少年と少女/主人と奴隷



 俺は、なにかやり残したことがないかを考えてみる。




 ……まあ、なにもないな。

 見事に、なーんもない。



 

 だって戻ったところで……どうなるんだ?



 俺はまたでアルター=ダークフォルトとして不当に恐れられ、嫌悪されるだけだ。


 そしてアンブレラに利用され、教会とのいざこざに巻き込まれ、散々な目に遭わされるかもしれない。



 なによりも――ルネリアが、ここに居るただの少女から、俺の奴隷に戻ってしまう。




 そもそも、現実で良いことなんて、なにがあるんだ。


 

 いつだって願いは叶わず、嫌なことは百個以上あるくせに良いことは一個くらいしかなくて、俺以外の誰かを中心に物事は回っていて、こんな綺麗な夜も、素敵な湖畔もない。


 ここでずっとこうしていられるのなら、そうすべきだ。

 神聖魔法くんと握手してやってもいい。




 ……でも、ここにいるのは俺だけじゃないんだよな。



「ルネリアは、どうしたい?」


 俺は、隣にいる少女に尋ねる。


「私は」


 銀髪の少女は、言葉を探している。

 それから、首元を手で触った。もうそこにはない首輪を探すように。


「…………寂しい、です」


「そっか」


 そうだろうな、と思う。



 でも……それも、いずれ慣れるはずだ。

 その方が良かった、と思える日も来るだろう。

 


 そしていずれ、この俺の隣からも居なくなる。

 それを、ずっと俺は望んでいた。

 そのはずだった。



「アルくんは……どうですか?」


「俺は」



 本当にいいのか?

 現実でやり残したことは、ないか?




 ……そりゃまあ、ないことはない……気もするけど。




 たとえば、読みかけの本とか。

 ソフィアは誰だったんだろうとか。

 アイナにまともにお礼を言ってない、とか。

 サンドウィッチをもう一度くらい食べてもいいな、とか。


 

 でも別に、捨ててしまってもいいやりかけのものたちだ。

 そういうどうでもいいもので、俺は現実と繋がっていた。

 意外とみんな、そういうものかもしれないけど。


 

 あとは……。



 ――契約とはなにか? 



 そういえば、契約学の先生にその問いに答えろと言われていたこととか。



 アイナと考えても一向に正答できない、その質問の答え。

 今なら、それが分かる気がした。




 立ち止まって、湖のほうに体を向ける。

 遠くに、小さな舟のようなものが浮かんでいるのが見えた。



 ――たとえるならば。

 契約とはきっと、のことだと思った。


 

 俺たちはみんな、一艘の舟にひとりで乗っている。


 その舟は風に吹かれ、波に揺られて転覆しそうなほど心許ないものだ。

 広い湖、あるいは大海で……俺たちは孤独で、ここに居ると示せるものもなくて、手を振ってみても見えているか分からなくて。


 だからふとしたときに安堵するのかも知れない。


 繋がれた首輪に。

 繋がっているという証に。

 

 少女は寂しい、と言った。

 俺も、本当は。


 

 ……本当は。


 

「――ずいぶん昔に、俺はその子に首輪をつけた」



 湖のほとりで、俺は息を吐くようにそう言っている。

 その茫漠とした水面を、同じく少女も見ていると信じながら。



「誰の目からも、ただの女の子に見えた。だけど、魔族がのが問題だった。

 ……その子が“本当に人間なのか”が、誰にも分からなかったから」


 それは、死んだと思われていた女の子だった。

 両親は少女が生きていたことを喜ぶ前に、悲鳴をあげた。


 もしかしたら、それはまるきり作り替えられた、人語を解する人型の魔族なのかもしれない。

 なにかの交換条件として渡してきたのかもしれない。

 

 魔族がなにを考えているかなど、ダークフォルト家の人間ですらも分からない。

 だが、ただの善意で行方不明の女の子を返してくれた――そう呑気に考えられるほど、魔族を知らないわけではない。

 

 は、共通の価値観や言語を全く持たない、意思疎通不可能で不可解な現象だ。

 

 “にする”――それがもっとも穏当な選択だと、人々は判断した。


 正しい判断。

 そうして世界のバランスは保たれる。

 

 でも。

 俺は……稚拙で馬鹿で浅ましくて愚かで世間知らずな俺は、それが許せなかった。

 だから。


「……その子は、俺の奴隷になった。

 彼女が支配下にあって無害であることを示すには、それしか思いつかなかった」


 浅ましい正義感。

 残酷で幼稚な選択。


 その責任を、俺は取るべきだった。


「俺はいつか、その子を縛る首輪を外してあげたかった。そうすべきだと思った。

 そのためにあの家から離れて、ルネリアの身元を隠して……何者でもないふたりになるべきだと思ってた。

 いつか、絶対に離してあげるべきだって。それが俺のやるべきことだって思ってた」


 そして、ここでならそれが叶う。

 そういう風に、世界は存続を賭けて譲歩してくれるはずだ。


 それでも、まだ迷っているのは。


 俺も、……。


「それで、いいんですか。

 ……寂しくないんですか」


 少女に「それでいい」と頷くこともできず、「寂しくない」と首を振ることもできず、俺はただ湖を見ている。


 中途半端。

 だから俺って剣術も上達しないのかな。そんなことすら思い始める。


 悪役にも善人にもなりきれない。

 攻撃も防御も半端な、一番弱い剣みたいだ。




 ……俺は、大した人間じゃない。

 世界と繋がっている理由にも、大したものはない。


 大したことのない、無数の約束。

 あるいは、約束にもならなかったものたち。

 

 それは希望とか願いとか、未来という名前がついているのかもしれない。


 それはまだ俺の中にしかない、いまにも消えてしまうような、はかないものたちだ。



 ……確かに捨ててしまってもいい、くだらないものかもしれない。

 でも。



 信じる、と言ってあげたかった。

 信じていると、示したかった。


 信じてくれてありがとう、と示したかった。


 ……また会えるよな、と訊きたかった。

 また会おうな、と約束したかった。

 

 この湖に浮かぶ舟の上で、どこかに同じように漂っている人たちに向けて。



「アルくんは、どうしたいですか?」



 銀髪の少女は、湖を見ていなかった。

 その美しい瞳で、俺だけを見ていた。



 ――最終的に決めるのは、キミだよ。



 ずいぶん前に、ソフィアが俺の手を握って、そう言ったことを思い出す。


「俺は……」


 俺の手には、いつの間にか緑色の首輪が握られている。



 ――契約とはなにか? と、あの日の老人の声が尋ねる。



 ……俺は、答える。



 ――契約とは、のことだ。

 それは誰から見てもはっきりと分かるほどに、俺を規定し、ルネリアを規定するものだ。



 ……いまは、まだ。




 ごめん、と俺は思う。


「……ごめん、ルネリア」


 俺はまだ、きみを「契約」という形でしかあの世界につなぎ止められない。



 それでもいてほしい、信じている、好きに生きて欲しい。本当は寂しいけど、寂しくても、その思いを示すのに、ここに確かにあると示すために。

 


 そうやって、あのクソッタレな現実に戻るために。



 俺は手を伸ばす。

 

 少女は目を瞑って、小さく頷く。

 いつかと同じように。


 

 緑色の首輪を、ルネリアの首元にまわす。金具を押し込む。




 ぱちん――と、音がした。
















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