一、『プッシー・フット』その3

 部屋に戻ると、案の定不機嫌な顔で咲龗子がソファーに寝そべっていた。


 両肩で切り揃えられた黒髪が扇のように広がり、整えられた細い眉毛が吊り上がって、黒真珠のような瞳が最小限まで細められている。


「・・・・・・ただいま」


 ぎこちなく僕が会釈すると、リップを塗っただけのへの字に曲がった唇から、ぶっきらぼうに「おかえり」という低い音が漏れた。

 全身で怒りを表現しているらしい。


 めんどくせぇ。


 嘆息し、僕はアタッシュケースを壁に立て掛け、真ん中に置いてあった陶器製の灰皿を脇に退かして、焼きトンの入った紙袋をソファー近くのテーブルに置く。

 紙袋を解いた途端、炭で燻された香ばしい肉の匂いが広がる。その芳しい匂いに、咲龗子は露骨に不快感を示した。


「なに、また肉なんて買ってきたの? 野蛮人」

「好き嫌いするより、何でも食べる人間の方が高尚な存在だと思うけどね。まあ、僕も椎茸と人造肉は絶対に食べないけれどさ」

 嘯きながら、戸棚から適当な大皿を出してそれに買ってきた焼きトンを並べ始める。それを咲龗子は半眼で見つめ、僕から視線を逸らして丸くなった。


 一緒に食事をした事のある人間なら知っているが、雨皷 咲龗子は肉を食べない。宗教上の理由とか体質ではなく、肉という存在がひたすら嫌いなのだ。それは前世が草食動物だったからだ、と本人は言っている。アフリカ象然りシマウマ然り、過酷な自然界で暮らす草食動物は割と凶暴な生物が多いので、恐らく間違っていないのだろう。


「自転車」

「え?」

「だから、自転車」


 不機嫌な低い声で、咲龗子は言った。


「直ったんでしょ? どうなのよ」

「どうって・・・・・・特筆するような事はないけれど、お前の要望で後ろに荷台取り付けたから少し重くなった感じかな」

「なに、その不機嫌そうな声」


 お前だけには言われたくない。


「だってクロスバイクに荷台って、似合わないじゃないか。スポーツタイプなんだから、もっとシンプルなのが良いんだよ。あれじゃあ、普通の自転車だ。決めた、やっぱり後で外す」

「何を今更。前カゴ付けてるくせに」

「そっちは仕方ない」


 ちらりと、立て掛けたアタッシュケースに視線を送る。素材不明な特殊合金製のくすんだ銀色が、蛍光灯に照らされて燻し銀のように輝いた。


「アレを運ぶには、前カゴが一番良いんだ」

「ふーん」

 不機嫌さと無関心を融合したような相づちを打つと、咲龗子はジーンズの後ろポケットにねじ込んだ板チョコを取り出し、銀紙を剥いて一口囓る。


「じゃあ、荷台も似たようなモノよ。あると便利なの。付けておきなさい」

「全然違う。僕は、荷台に荷物なんか載せない。そんな無駄なモノ――」


 刹那。

 顔面に衝撃。


 一拍間を置き、右足の親指に激痛。

 ゴトリ、という鈍い音に孕まれた陶器特有の高音域。下を見て確認するまでもなく、先程テーブルの端にどかした陶器製の灰皿だった。


 一般人なら、当たり所が悪ければ今生の別れになっただろうが、僕は探偵である。探偵が、殺人事件のオーソドックスな凶器の一つである陶器製の灰皿で死ぬ事は有り得ない。

 死んだら、そいつは探偵ではないって事だ。


「・・・・・・四の五の言わずに、付けておきなさい。自転車の修理代出したのはわたしなの。スポンサーには無条件でぬかずくのが、正しい労働者の在り方よ」

「所詮、僕は粗末な犬小屋を与えられた哀れな犬って訳か」


 嘆息しながら大ぶりな灰皿を拾い上げ、破損箇所を確認。

 あんなに激しく顔面に叩き付けられたのに、どこも壊れていない。流石は日本製だ。


「・・・・・・でもさ、僕のクロスバイクを壊したのお前じゃん。スポンサーじゃなくて、ただ単に弁償しただけじゃねぇか」


 頭頂部に衝撃。

 今度は軽い衝撃だったが、転がった先端が中指に当たった瞬間にちくりと痛んだ。

 不審に思って下を見ると、普段千枚通しとして使っているアイスピックが柄を回転軸に小さく円を描いて廻っている。


 間違いない。こいつ、僕の事殺す気だ。


「付けなさい」

「・・・・・・そこまでして、僕のクロスバイクに荷台を付けたいお前の目的は何なんだよ・・・・・・」


 殺人未遂まで犯しやがって。

 僕が探偵じゃなかったら死んでいたぞ。


「そ、それは・・・・・・」


 また何やらオーソドックスな凶器が飛んでくる(セオリーからして、今度は玄関に置いてある象の木彫りが怪しい)と身構えた僕の予想に反して、咲龗子は口籠もった。


「別に・・・・・・後ろに乗りたい――――とかじゃなくて、その・・・・・・格好いいから! そう、格好いいからよッ!!」


 もごもご口を動かして喋るから前半部分は全然聞き取れなかったが、やたらと不自然なまでに甲高い声で、「格好いい」を連呼したので理由はよく分かった。それだけの理由で、外そうとした僕は殺され掛けたのか。こいつ怖い。


「・・・・・・まさかとは思うけど、お前もしかして僕が荷台を外しそうだったから事務所うちに来た訳?」

「んな訳ないでしょ」


 チョコレートをもう一口かじり、咲龗子は言う。

 よかった。これで「その通りよ」なんて言われたら、僕は明日からどうこいつと接して良いか分からなくなってしまう。


「喜びなさい。アンタに餌・・・・・・じゃなかった、仕事を持ってきたわ」


 何やら失礼極まる発言を聞いた気がするが、先程の前半部分同様聞かなかった事にした。


「仕事・・・・・・ね。また春みたいに、交通安全週間で使う着ぐるみにでも入るのか? 暑いのは耐えられるけど、あの着ぐるみの臭いなんとかしてくれよ。気持ち悪くて吐きそうだ」

「何とか出来たら、何とかしてる。それも手伝って欲しいけど、持って来た仕事は別件。立川の連続通り魔事件、知ってるでしょ?」

「テレビでやってるぐらいなら」


 御座なりに相槌を打ち、皿に載ったカシラの串を摘まむと一口食んだ。食感の良い歯ごたえに、染み出した肉汁とタレが合わさった旨味が載る。この店の焼きトンは冷めても旨い。しかしどうせなら、冷めてない焼きたてのままで食べたかった。


「四件目の事件が起きた羽衣町はごろもちょうは、国立市ここの目と鼻の先・・・・・・このままでは下手をすると、うちの管轄シマまで来て通り魔が事件を起こしかねない。そうなる前に、通り魔を見つけ出してケリを付けなさい」

「成る程。つまずくと分かっている石は、手を汚さず飼い犬に片付けさせるのが、賢いい主の在り方って訳だ」

「そうよ」


 短く頷くと、ドライアイスのような乾いた冷たさで咲龗子は言った。


「犬の自覚があるなら、与えた犬小屋と餌代に見合う仕事をして飼い主を喜ばせなさい。どんな馬鹿犬でも、精一杯飼い主を喜ばそうとするものよ」


 僕に見えるように、スマートフォンを突き出す咲龗子。モニターには正式な契約書が仰々しく表示され、契約の拇印を待つ中央の小さなスクエアが明滅を繰り返していた。


「その前に報酬エサ確認さ喰わせて貰うよ。お前だって、餓えた駄犬に間違って喰い付かれたくはないだろう?」

「報酬は三十万。掛かった必要経費は、十万以下なら全額。百万以下なら総額の最大二十五パーセントまで保証。それ以上は自分の身銭を切りなさい。あと、領収書の発行出来ない経費は無効にするわ」

「ケチ臭い報酬だな」


 葱と肉に齧り付き、横柄な口調で僕は言う。


「だから公務員の飼い犬は厭なんだ」

「必要経費を貰えるあなたは、まだマシな方よ。そもそも、探偵という職業を事件調査人オペラティブという名で国家資格化して様々な特権を与えたのだって、警察の人員削減の為なんだから。江戸時代の岡っ引きと一緒よ。富士見台分署うちはやっていないけれど、酷い所なら色々ピンハネされてるでしょうね」

「仮にもが言うと、説得力があるな」


 僕は茶化すように言いながら、つくねに手を伸ばした。


 雨皷 咲龗子。

 見てくれも実年齢も胸以外は十六歳の小娘だが、歴とした富士見台ふじみだい分署の警察署長である。

 一年前、今まで警察署がなかった国立市に分署とはいえ警察署が設置された記念に、閉塞しがちな警察という組織内に民間の風を取り込むのを目的として雇用されたらしいが、何もこんな面倒くさい暴風を取り込む必要はなかったと思う。


 実際、署内でもこの人材登用を失敗したと思っている人間は大勢居る。最初は一日署長の延長線上で、世間知らずな十五歳の小娘をアイドルに仕立て上げ、適当に握手会やら写真集の発売などで地域との交流を図りCDデビューでもさせてお茶を濁す――――そんな、王は君臨すれども統治せず的ゆるい運営を考えていたらしいが、こいつが登用一日目にして警察署長として大鉈を振るった事により、その幻想は脆くも崩れ去ってしまった。


 咲龗子はとても年相応の小娘とは思えぬ才覚の持ち主であり、彼女が署長に就任し大鉈を振るった事によって着々と犯罪率は減少している。しかし両手に握られたその鉈は、髪の毛を割く程切れ味が良い反面、常時全方位に切っ先を向け、彼女の意向に沿わない者の首をいつでも跳ね飛ばせる首刈り鎌と化していた。


 今では不平不満はあれど、彼女に面と向かって意見出来る者は分署内に居ない。それどころか、国立市長ですら彼女の言いなりという噂もある。

 何でも、富士見台分署とそれを率いる咲龗子の横暴に憤った市長が単身分署に乗り込んで一時間後、痩せこけ意気消沈し終始咲龗子に許しを請う哀れな姿で出てきたらしい。市内ではこの噂を『富士見台カノッサの屈辱』と称し、市民の間でまことしやかに囁かれている。


「職業柄、色々見たくないものを見ているからね。うら若き乙女には、伏魔殿の如き警察の闇は刺激が強すぎるわ」


 警察の闇そのものみたいなお前が、それを言うか。

 雇われるに当たって色々コイツの経歴を漁ってみたが、どれもこれも嘘で塗り固められており、雨皷 咲龗子という人物が一体何者で何の後ろ盾を使って警察署長にまでなったかまったく掴めなかった。分かっているのは彼女の年齢と性別、それと極度の肉嫌いで重篤なチョコレート中毒者である事ぐらいだ。


「で、受けるの受けないの? 正直、あなたの為にも受けておいた方が良いと思うわ」

「確かに、ここ二ヶ月間仕事全くなかったからね」


 おかげで、事務所の今月の家賃払ったらすっからかん。しかしそんな事を咲龗子に知られたら間違いなく足下を見られるので、涼しい顔を崩さず余裕を持たせた口調で言う。


「でもまあ、困る程じゃないかな」


 どうせ懐は寒々しいのだ。寒いも涼しいも、大して変わらん。

 旨いからって、こんなに焼きトン買わなければ良かった・・・・・・


「金銭的な話じゃない。被害者の共通点、知ってる?」

民間軍事会社PMC社員二人、退役自衛隊隊員、立川基地所属の米軍も居たな。確かに僕のような探偵も、狙われるかもしれないね」

「それだけじゃない。彼らは全員、サイボーグ化手術を受けている。通り魔は彼らの脳を大口径弾で破壊した後、サイボーグ化された部位をカーボン・セルロイド製の義手や義足に取り替えて去って行くのよ」

「なら、僕には関係ない。なんたって、僕はサイボーグじゃないから」


 でなきゃ、焼きトンなんか食べられない。


 基本的に彼らは機械化された四肢の維持の為、消化器官を取り除いて小型生体ジェネレーターを積み、食事の代わりに体内に内蔵されたニッケル水素電池を充電するのだから。


「だけど――」

「しかし、分からない」


 咲龗子をつくねが刺さっていた串で制し、僕は言う。


「職業的に、殺された連中は全員戦闘用のサイボーグだったんだろう? そんな相手を四人もよく殺せたな」

富士見台分署うちにも何人かいるけど、戦闘用のサイボーグは普段非戦闘用の義手や義足に換装してあるのよ。有事の際にだけ、戦闘用の義手や義足を装着して現場へ向かう。だから、何の不思議もないわ」

「不思議なんだよ、それが」


 塩タンに七味を振りかけながら、僕は語る。


「非戦闘用の義手や義足って言ったって、法律上出力に制限が掛けられていたり内蔵武器が搭載されていないだけだ。力は一般人以上にあるし、彼らは全員戦闘訓練を受けている。そんな連中を簡単に殺せるか?」


 気付いたか、と言わんばかりに僕を見る咲龗子の視線が僅か左に逸らされる。気付かないと思っていたのか、随分と舐められたもんだな僕も。


「通り魔は戦闘訓練を受けた戦闘用サイボーグ。そして犯人像から考えて、経歴などもある程度は掴んでいる。違うか?」

「その通り、流石は探偵ね。あなたにやって欲しいのは、戦闘用サイボーグの無力化。浮気調査や猫探しより好きでしょう?」


 ――よく言うよ、無力化だなんて。

 僕は内心で嘆息する。


 先程の〝ケリを付けろ〟というのは、犯人の無力化ではなく殺害の意。探偵に殺害を依頼するとは、この小娘、かなり無茶な注文をしやがる。どうせもう、殺害後の手筈まで整っているのだろう。


「あなたの為にも、受けておいた方が良いと思うわ」


 もう一度、同じ言葉を咲龗子は言った。


「この国で、あなたが望む生き方をしたいのなら、わたしの依頼を受けるしかない。この国は、あなたが生きるには、あまりにも平和すぎるから」

「・・・・・・そんな事、言われなくても分かってる」


 奥歯を噛み締め、僕は言う。


「だから僕は必死に勉強して、面倒な試験を受けてまでお前の飼い犬になったんだ」


 翳されたスマートフォンへ親指を押し付ける。刹那の間を置く事もなく認証を完了し、正式な手続きが行われた事を知らせる着信音が、僕のジーンズの右ポケットに入ったスマートフォンから響いた。


 分かっている。

 解っているさ。


 でも、お前に面と向かって言われるのが癪だから、僕は嫌がらせを込めて、スマートフォンのモニターに捺印ついでに焼きトンのタレを付けた。


 お前だけ汚れないのは、不公平だからな。

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