた。そっと。刺激したり驚かせたりしないように、目の前にある華奢な肩に手を置く。


「落ち着いて。まず正座するように起き上がるといいよ」


 マットで練習するのは、空島で過ごしてきた人間には普通のことだ。そして、マットの上に落っこちてマットに弄ばれるのもよくあることだった。コツも分かっている。

 月岡さんはこくこくと頷いて、ゆっくりと身体を上げて腰を落ち着けた。それに連動して、こちらも起き上がることができる。こっちに寄ってきている教師が胸を撫で下ろしていた。


「怪我、してない? 鷹宮君」


 やってきている教師に目を向けていたところに尋ねられて、月岡さんに視線を戻す。乗り出すようにこちらを注視してくる瞳が、緩く揺れていた。胸の前で組んでいる手のひらの指先が白くなっている。顔色はなお、悪い。


「大丈夫だから。落ち着いて。月岡さんこそ、怪我はしなかった?」

「私は平気。ぶつかってごめんなさい」


 本当に平気なのか。ひとつも自分の身体に気を配ることなく頭を下げる。手こそついていないが座り込んでいるものだから、頭が低過ぎた。


「大丈夫。こっちこそ、いきなり方向転換して悪かったよ。ごめんな」


 慣れているものばかりではない。そんな気遣いは、咄嗟に浮かんでいなかった。ちらと過った瞬間があっただけに、迂闊だったことに思い至る。


「ううん。私が危険走行だから」


 へにゃっと眉尻を下げて笑う顔つきは薄幸だ。顔色もまだ戻っていないので余計に。


「二人とも大丈夫か?」


 やってきた教師が、マットの上に見事に着地する。フリューからそのままマットの上に平然と着地できる運動神経は素晴らしい。


「俺は平気です」

「私も大丈夫です」

「無理はしていないな? ひとまず、二人とも休憩を入れておくように。今日はもう休んでいなさい」

「はい」


 しょんぼりと項垂れるように月岡さんが頷く。

 こちらは休憩など不要だった。だが、月岡さんが頷いてしまったので、否定できない。足並みを合わさなければならないとは思わないが、顔色の悪い月岡さんを放って飛びに行くわけにもいかなかった。

 フリューに振り回されるどころか、マットにも翻弄されているのだ。俺は立ち上がると、座り込んだままの月岡さんに手を差し出した。瞠目した顔がこちらを見上げてくる。青色の瞳は、電灯の光に揺れる波のようだ。


「立てる? ゆっくりね」

「ごめん。ありがとう」


 自分が不得手で頼りない自覚はあるらしい。素直に手を取ってくれてほっとした反面、どきりともした。

 明莉が人の手を引いて歩くことはよくある。慣れない接触というわけでもない。けれど、数回会話をしただけの女の子の手に触れる。さっきまでの諸々の感触が蘇って、身の置き所がなかった。

 ぐいっと引っ張り上げると、月岡さんはいくらかふらつく。やはり、放っておくのは不安だ。どぎまぎしている場合でもなかった。


「歩けそう?」

「あ、うん。多分? ゆっくり行けば、何とかなると思う」

「分かった。じゃあ、フリューは俺が持っていくから、ゆっくり進んで」

「ありがとう。迷惑かけてごめんね。鷹宮君は走っていたかったでしょ? 私が巻き込んでしまったから」

「構わないよ。止まれてなかったら、俺のほうが突っ込んでしまってたかもしれないし、そしたらこれくらいの接触じゃ済んでなかったよ」

「だからいいってわけじゃないよ。私が行く手を阻んでいたわけだし」

「十分距離はあったよ」


 確かに、スピードが遅過ぎるのは危険走行のひとつだし、停止にも問題がある。だが、至近距離に構えていたわけではない。先に俺がクラスメイトを避けようとしたが故の事態だ。事故の過失は両成敗だろう。怒る気にはならなかった。

 それに、こういった事態を見越した上での訓練だ。フリューの練習中に落ちることなどよくあることだった。月岡さんはそういったことに免疫がないのかもしれない。

 ……そうか、と隣を歩きながら、納得できない顔をしている月岡さんを見下ろす。

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