(九)『まむし』の矜持

「おのれ義龍め、許さん」

道三が兵を募るも土岐氏を慕う美濃の国衆は、頼芸の落し胤と思しき義龍の陣に参集した。

「御屋形さま。ここは一旦、尾張に落ち延びられるが宜しいかと」

守護代家の執権を務めた道三の腹心・林駿河守が進言する。

「馬鹿を申すな。このようなたわけた戦に婿殿を巻き込むわけには参らぬわ」

蝮と呼ばれたおとこ矜持プライドである。

「しかし、このままでは分が悪うございましょう」

義龍の兵一万七千五百に対し、道三に味方しようとする家臣は少なく、兵の数は僅か二千五百しか集まっていない。

「戦は兵の数に非ず。義龍ごとき青二才、儂の知略をもって捻り潰してくれようぞ」


「久しぶりじゃの」

「御屋形さまには御機嫌麗しく、恐悦至極にございまする」

「ふん、機嫌など麗しゅうないわ」

道三は鷺山の城に稲葉伊予守(一鉄)を招いて茶を振舞っていた。

「このような書物が手に入ったのだが・・・」

「こ、これは『数寄厳之図すきよそおいのず』ではございませぬか」

数寄厳之図とは不住庵梅雪の作成した「座敷置き合せ法」を示す指南書のこと、

茶をたしなむ者にとっては垂涎すいぜんの書である。

「其方に良かろうと思うてな、京から取り寄せたのじゃ」

「こ、これを頂戴できますので・・・」

茶道に造詣の深い伊予守の声が弾む。

道三は鷹揚に頷くと、

「弟二人を手に掛けるとは、義龍には困ったものだ」

本当まことに・・・」

伊予守が首肯する。

「其の方を頼りにしておるぞ」

「御屋形さまあっての伊予でござりますれば」


弘治二年(一五五六)、道三と義龍は長良川を挟んで対峙した。

「一番槍はお任せあれ。蝮の脇腹に穴をあけて御覧に入れまする」

義龍の一の家臣・竹腰道塵が六百ばかりの兵を率いて長良川を渡ってきた。

道三は後退すると見せ掛けて敵を包み込むと、側面から矢・鉄砲を射かけてこれを

粉砕する。戦は道三の筋書き通り進むかに見えた。しかし、

「伊予はどうした」

道三に寝返りを約束していた稲葉伊予守が動かない。

「あの痴れ者めが」

広い河原で大軍と正面から交われば一たまりもない。

「是非に及ばず・・・、か」

道三は笑みさえ浮かべて青く澄んだ空を見上げた。


「父上が・・・」

濃姫が信長にすがりつく。尾張清洲城に報せが届いた。

「直ちに出陣じゃ」

信長が救援に出ようとした矢先、道三の家臣が血まみれになりながら転がり込ん

できた。

「主よりの言伝てにございまする。信長様には決して尾張を動かぬように、との

こと」

それだけ伝えると一通の書状を手渡し、そのまま息絶えた。

その書状に目を通した信長の目に涙が滲む。そこには「美濃国を信長に譲る」と

書かれてあった。

「親父殿らしい遺言であるな。しかしこの国の将来を思えば、道三ほどの人物を

死なせるわけには参らぬのだ。それが義龍の阿呆には分からぬか」

信長が自ら出陣するも、国境で美濃の兵に阻まれてしまう。

道三の首は美濃の領民たちによって手厚く葬られたという。享年六十三


下剋上を代表する斎藤道三がこの世を去った。

『まむし』と呼ばれた男にしてはあっけない、いや潔い最後であった。

五年後、父を討った斎藤義龍は三十四歳の若さで病死する。家督は嫡男の龍興が継ぐが、愚鈍な当主に振り回されて美濃は衰退の一途を辿る。

やがて永禄十年(一五六七)信長は稲葉山城を攻め、ここに美濃斎藤氏は断絶する。

道三の遺言の通り、美濃は信長に受け継がれた。

信長は稲葉山城を岐阜と改め、ここを拠点に天下獲りへの道を歩むこととなる。

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