第2話
くわりと漏れそうになる欠伸を噛み殺すと、なまじりに薄らと涙が盛り上がる感覚がした。放っておくこともできたが、授業中に涙を流したくはない。何とはなしに目を擦って、窓の外から教室へと視線を移した。
授業はちらとも集中できていない。他の生徒も似たり寄ったり、というのは心苦しいが、昼食後の五時間目は眠気が凄まじかった。
今日は特に、解説が多くてつきものの現代社会の授業だ。現代社会と名がついているが、空島や海島。その二つの成り立ちなどにも触れる歴史と密接に繋っている。
教師はそれをつらつらと並べ立てていた。この先生は、いつもこうした授業をする。悪い授業ではないのだが、如何せん眠たい。五時間目の日は、いつだって睡魔との戦いを繰り広げることになる。
そんな中で、ちゃんと授業を聞いていそうな背中を見つけた。中央の後ろから二番目。中途半端な位置にいる俺より前。窓際の前から二番目。こちらもまた中途半端な距離感にいる月岡さんだ。
月岡さんのロングヘアは背もたれに垂れて、陽光に照り映えている。その背はピンと伸びていた。姿勢良く肘を突いて寝るものもいるが、それにしては首が下がっていないし、多分起きている。
だから何だという感じだが、他が集中力に欠けているので、目に留まった明莉などは廊下側の真ん中でおおっぴらに寝入っている。先生は眠っているのは自己責任と断じるタイプだ。注意もされない明莉は、意に介さないお昼寝タイムを謳歌していた。
それと見比べているわけでもない。それでも、伸びた背をしている月岡さんには感心した。これは何のフィルターだろうかと考える。
瞳の件は、情報のフィルターだ。しかし、今は一体何か。俺は授業に勤しむ姿を特別視するほど、真面目な質でもない。それでも、吸い寄せられていた。
色艶のある髪の毛に気を取られているだけなのかもしれない。真面目な女生徒よりも、綺麗な女の子という視点のほうが、凡俗ではあるけれど、俺の中ではよっぽどあり得るものだ。
そんなことを考えながら、授業内容は右から左に受け流していた。
「海島と空島の違いは、やはり一番はその名の通り。水中と空中。その二つの違いを知っている子もこの中にはいるでしょう。遊びに行ったことがあるかもしれませんね。しかし、転移するとなると、また事情が変わってくることも多いです」
流していた言葉が少しだけ脳内へ引っ掛かる。そこでようやく、フィルターの正体を掴み始めた。
空と海。
その噂が本当であれば、月岡さんはその違いへの知識を拾おうとしていたのかもしれない。その視点に気がつくと、薄ぼんやりとした苦労へ思いが走る。どれもこれも茫洋としているのは、眠気半分だからだ。
雲のような思考は、数分の寝落ちの隙に晴れていってしまった。
「翔大!」
あのまま六時間目までをお昼寝タイムに費やしていたとは思えないほどの元気さだ。いや、むしろばっちり眠っていたからこその元気だろうか。
俺の元へ一直線にやってきた明莉は、座っている俺を見下ろしてくる。
「何か?」
明莉には色々な友人がいるし、他クラスに特段仲の良い人もいる。放課後だからといって、俺の元へやってくるものでもない。ありていに言えば、何かないと訪ねては来なかった。
「今日、時間ある?」
「何をしようとしてんだよ」
先に用件の内訳を聞きたいところだが、こればかりは人それぞれだろう。
ましてや、マイペースな明莉であるから、こちらの願いを押し付けようとしたところで無駄だ。経験上、そんな無駄なことに労力を割くつもりはなかった。こちらから話を振ったほうが数倍は話が早い。
「
「なんで、それに俺がついて行くと思うんだよ」
こちらはそこまで仲良くない、というと語弊がある。だが、実質明莉と比べれば、仲が良いとは言えそうにもない。そんな相手と、密室でのカラオケに臨む勇気はなかった。
「え~、なんで。薫も翔大と仲良くしたいって言ってたのに」
「それは嬉しいけど、
「好きじゃないっけ?」
「好きでも嫌いでもない」
何かの打ち上げにわらわらと引きずられたことはある。だが、個人で行ったことはあまりない。何度か明莉に付き合わされたことはあったが、歌うのはおおよそ明莉だったし、熱唱した記憶はなかった。
「じゃあ、しょうがないなぁ。買い物だったら、一緒に行く?」
「戸尾を引っ張り回してやるなよ」
「薫はそんなこと気にしないよ」
「俺が気にするわ」
戸尾は明莉のやることに鷹揚だ。大抵のことはあっけなく納得して、受け入れてしまう。二人の関係に口を出すつもりはないが、俺がそれに甘えるつもりも毛頭ない。
苦笑すると、明莉は分かりやすく膨れた。表情豊かでいいことだが、俺は戸尾ではないので、それだけで意見を翻すつもりはない。
「釣れないなぁ」
「俺が釣れたことなんてそうないだろ」
「気力がないんだよ」
そこまで無気力なつもりはないが、明莉と対すると分が悪かった。この元気っ子と競えることなど多くはない。せいぜい成績くらいではないだろうか。遊びの側面では、敵う気はしなかった。
「明莉が元気なだけだろ。俺はいいから、戸尾と楽しんでこいよ」
「しょうがないなぁ」
何故、こちらが妥協されているような態度を取られないとならないのか。釈然としないが、追い縋る気もない。
「じゃあ、今度はちゃんと約束してから遊びに行こうね」
「分かったよ」
まぁ、遊びたいのだろう。その相手に俺を選んでくれるのは嬉しい。俺はありがたく相槌を打った。約束の約束という回りくどいことになっているが、明莉が納得するのであればそれでいい。
「約束だからね」
「分かったって言ってるだろ。明莉との約束を反故にしたことがあるか?」
正式に言えば、反故にしてくれたことがない。俺としては絶対に守らなくてはならないなんて気負ったことは一度だってなかった。だが、明莉自身が迎えに来て俺を連れ出すのだから、反故にしようがないのだ。
「ないけど、守る気があるのかも大概怪しい」
「戸尾を巻き込むなら俺だって不精はしない」
「あたしだけじゃやるんじゃん!」
「明莉は自分でどうにでもするだろ」
「翔大はあたしを適当に扱い過ぎじゃない?」
「今更言うか?」
自覚はある。褒められたものではない。これは他人に通じるものではないので、ほどほどにしている。しているが、明莉にすべてを合わせていると、ついていくのも大変だ。ほどほどに、雑に扱うときもある。
肩を竦めると、明莉も同じように肩を竦めてきた。
「じゃ、今日はこれで。薫の予定聞いてから連絡するね」
お隣同士の幼なじみは、そこまで頻繁に連絡取り合うわけじゃない。それを言い置いていくということは、更なる念押しだ。いくら雑にしているといっても、用事もないのに約束を蹴るほどの不義をするつもりはなかった。
苦笑いで、手を振りながらご機嫌に去っていく明莉を見送る。いつもながら、スキップめいた歩き方は機嫌が分かりやすい。戸尾と遊びに行くのが嬉しいのだろう。楽しそうで何よりだ、と息を吐き出して、俺は教室を後にした。
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