夏の終わり

熊雲

夏の終わり

「どちらへ行かれるのですか?」

 どこか寂しそうな声色が私に注がれた。

 足を止めて振り返ると、物憂げな表情で縁側に裸足で立つ彼女の姿があった。


「夏が終われば私は出ていく――そう言っていたはずだ。もう夏は終わったのだ」

「いいえ。終わってなどいませんよ。ほら、こんなにも太陽が眩しくて、まだ夏の気配は去っていないのですから。まだ行かなくてもよいではありませんか。まだ此処に居てもよいのではありませんか」


 柔らかく、淑やかに、優しくそっと私を留めた。

 夏の暑さは確かに未だ残っていて、彼女の肌も少し汗ばんでいた。


「急がずとも、よいではありませんか」


 私は彼女から離れたいわけではない。

 此処から早急に立ち去りたいわけでもない。気持ちが急いてなどいない。

 決してそんな思いなどは無かった。決して無かったはずだ。


 周囲の木々が軽い音を立てて揺れた。

 山から吹いたその風は私を通り抜けて、彼女の黒髪と白いワンピースを揺らした。

 私の頬に、彼女の足に、その肌に感じたのは冷たさで、それは夏の終わりを明確に告げる風だった。

 鉛白色の雲が太陽を隠したことで、彼女の目はよりいっそう寂しそうに見えた。


「ほら。夏が終わったでしょう。それじゃあ。私はこれで」

「あなたには、ずっと此処に居てほしいと思っておりました。夏が終わっても。季節が巡ったとしても。あなたと……」


 きっと彼女には母親に似たものを心のどこかで微かに感じていたのだと、今になって気が付く。

 彼女が漂わせる儚さは私の足と唇を重くさせた。


 彼女に背を向けて離れようとする私だったが、今度は言葉ではなく、抱擁によって足を留めることとなった。


 彼女自身の匂いと、ほのかに香るシャンプーの匂い。

 体温とワンピースの感触。

 どこかに消えてしまいそうなそれらを確りと感じる。

 無言で彼女の手を払った。


「最後に……最後にもう一度だけ、あなたに抱いてほしかった……」


 その言葉は彼女らしくなかった。それは彼女の本音だからか。

 私は唇に力を入れて閉し、何も応えまいと努めた。

 足を進め、彼女との距離が少しずつ離れていく。


「ああ」


 空を見上げると雲が剥がれて、隠れていた太陽が姿を見せた。

 陽の光がチリチリと頬を灼くように感じられた。


 夏はまだ終わっていない。

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夏の終わり 熊雲 @mogu2_panda

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