Pistol

平山芙蓉

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「ここにいる奴ら、全員殺してしまおうか」


 冷たい彼女の手を握りながら、僕は耳元で囁いた。声量は絞ったつもりだったけれど、少し大きかったかもしれない。周りにいる客や店員の何人かが、僕たちの方をちらちらと窺ってきた。もちろん、それも数秒のこと。だから、僕はちゃんと気付いていないフリをしてやった。そのくらいのサービスは、マナーとして弁えているつもりだ。


 間接照明で薄暗く設定されたバーの店内は、煙草の煙で満ちていた。そこにアルコールの香が混じっているから、香はかなり苦々しい。光に押しやられた天井の底には、その白煙をどこかへ遣るためのファンが、静かに回っていた。きっと、手入れはされていないだろう。店員たちはそこまで気遣いができるほど、優しい人間には見えない。でも、汚れる仕事はいつだって、押し遣られた奴らの領分なのだ。あいつも多分、そのことを分かっているから、静かに回り続けているに違いない。


 彼女は僕に手を握られたまま、身体を離した。後ろには、ソファの背凭れがあって、それ以上は退けない。更に背後には、他の客の頭がある。ソファの厚さのお陰で、ぶつかる心配はない。でも、もっと逃れようとして頭まで反らそうものなら、接触は避けられないだろう。


 これ以上、彼女に窮屈な思いをさせて、嫌われるのは嫌だった。だから、仕方なく手を放し、身体を遠ざける。右手は寂しいなんて、情けない感情を吐露していた。けれど、僕としては、彼女の姿がよく見えて良かった。ただ、俯いているせいで、表情が分かりにくいことだけは玉に瑕だけど。


 二人で挟んだテーブルの上に、目を遣った。ダークブラウンの天板の上には、僕の側にソーサーに乗ったコーヒーカップ、彼女の側に、薄い色の紅茶の入ったグラスが置かれている。彼女はそれに、ほとんど手を付けていない。運ばれてきた時に、ストローを挿したきりだ。それだけじゃ満足いかないから、早く飲んでくれ、と主張するように、グラスには沢山の水滴が付いていた。


 一方で、僕のカップの中身はもう空っぽ。熱さも苦さも、自動販売機の缶コーヒーと、大差のないコーヒーだった。それでいて、一杯四百円する。あまり力を入れていないメニューであることは明白だ。もっとも、バーに来たら大抵は酒を飲むのだから、仕方ないと割り切っているけれど。


 そうやって乗ったままの食器たちの中に、吸殻で溢れた灰皿が紛れ込んでいる。彼女も数本は吸っていたけれど、主に僕が吸ったものばかり。黒くて丸いそいつの周りには、白い灰が散っていた。じっと見つめていると、何だか、僕を誘っているような気がしてくる。僕は誘いに乗ってやろうと決めて、上着のポケットから煙草を取り出し、火を点けた。天井から伸びる、提灯鮟鱇の触角みたいな照明目がけて煙を吐き、僅かにフラフラと揺れる様を僕は眺めた。


「さっきの話だけど」


 しばらくの無言の後、彼女が口を開く。とてもか細い声だった。でも、周りが騒がしい傾向にあるから、そう聞こえただけかもしれない。今夜は僕たちと同様に、終電を逃した人間が多いみたいだ。


「何?」僕は照明から彼女の方へと向いて、にっこりと微笑む。彼女はテーブルの上に目を遣ったままだった。


「どうして、あんなこと言ったの?」


 そう言いながら、彼女はゆっくりと顔を上げる。落ち窪んだ目元には、昏い瞳。その表面は、暖色の光を渋々、という風に反射させているだけで、他には何も映っていない。


 テーブルの様子も、彼女を見つめる僕も。


 それがどうにも虚しくなって、自然と僕は目を逸らしてしまった。脚を組んで、身体を横にずらし、背凭れに煙草を手にした腕を乗せる。


 僕は彼女の言葉の意味を、理解しようと努めた。もちろん、聞こえてきた声の意味は分かっている。さっき、僕が聞いたことを、問い質そうとしただけ。でも、その裏側は、もっと別の、それも厄介な意図が潜んでいることは、明白だった。とても厄介な……、そう、真意という名の敵が。影に潜んで、じっと僕を殺そうとする、敵が。


 実際のところは、気に留めるまでもない。そいつはいつだって、あらゆるモノに潜んでいて、大抵は無害なのだから。だけど、彼女の言葉に潜んでいるものとなれば、話は別だ。返答が気に食わなければ、簡単に牙を剥いてくるだろう。そういう恐怖を、僕は彼女との間で、何度か経験したことがある。今日は大丈夫だと油断していた。だから、あんなことを口走ってしまったのだ。ここへ来る前に、ワインを飲んだから、間違えてしまったのかもしれない。


「さあ……、どうしてだろうね……」僕は白い煙と共に、そんな誤魔化しを口にした。もちろん、ちゃんと真っ直ぐに、彼女と目を合わせながら。けれど、言い終わる頃には、季節を跨いだ花のように、その視線は萎れてしまった。


「言ってみてよ」彼女がテーブルの上で、左手を伸ばしてくる。装飾の着けられていない、細すぎるくらいに細い指だった。


 僕は上目遣いに、彼女の表情を窺ってみる。すぐに目を逸らしてしまった不甲斐ない僕とは違い、彼女はじっと僕を見つめていた。


「君は幼稚だって、笑うかもしれないけど……」僕は少し身を乗り出して、短くなった煙草を消した。持つものを失った指が、天板の上でステップを踏む。僕はそれで、自分の表情が硬いことに気付いて、笑みを取り繕ってみた。


「それでも良いわ」彼女が僕の手の上に、自らの手を重ねる。さっきよりも冷えているみたいだ。秋になったというのに、夏場と同じくらい、空調を効かせているからかもしれない。


「僕は、何かを変えたいんだ。具体的に言うなら、そうだね……、世界とか」


「あら、大きく出たわね」彼女は鈴のような声を出して笑った。


「でも、僕にあるものは、これしかないから」自分の懐をちらりと見遣る。そんな仕草に気付いた彼女の顔は、神妙なものへと変わり、僕の胸元へと視線が注がれる。そして、僕の胸と顔との間で、何度か目を往復させると、元通りの微笑みを浮かべた。


「世界を変えたい?」


「そうだね、変えてしまいたい」


「なら、そのピストルに意味はないわね」


「どうして?」僕は自分の手を翻して、彼女の手の平と合わせた。


「ここにいる人が減ったところで、何の影響もないもの。精々、周りの人たちが困るくらいじゃないかしら」


「でも、一歩近付けるかもしれない」


「無理よ」彼女はきっぱりと言い切った。


「そうかな……」


 僕は彼女と重なった手を、引っ込める。再び自由になってしまった手を、ジャンパの左胸にある内ポケットへ収めた。重たい鉄の感触が伝う。不思議と、彼女の体温よりかは冷たくなかった。


「じゃあ、どうすれば良い?」ソファの背凭れに、頭を乗せながら聞いた。離れたところにあるカウンターからは、僕を睨んでいる気配があった。


「そうね……、一番手っ取り早いのは、私たちが変わることかしら」


「つまり?」


「そのピストルを、私とあなたの頭に当てて、引金を引くだけ」


「おいおい……」僕は突拍子もない返答に、言葉を失った。


「嫌なら、脱出しちゃえば良いのよ。パーティだってそうでしょ? 自分が楽しくないからって、他のお客を説得して回るより、会場から出てしまう方が早い」


「一人でも説得に応じてくれれば、そこから伝播させられる」


「何かを変えたいんでしょう? だったら、現実的な順位をつけるのは、妥当だと思うけど」


「それでも……」僕は一度、頭を振った。「僕は、僕のやり方で世界を変えたい」


「我儘ね」


「自覚はあるさ」


「これまでそうやって、何人も、あなたみたいな人が、世界にピストルを向けたわ。結果は今が示している通り。変わらないのよ。それこそ、会場に隕石でも降り注がない限りね」


 身体を起こして、僕はテーブルに片肘を突いた。煙草を吸おうか迷ったけれど、喉が痛み出していたのでやめておく。鼻にだって、電気のような痺れがあった。店に充満しているはずの苦い臭いに、鈍感になっている。


 結局、恐れていた真意とやらに、噛みつかれてしまった。こうなることは分かっていたことだ。彼女の言い分は、機械で出力したみたいに正しい。


 世界は変わらない。


 証拠は、変化できない僕自身。


 そう……。


 彼女にあそこまで言われて、納得しているつもりでも、頭の片隅では、このピストルでどうこうしようなんて、誇大な計画を立てようとしている。子どもの語る夢のように、何ら複雑性はない割に、無理難題な計画だ。


 分かっている。


 僕の中には、そうやって自分を否定する自分が、常にいることを。


 それでも、この変わらない世界に抗いたい。


 そのためなら、ここにあるピストルで、世界中の人間の頭を一人ずつ撃ち抜いて回ったって構わない。


 何十年、何百年かかろうとも。


 その延長線上で命を落とすのなら、それでも良い。


 彼女の言った、至って合理的な離脱方法でなければ、何だって。


 そんな覚悟を、彼は伝えてくる。僕の中で、ひっそりと。安物のライターで点火するように。


 顔を俯けたまま、周囲に目を遣る。客の数は少し減っていた。いつの間にか、何組か退店したらしい。店員がカウンターテーブルの上を、掃除して回っている。騒がしさが軽減されたからか、埋もれていたBGMが聞こえてきた。スローなジャズの音色。けれど、すぐにウッドベースのソロパートに入り、どこかに設けられたスピーカーから、ぼそぼそと陰気な音色が這い始めた。


「ねえ、やっぱり……」


「何?」


「失礼します、こちら、お下げしても?」


 僕が話し始めたところへ、店員が割り込んできた。髪の長い男の店員で、グラスの沢山乗った丸盆を片手で器用に持っている。僕は無言でコーヒーカップを彼に渡してから、ウィスキーのロックを注文してやった。恐らく、早く出て行ってほしくて、僕たちのところへ来たのだろう。そんな意図が、ぴくりと動いた顔の皴に、よく出ていた。もしかして、新人だろうか。それにしては、歳をかなり食ってるように見える。


「それで、続きは?」去って行く店員の後姿を見送りながら、彼女が言った。


「いや……、良いんだ」首を横に振って、僕は口を閉ざす。あの店員のせいで、気持ちは折れていた。


「嫌な人」


「何が?」


「勿体ぶったりするところが」


「僕は、そういう人間だって、君が一番よく理解してくれているだろう?」僕は笑った。


「そうね。あなたはそうやって、どっちつかずの人間だわ」


「悪いね」僕はまた、煙草の箱を取り出す。箱の中身は、あと二本だけしか入っていない。「吸うかい?」彼女に箱を向ける。


「そんなにキツい煙草、吸えないわよ」彼女は笑って断った。


「そうだったね」僕は一本を口に咥えて、ラスト一本だけ残った箱を、無造作にポケットへ仕舞った。中で折れただろうか。だとしても、そこまで執着はない。皴だらけになったって、どうせ吸うのだから。


「これだけは勘違いしないでほしいんだけど」僕が火を点けるタイミングを見計らって、彼女が声を出した。「私は、あなたが嫌いなわけじゃないわ」


「分かっているさ」僕は頷いた。「君の愛情が、刺々しいことなんて」


「あら、好きとも言ってないわよ?」


「愛していないとも言っていない」僕がそう返すと、彼女はニッコリと笑って、目を伏せた。


「どうだと思う?」


「何が?」


「私があなたのことを、本当はどう想っているか」


「一緒にいてくれるなら、何だって良いさ。嫌われていようとも、好かれていようとも」


「本当に?」


「できれば愛していてほしいけれど、それはただの理想さ」


「あなたの無理な計画みたいに?」


 僕はその問に答えないまま、口を閉ざした。彼女も、追求をしてくる気配はない。静かな店内とは対照的に、ジャズがアップテンポなモノへと変わる。騒げと煽るように、強いドラムの音が響く。もちろん、誰もそんな変化を気にしている様子はなかった。


 しばらくしてから、さっき注文したウィスキーが席へ届く。一口飲むと、きついアルコールの香が鼻を衝き、喉から胃にかけて、燃えるような熱さが奔った。一瞬、視界が広がって、彼女の周囲が大きく見えた。それでも、僕は手を休めずに口を付けて、飲み進めた。全身が加速度的に火照り、関節が痛みを訴えかけてくる。聴覚が鋭敏になって、心音のスピードは、ドラムロールといい勝負をしていた。


 記憶が淡い雪のように溶けていく。一度、もっとゆっくり飲みなさい、と誰かが忠告してくれた気もするけれど、それだってあやふやだ。誰だったのだろう? 亡っとする意識の中では、全てに刹那的な印象を植え付けられてしまう。


 誰から殺そうか?


 誰から撃ち抜いてやろうか?


 誰からだって良い。


 今なら全員、撃ち殺せる。


 頭を正確に狙って、殺してやれる。


 僕を睨んでくるあの店員だって、


 彼女の後ろの席にいる客だって。


 歩くよりも簡単な動作として、遂行できるさ。


 アルコールで胡乱な脳内で、後先もない稚拙な万能感が増長していく。時々、呼吸をして、そんな芽を摘んでやるけれど、そいつはテトリスの終盤みたい速度で思考の領域に入り込んでくる。子どもに酒を飲ませてはならない理由が、僕には何となく分かった。


 芋虫のように長くなった煙草の灰が、テーブルの上へ落ちる。彼の動かない身体は、空調の風で脆く朽ちていった。僕は手拭きで軽く拭って、最後を与えてやる。潰れた虫は、最後に白い跡を遺した。後から店員に、溜息を吐かれる優しい想像をしてみる。遺したものも、綺麗さっぱり拭き取られ、消毒され、元通りになった後、手間をかけさせるな、と溜息を吐かれる、優しい想像を。


 でも、それだって僕の身体を巡るウィスキーに、容易く流されてしまった。


 つまり、どうとも思わなかったということ。


 多分、みんなそうなのだろう。


 たとえ、僕がここにいる人間の全てを、殺してしまったとしても、


 世界に傷の一つも与えられない。


 死んだ人間たちと同じだけの重量を持つ面倒に、生きている誰かが振り回されるだけ。


 それを気にする人間はいない。


 だってそれが、仕事ぎむなのだから。


 溜息を吐いて、酒に流して、お終い。


 分かりきった答だ。


 そんな世界を変えたいのに……。


 何もできない。


「行こう」最後の一口を飲み干して、僕は席から立ち上がった。


「大丈夫? フラフラしいてるけど」彼女も慌てて立ち上がり、僕の身体を支えてくれる。「ちょっと休んでからでも、良いのよ?」


「大丈夫、僕は大丈夫だから」彼女の手を握り、そう言った。


「でも……」


 僕は食い下がってくる彼女を無視して、店員に勘定を頼んだ。早く店を出たかったので、釣りは要らない、と言った。彼女がやめなさい、と怒っていたけれど、僕は聞こえなかったフリをしておく。周りのテーブルの客が、何かひそひそと囁いていた。


 階段を上り、店を出た。秋の肌寒い風が、夜を揺らしている。気道が開いているお陰で、道の植え込みの植物の匂いが強く香った。そこに潜んでいるであろう、鈴虫の声が頼りなく聞こえてくる。彼らの交信に耳を傾けながら、空を仰いだ。夜空には、紫色の分厚い雲が、いくつか浮かんでいる。月はない。星も街の灯りに遠慮しているのか、ほとんど出ていない。


 しばらくそうして過ごしていると、僕の後ろから彼女が上がってきた。僕は待っていた体を装って、振り返った。


「遅かったね?」僕は微笑んでみる。


「ええ、お釣り、もらってきたから」彼女は僕の前で、握った手を開く。手の平の上には小銭が乗っていた。


「わざわざ?」


「お店の人、困ってたよ」


「そう言われてもね……」


「まあ、これは取っておきなさい」


 そう言って、彼女は僕の上着のポケットに、無理矢理、小銭をねじ込んできた。別に要らなかったけれど、特段、断る理由もなかったので、受け取っておく。


「帰ろうか」僕は彼女に言った。


「どこに?」


「家に」


「もう電車はないのよ?」


 指摘されて、僕は思い出した。そう言えば、僕たちは電車を逃したから、この店で夜を明かそうと決めたのだった。


「タクシーでも捕まえようか?」僕は通りを見回して聞いてみる。でも、タクシーはおろか、車の影さえ一つもない。


「本当に、あなたは馬鹿ね」彼女が腕を組んで、乾いた笑みを零した。


「今更?」


「どうせ、感情的になっただけでしょう?」


「強ち、間違いじゃないかもね」見透かされていたことに、僕は肩を竦ませた。やっぱり、彼女には敵わない。


「ねえ、そのピストル」彼女が僕の左胸を指さした。


「どうかした?」


「撃ってみれば?」


「何を?」


「私を」臆面もなく、彼女は言った。


「どうして?」僕は困惑を喉の奥へ引っ込めて、聞き返す。


「私なら、何かが変わるかもしれない」


「死ぬのが、怖くないの?」


「さあ……、体験したことないから」彼女は首を振ってから、僕の横を通り過ぎていく。甘い匂いがした。何故か今になって、テーブルの上で汗を垂らしていた、あのグラスのことを思い返してしまう。結局、彼女は一口も飲まなかったのだ。今頃、流しに捨てられているだろうか。


「君を撃つ想像なんて、できればしたくないね」


「私だって、できればあなたには、もっと明るい顔をしてほしいわ」


「こうかい?」僕はわざとらしく口角を上げてみせる。だけど、彼女は僕の方を一切見ず、背を向けてきた。


「気持ちは同じよ、あなたと」


「なら、どうして僕を否定する?」


「あなたが答を、受け入れてくれないから」彼女はこちらに振り返った。「私を、つまらないパーティの外側へ、連れ出してくれないの?」


「そんなこと……」


「そう……。その迷いが、今の答なのね……」踵を返すと、彼女は大袈裟に溜息を吐いた。「あなたとなら、私は抜け出しても良いって思ったのに」


 ――残念。


 そう言い捨てて、彼女は歩き始めた。止めようか、と迷っている間にも、距離は離れていく。何も言えない。いや、頭の中に言葉はあった。だけど、喉や脚が他人のモノになってしまったかのように、動いてくれないのだ。


 そう……。


 僕は迷い続けている。


 二択を並べて、


 御託を並べて、


 理屈を並べて、


 どれにしようか迷って、


 迷っている自分を選んで、現状を維持して、


 問題を先送りにするばかり。


 幼稚なら、それで良いはずだ。


 理性なら、それで良いはずだ。


 そうやって割り切れないまま、合間の温さに身を置いてしまう。


「だったら――」


 内ポケットからピストルを引き抜いて、彼女の背中を狙う。僕の懐に収まっていた時よりも、ずっと重たい。とてもじゃないけれど、映画の警官みたいに片手では持てなくて、左手を添えてしっかり構える。


 撃鉄を起こす。


 これでもう、後には引けない。


 よく見て、狙え。


 集中しろ。


 風も、声も、匂いも、音も。


 彼女を終わらせるために、注ぎ込め。


 そう言い聞かせている間にも、彼女の姿は小さくなっていく。


 もう、走って追い付ける距離じゃない。


 引金へ徐々に力を込める。


 寂しがりなはずの右手は、噓みたいに殺意を露にしていた。


 殺せ。


 殺せ。


 殺せ!


 けれど……。


 僕は最後の最後に、銃口を空へ向けて、引金を引いてしまう。


 轟音が木霊して、鼓膜には破れるような激痛が奔った。


 逃げ切れなかった衝撃が、波となって全身を駆ける。


 火薬の匂いが鼻腔を衝く。


 弾丸はどこへ行ったのか分からない。


 僕はその間も、彼女から目を離さなかった。


 彼女は音に驚く素振りも見せず、歩き続けている。


 そうして最後には、通の先にある夜闇の中へ、その姿は吸い込まれてしまった。


 僕はピストルを投げ棄て、膝を突く。


 そうだ。


 武器を手にしたところで、同じこと。


 僕は世界を変えられない。


 僕は彼女を変えられない。


 僕は自分を変えられない。


 何かを変えたいと願うくせに、


 そのための勇気を持ち合わせない、


 欲深いだけで愚かな、


 無名の人間。


 上着のポケットを弄り、煙草を取り出す。最後の一本は、案の定、皴だらけだ。構わずに僕は火を点けようとした。でも、火は風に煽られて上手く点いてくれない。フリントの擦れる音と、見せかけの火花が散るだけだ。


 それでも僕は、ライターも煙草も、身体から離さなかった。


 無理だと分かっていても、火が点くまで。

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Pistol 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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