第2話


目が覚めたときに、青年はとある公園にいた。


時刻にして、12時を過ぎたあたりのことである。


彼は、自分がどうしてここにいるのかを全く分かっていないらしかった。


それどころか、その場所が何処かということも、はっきり分かっていないようであった。


ただ彼は眼前に広がる光景に、何処か懐かしさのようなものを感じていたらしい。


しかし、そのとき青年が感じていたのは、一昔前のモノクロ写真など、本来自分とは関係のないはずのものを見たときに抱くようなぼんやりとした懐かしさであって、そこに紐づく記憶は、特段自分の中には存在しないように感じた。



ブランコに貼り付けられた、年齢制限の表示。


ひらがなで表記された公園内の注意書き。


星の一つも見えやしない、黒一色の味気ない夜空。


どの点を注視してみても、それは同じようだった。


同時にその時、青年は自らの胸の奥深くのあたりに、得体のしれないざわめきのような何かを感じてもいた。


焦りか、恐怖か、それとも単なる身体の不調による悪寒か。


青年にはその正体を突き止めることすらも出来なかった。


それから青年は、何となく自らの手のひらを鏡のように返して、それをじっと見つめ始めた。


どうしてそんな事をしたのかと聞かれても、それは恐らく青年自身にも答えることが出来なかったのであろう。


しかし彼は、底の見えない洞穴を覗き見るかのように、しばらくその一点を黙って見つめ続けていた。


そうしている内に、青年の意識にはある一つの予感が浮かび上がってきた。



僕にはなにか、思い出さなくてはいけないことがある。


そしてそれは、この場所に深く関係していることだ。


青年は声ともつかないその予感を受け取った瞬間、思わず両の目を見開いた。


そしてその予感の正体を紐解こうと、しばらくその場で思案した。


それは徒労に終わった。


つまり彼は、どれだけ思案しても、何の手がかりをも見つけれなかったのである。


それから彼は、「仕方がないから一度このことは忘れよう」ということにした。


しかし、その予感はしばらく経てども、まるで眼中の鼻先のように、青年の頭の中に残ったままでいつまでも消えなかった。


だから、青年は再び考えた。


しかしやはり、考えども考えども、彼は何事も思い出すことが出来なかった。


そんな調子を繰り返してしばらくが経った頃、青年はふと我に返った。


彼は、自らの呼吸が大きく乱れていたことに、その時ようやく気がついたのだ。


青年は、「自分は今、踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまっているのではないか」という危機感をその時覚えた。


だから、それからは、「思い出せないということは、どうせそれほど大事なことではないのだろう」という文言を、自らに必死に言い聞かせることで、青年は自らの鼻先を黒く塗りつぶそうとした。





光が灯ったのは、丁度その時のことだった。

 

青年の胸のあたりに灯ったその僅かな灯火は、しばらくその場で瞬きを続けると、それから青年の体を離れ、ゆっくりと黒一色の夜空へと舞い上がっていった。


 

驚くことに青年は、先程までの狼狽した様子からは一転して、この突如起きた怪奇現象とも取れる非現実的な光景を、案外冷静に眺めていた。


動揺するどころか、まるで、自らの肉体を離脱した魂の成仏を見届けるかのようなぼんやりとした心持ちで、彼はそれを眺めていたのである。


その光はやがて、ある程度の高度まで上昇を続けたところで、夜空の底にでも達したと言わんばかりにぴたりと動きを止めた。


そして次の瞬間、突如として大量の光を四方に放ち始めたかと思うと、



気づけばそれは広大なる闇夜に輝く、一粒の白星へと姿を変えていた。



その声が聞こえてきたのは、これまた突然のことだった。


「なにか、お困りですか?」


始めのうち青年は、ちらちらと辺りを見回して、その声の出どころを探っていた。


「こっちですよ。」


しかし、その声を聞いてから、青年は久しく上下の概念を思い出した。


上か?


青年はそれからやっと、先程まで自分を釘付けにしていた夜空の星に注意を向け始めた。



さっきのはまさか、こいつの声だろうか。


青年は、やっとのことで真実に辿りつくと、しばらくその星を、声も出さないままでじっと見つめていた。

 

そうしていると、再び星の方から尋ねてきた。


「何かお困りですか?」


青年は、目を見開いて言った。


「いや、なんだ…。こんなことがあるのかと、今しがた酷く驚いていたところだ。」


青年は、あるいは自分は夢でも見ているのかもしれない、という気を起こした。


しかし、何度見てもそこには星があったし、

その上、この光景は夢と言うにはあまりに鮮明すぎるようにも思える。


一体これは、どうしたことだろう。


青年はすっかり混乱してしまった。



星が言った。


「いやはや、そういえば。忘れていました。直接ものを語るのは、これが初めてでしたね。申し訳ございません。」


青年はきょとんとした。


人であれば、顔を見ても思い出せないということは、往々にして起こりうるかもしれない。


しかし自分の目の前にあるのはどう見ても一粒の星屑だ。


そんなものと交友を持ったことなどないどころか、星屑と交友を持つ人間などというものに、そもそも出会った試しがない。


この星は、一体何を言っているのだろうか。


青年は疑問が尽きなかった。


星は続けていった。


「しかしまあ、忘れているのはなにも、私の方だけではないでしょう。」


青年は、いよいよ訳が分からなくなった。


だからそれからは、この星の言っていることは正しい、という仮定をとりあえずおいて、その上で発言の真偽を伺ってみることに青年は決めた。



つまり青年は、自分はこの星のことを知っていて、その上で今の今まで忘れていた、という設定を、とりあえずは受け入れることにしたのだ。



「どうして分かるんだ。」


星は言った。


「分かるも何も、顔に書いてあるから聞くんです。」


「そういうものか。」


「ええそういうものです。」


青年は星の冗談とも取れるその受け答えを、仮定に則って素直に信じた。


青年は言った。



「で、さっきは困ったことはないかと言ったな。」


「はい、言いました。」



「あれは、どういうことなんだ。」


「どういう意味も何も、そのままの意味です。」


「そのままの意味?」


「困ったことことはないですか?ということです。単純でしょう?」



そう言われれば、青年には心当たりがあった。


しかし彼は、少しだけ渋った。


ここでそんなことを言って、どうなるのだろうという気がしてきたからだ。


とはいえ、言ったからといって、何も自分が損をするわけでもないだろうという気も同時に込み上げて来たようだった。


だから青年は、思い切って自らの胸の内を明かしてみることにした。


「実は君の言う通り、僕には今、困ったことがある。僕にはなにか思い出せないことがあるみたいなんだ。」


「ほう、では先程は、そのことについて考え事を?」


「あぁ」


青年はもう、動揺しなかった。


それどころか、秘密を明かしたせいからか、青年の心は少しずつこの星に対して信頼を示し始めてしまっていた。


もっと言えば、「自分の中にある思い出せないものとは、まさしくこいつのことなのではないか」という気さえ、青年は起こし始めたた。


だから彼はそれから、「君か?」と眼の前の星に向けて素直に尋ねた。


すると、こう星は答えた。


「完全に的外れ、というわけではありませんが、少し違います。」


自分の心中を透かし見たようなこの毅然とした返答に、青年は驚いた。


そしてこの時、青年の中に残っていたこの星への不信感は、もうほとんど消えてしまっていた。


「では、どう違うんだ。」


そう語る青年の声色は、すっかり真剣だった。


それを察したのか、そこからは星側の語り口も、先程とまでと比べて少しだけ真剣なものになった。


「知りたいですか?」


無論とばかりに青年は会釈で返した。


「では特別に、一度だけです。今から一つだけ、あなたの願いを叶えましょう。」


ふざけたことを。


とは、もはや思わなかったらしい。


突如現れた小さな灯火、言葉を話す白星、とくれば次辺りに一つくらい願いが叶うなんてことがあったとしても何らおかしくはない。


青年の心は、気がつけばそう感じる程の信頼をこの星に対して抱くようになっていた。


「お願いしたい。どうすればいい。」


「何、難しいことはありません。ただただあなたの望むところを、素直に教えてくださればいいだけのことです。」


青年はしばらくの間思案した後に、


「僕は今、何を思い出そうとしているのか、いや、思い出すべきなのか、そのことを明らかにして欲しい。出来るか?」


と言った。


「出来ますが、本当にそれでいいのですか?」


戸惑いと言うよりも、青年の覚悟を伺うような声色で星は言った。


それに対して、青年はいくらかの不安を覚えたが、


しかし、暫く経つと決意を固めたように、


「うん、お願いしたい。」


と言って徐ろに目を瞑った。


数秒後、青年は瞼の裏に、まばゆい光が飽和していくのを感じていた。

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