第3話

 俺はいつも図書室に寄って帰宅するようにしている。何も図書室が大好きだと言えるほどの、本の虫と言うわけでもない。

 ただ、帰りはフリューで空が混む。どれだけ橋や空間を広く設けていると言っても、学校島から寮島までの通学路は全員一緒だ。帰宅部だって多い。

 それが一斉下校するのだから、フリューの移動もスムーズとはいかなかった。少なくとも、休日のように風を切って走るには気を遣う。

 だったら、学校へ残って時間を潰したほうが気が楽だ。走るのが好きだというのもあるが、一人でいるのも嫌いではない。明莉と遊び回ることも楽しんでいる。苦悩もあるが、それはそれとして楽しんでいた。だが、一人の時間は癒やしの時間だ。

 俺はその心情に従って、緩慢とした歩調で図書室へと向かった。図書室は静かだ。図書室であるからというのもあるだろうが、利用者も少ない。テスト期間になれば人が増えるらしいが、普段は閑古鳥と呼べる。だからこそ、気軽に顔を出すこともできるというものだ。

 人目を気にせずにいられる場所というのは、貴重だった。寮生活は一人部屋だし、リラックスできる環境は整っている。ワンルームではあるが、壁が薄いこともなかった。

 だが、寮以外でも安全圏を手に入れたくはあるものだ。秘密基地を持っているのは、気を健康にする。

 静かな図書室を移動して小説を見繕うと、ソファに腰を下ろした。テーブル席もいいが、しれっと置かれている応接室風の空間は隠されていてちょうどいい。ここを見つけたときは、ラッキーだと喜んだものだ。

 心地良いソファに身を沈める。そうして、読書に溺れていた時間は、どれくらいのものだっただろうか。大した時間ではなかった。閉館の合図はなかったし、窓の外の風景だって変わってはいない。

 しかし、俺は物音に顔を上げてしまった。普段から、物音がしないわけではない。いくら閑古鳥が鳴いていると言っても、図書委員がいるし、小さな物音はしている。

 ただし、今日の物音は通常を逸していた。事件性を感じるほど切迫感はない。だが、何冊もの本が落下するような目立った音だった。さすがに無視しておくことはできずに、本を片手にソファから立ち上がって本棚の間を覗き見る。

 そこには、慌てて本を拾っている月岡さんの姿があった。ロングヘアが床につきそうになっているのも厭わずに、わたわたしている。もう落としてしまったのだから、ゆっくりしてもいいだろうに。忙しなく動いているのが、狼狽っぷりを知らしめていた。

 こうして覗き見ているのも感じが悪いかと、ソファに戻ろうという気も削がれる。本をソファに置いて、月岡さんのそばに近付いた。

 足音に気付いたかどうかは分からないが、人影が映り込めば気がつく。顔を上げた月岡さんは、不審な顔になった。垂れ下がった眉が、心許なさを写している。慌てふためいていた手が止まっていた。


「大丈夫?」


 言いながら、腰を屈めて本を拾うのを手伝う。そこで月岡さんはようやく、


「あ、あ、うん」


 とけっつまずいたような声を出した。

 ただでさえ慌てていたようであるから、俺の登場で格段のパニックに貶めてしまったようだ。挨拶すらしたことのないクラスメイトに助けられるのは、その辺の道端で誰とも知らない赤の他人に助けられるのと変わらない。

 ありがたくもあるだろうが、相手の出方を窺うようになってしまうのはよく分かった。


「ひとまず、拾ってしまおう。大丈夫だから」


 何が大丈夫なんだ? と自分でも疑問があったので、月岡さんも困惑したと思う。だが、それ以上どうしようもなく、俺は本を拾うことに終始した。

 月岡さんも、じきに時計の針が動き出したように、本を拾い始めた。

 愛想が良ければ、会話をしながら作業に励むところだろう。だが、俺のコミュニケーション能力は明莉に吸い取られているようなものだ。何かと頼り切っているかもしれない。

 仲の良い女子と言うと明莉しかおらず、明莉は放っておいてもこちらへ話しかけてくれる。明莉は人見知りもしないし、そういう生命体だった。こんなふうに、大人しそうな月岡さんと会話を弾ませる術は、俺にはない。

 しかし、無言で突き進むにも限界がある。拾った後も無言でいようなんて、手を出した側として虫が良すぎるだろう。


「これ、配架?」

「うん。ありがとう、鷹宮たかみや君」


 ちゃんと認識されていたのか。

 こっちだって相手を認識していたが、それは月岡さんが人の目を惹く容姿をしているからだ。だからこそ、海生まれの海育ちらしいだの何だの、噂が出回っている。本人がそれを認識しているかどうかは知らない。下品な内輪話が耳に入っていないことを祈るばかりだ。


「どういたしまして。手伝おうか?」

「私の仕事だから」

「一気に持ち過ぎたな」

「そうだね。ちょっと欲張っちゃった」


 照れくさいというよりも、バツが悪いのだろう。へへっと誤魔化すような半笑いが零れた。お茶目だ。


「欲張った分くらいは手伝うよ」


 その分は、ちょうどこっちが手にしている四冊ほどだろう。笑って示すと、月岡さんは困ったような顔になった。


「いいの? 休んでたんじゃない?」


 月岡さんは図書委員、だろう。正直、そこまで覚えていなかった。だが、配架作業をしているのだから、そうだろう。もしかすると、俺がソファで過ごしているのを目撃していたのかもしれない。

 困惑が迷惑ではない気遣いなことにほっとした。


「構わないよ」

「じゃあ、お願いします」


 胸の前に六冊を抱えて頭を下げる。胸囲が邪魔になって、胸の前に引き寄せるラインが人より遠そうだ。というのは、雑念でしかないので、笑って散らす。


「任されました」


 礼儀正しさに合わせて答えると、小説であることを確認して作者の棚へと移動した。手早い動きは、気まずさからの逃亡もある。

 月岡さんは良い子だし、悪気はない。ただ、自分から手を出したにしては、まともに会話もできない。煮え切らないクラスメイトであることが、気まずさに繋っている。

 月岡さんは俺の行動をどう見たのか。内心は気になったが、様子を見るなんてできるはずもなかった。

 たったの四冊だ。日頃から図書室を利用していれば、返却するのにそれほど時間はかからない。さっさと撤退したい気持ちになっていたが、無言で引き上げるわけにもいかないだろう。不躾が過ぎる。いくらコミュニケーションが苦手といっても、そこまで利己的になるつもりはなかった。

 明莉相手なら、何もしなくてもいい。終わった? と声をかけてきて、話を畳みかけてくるだろう。主導権を握られてばかりいるから、受け身になっているのかもしれない。クラスメイトの女子と話すのにこれほど難儀することになるとは。

 何も明莉の後ろに隠れていたわけじゃない。精力的ではないだけだ。あえて明莉に任せてしまおうだなんて打算があるわけでもない。しかし、こうなってくると明莉に甘えていたと言わざるを得なかった。自分の不得意が浮き彫りになる。

 苦笑いを零しながら、そろそろと月岡さんの元へ向かった。本棚へ本をしまっている横顔には、日射しが後光のように差している。気が引けるのは、そういった部分もあるのだろう。


「月岡さん、こっちは終わったよ」

「ありがとう。鷹宮君。助かったよ」

「どういたしまして。それじゃ」

「あ、うん」


 漏れた声は、何かを伝えようとしていたような気がした。けれど、俺が踵を返したところで、すぐに相槌へと変わる。気がついていたけれど、そこに詰め寄ることはできなかった。

 大々的に感謝を受け渡されても、どうしようもできない。逃げ出すように見えないように、俺は平素を装ってソファへと戻った。

 無愛想であったかもしれない。けれど、用もないし、共通項もないのだ。これで雑談を引き延ばせるほど、俺は能動的でもないし技術もない。

 そして、月岡さんだって、その枠を飛び越えてくるような子ではなかった。明莉とは違う。月岡さんのことを知っているわけではないけれど、そのくらいのことは分かった。

 ほんのわずかな接触は、わずかな接触のままに流れていく。月岡さんの出方からも、こちらからも、きっとそうなるのだろうと無意識に断じていた。

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