開演ブザー代わりのエピソード2。
――日々は、拍子抜けするほど穏やかに流れていた。
セロ=ウィンドライツは以前の暮らしの中で、『向こう側』の世界のことをよく夢想していた。
日の当たる場所と、その影。
強く憧れたわけではない。
それはあたかも時計修理技師が内部機構を観察し、手を加え、歯車と歯車を見つめ、螺旋を締めたその後で規則正しい秒針の動きを眺めるように、ただ、自分のような存在が『こちら側』に存在することで守っている世界のことを考えたに過ぎない。
清潔な病院のような“施設”の外。
血の臭いや、精液のように粘つく妄念の裏側で成り立っている世界のことを。
自分のような存在が、“日なた”で受け入れられるとは思っていなかった。それは決して卑屈な思いではなく、客観的な見方だった。自分はどこまで行っても異端であり、力が無いと同時に力を持つことがそれを証明していたからだ。
――しかし、想像したような事態にはならなかった。
もちろん、
それどころか、こんな自分にも親しくしてくれる知り合いができたのは、正真正銘予想だにしないことだった。
そして今、“彼”はそのロミリア=クレストと共に図書館にいる。
もっとも示し合わせたわけではなく、単なる偶然ではあったが、ロミリアは彼の姿を認めると「セロ?」と小声で呼びかけて目を輝かせた。
「奇遇ね。なにか調べ物?」
「ええと、そういうわけでもないんだけど……」
口ごもる。
確たる目的は無かった。ただ強いて言うなら図書館という設備がどんなものかを、そして娯楽小説というものがどういうものか知りたかった。だが、それを正直に言うのは流石に少し可笑しい気がして、
「ロミリアは?」
と彼女が抱えている本に目をやる。すると、彼女はまるで今自分がそれを持っていることに気がついたようにはっとして、
「こ、これはその……大したものじゃないわ!」
と後ろ手に隠してしまった。
だがその直前、セロの優れた動体視力が本のタイトルを見て取る。
(『やさしい基礎魔法』……?)
明日から始まる魔術の授業に備えてのことだろうか。
冒険者などでもない限り、緊急時を除いてみだりに魔法を行使するのは、基本的に法で禁じられている。
ゆえに、魔術に明るくないからといって恥だと思う必要はないようにセロには思えたが……おそらく彼女にとっては違うのだろう、と納得する。
彼も、それを見て見ぬふりをするくらいの機転は利かせることができた。
「えーっと……そ、それにしても昨日は驚いたわ。
まさか、サンドウィッチを丸呑みするなんて……」
「あ、あはは……」
強引に話題を逸らされ、いきなり昨日の痴態を振り返られたセロは思わず頬を掻いた。
一つ、食べ物は丸呑みしてはいけない。
二つ、食べ物を粗末にして良い場合がある。たとえば、外で食べる具だくさんのパンとか――と、“彼”は心の中でメモを取る。
自分に欠けているのは、こういう俗世間での日常体験だという自覚はある。
入学が決まってから今日に至るまで、目に映るもの全てが新鮮だが、それはつまり自分が未だ異端であることの裏返しだ。
ここはもう“施設”ではない。自分はすでにこの世界に分かりやすい
「チッ……
その舌打ちが聞こえたのは、ロミリアが貸し出しの手続きに立ってすぐのことだった。
一人の男が、まるで道に撒かれた吐瀉物を見下すような目でこちらを見ている。
(ルネリアの……アルター=ダークフォルトか)
……入学前、セロは自分に対する反応は今のアルターのようなものだろうと予期していた。しかし心構えができているからといって、快いわけではない。入学式でその残虐性に触れて以来、特に彼に会うのは避けたかった。
アルターにとってもそれは同様だっただろうが、彼は留まって冷笑することを選んだ。
「明日に備えて魔法の予習……おっと、失礼。君に限ってそれはないよな。大方、娯楽小説でも物色しに来たか? 明日はさらに退屈で無力な時間が続くだろうから、賢明な判断だな」
「どうして……」
思わず口から漏れ出たのは、そんな問いかけだった。
どうして彼は、ここまで自分を敵視するのだろうか。
「許せないんだよ……」
と、アルターはずいと歩み出て囁く。
「この学園にお前のような人間がいるということが、オレにはとても許せない……お前の存在が、不快なんだよ……」
「それなら、関わらなければいい。
わざわざお互い嫌な思いをする必要はない……だよね?」
「フン…………」
そのとき、セロの見間違いでなければ、アルターは一瞬だけ「たしかに」と言いたげな顔をしたようにも見えたが、
「そうもいかない……オレはどうしてもお前を目の敵にしてしまい、対立してしまうんだ……」
「……そう、なの?」
「ああ……そうなんだよ……」
「そっか…………」
「……そうだ…………お前も……そうだよな……?」
「え? いや…………僕は別に……」
「…………」
「…………」
妙な沈黙が落ちた。
ロミリアがこのときの二人の様子を見ていれば、まるで役者が台詞を飛ばしてしまったような気まずい沈黙と評したことだろう。あるいは、セロがもう少し機微に聡ければアルターの「ここからどうしよう」という困惑を感じることができたかもしれない。
沈黙を破ったのは、思わぬ第三者の声だった。
「……お待たせして、大変、申し訳、ございません」
息をやや弾ませて、その少女はどうにか謝罪の言葉を吐き出した。彼女はその顔が見えぬほど大量の大判本を抱えていたが、セロにはそれがルネリアであることが分かった。
「フン……」
アルターは少女を一瞥し、踵を返す。
ルネリアは主人の後を追おうとして、本を取り落とした。彼女が持てる量を超えているのは明らかだ。しかし、アルターがそれを手伝うことはなく、歩みを止めない。
「ねえ。少し、持ってあげたらどうかな」
思わず、セロはそう言っていた。アルターの機嫌を損ねることで、ルネリアが何かしらの罰を受けるかもしれないことに思い及んだが、怒りよりも彼は足を止め、嘲笑しただけだった。
「では、学友として手伝ってやってはどうだ?」
「それは……そうするつもりだ。だけど、僕が言っているのは君のルネリアさんへの態度で……」
「態度!」
アルターは哄笑した。静かな図書館に、その声がよく響く。
「――失礼。
……まだ分からないのか、セロ=ウィンドライツ? オレは“アレ”をどう扱っても良い、どういう態度で接してもいいんだよ。なぜならオレが“主”で、奴は“従”だからだ」
「それはおかしい……はずだ」
「いやいや、何もおかしいことはない。オレはアレとそういう契約を交わしている。いいか、首輪を見ろ。緑色の首輪だ」
床に伏せるようにして本を拾い上げる彼女を、アルターは冷たく指さす。
「よもや知らないわけでもないだろう? 社会というものがこの世に成立したそのとき、そして余暇を得ることができたとき、人々が求めた何より利便性の高い道具のことを?
それはどんな役畜よりも賢く、どんなスクロールよりも広い用途で使うことができる……そうだ、人間が労働という楔から解き放たれるために要したのは、物としての人間なんだよ」
人を縛るために呪力を込めた首輪の歴史は、遡ることができないほど古い。一説によれば、神からの
「いいかな、セロ=ウィンドライツくん。何度も同じことを言わせないで欲しいがね、“アレ”はオレにとって道具なんだよ。鑑みる必要などない。制度に基づいた、正式に取り交わされた契約の、そういう役割のものなんだ」
辛抱強く説き伏せるように、アルターは言う。
「それは結果として《人間》を“奴隷”と定義するものであり、お前の倫理としては受け入れがたいことかもしれん。しかしこの契約の履行に、ウィンドライツ、お前が口を出すことは許されない。なぜなら、これはすでに交わされた契約だからだ。社会がオレを主として認めた、契約の名のもとに、オレに保証された権利だからだ」
「だけどっ……」
セロは反論の言葉を探したが、ふと自分の中で疑念がわき上がるのを感じた。
間違っている――それは、果たして本当にそうか?
正しくない。――それを断じることができるほど、自分はこの世界に精通しているのか?
「……フン」
二の句が継げないセロに拍子抜けしたように、アルターは嘲笑う。
そして静まりかえった衆目の中、図書館を出て行った――。
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