天使ではない少女の詠う

暮並果

第1章 天使ではない少女(1)

 夜八時を過ぎた駅前は人の姿もまばらだった。

 大きくもないロータリーはがらんとして、タクシーが一台停まっている。お客さんを待っているのか休んでいるのかわからない。

 居酒屋以外では数少ない飲食店である某ファストフードの店内には、駄弁る学生の姿さえ見当たらなかった。

 そんな息の根の止まりかけたようにも見える小さな街は、一方でスーパーもあるし、鉄道も一時間に五本くらいはあるし、ひとりで暮らしていくのにそう不自由はないのだった。……もちろんそれは、私が賑やかさを好まない性格だからなのだけれど。

 都会で遊び耽りたい人たちには向かないだろう。夜通し遊べるような綺羅びやかなところへ出るには、一時間くらい掛かってしまう。

 ともかく、快適ではないけれど許容できなくもない、そんなよくある郊外の街のひとつがここだった。

 ――初夏の涼やかな夜風に吹かれながら、私は誰もいない線路際の道を歩いてゆく。

 行く先には私の他に人影もなく、車も通らず、静かな夜だった。星はひとつふたつしか見えなくて、街灯の光だけが辺りを鈍く照らしている。

 もしこの瞬間に暗がりから暴漢がぬっと現れでもしたら、私なんてひとたまりもないなと思った。制服というアイコンは、闇夜にむしろ悪目立ちするもののようにも思われる。

 ……私なんかを拐かして、そのうえ嬲ったり殺めたりする需要があるかどうかは、知らないけれど。

 自分の制服に目を落とす。夜風がスカートの裾を揺らしていく。髪もさらさらと流れる。

 じめじめした梅雨に入る前の、乾燥して心地よい夜だった。

 しばらくこのまま線路沿いに歩き続けたいところだったけれど、私の暮らすアパートは駅からさほど遠くない。せいぜい歩いて十分くらい。

 だからもうそろそろ、少し先に見える踏切のところで、右に折れて住宅街へと入らなければいけなかった。

 ほんの少し名残惜しいなと思いながら踏切を見やると、そこには思いがけずいつもと違う光景があった。


 真っ白い少女が踏切の真ん中に立っている。


 咄嗟に思ったのは、少女が幽霊だということ。

 だって少女の服装は、服装というよりも装束は、あまりにも白かった。まるで想像上の天使が身に纏っているような衣装だった。

 やや距離があるのでディテールまでは分からないけれど、和よりは洋を感じる雰囲気。西洋の幽霊かなと思った。どうしてこんな東洋の郊外にいるのか疑問だ。

 そして次に感じたのは、少女が今まさに自分自身を手に掛けようとしている瞬間なのではないかということ。

 あの白い衣装は死に装束で、堂々と踏切の真ん中で、もうそろそろ来るはずの列車を待っている。その瞬間。

 ……冷静に考えてみれば、少なくとも前者は有り得ない話で。だとすると死に装束なのかどうかは別として、轢かれようとしているのだと思う。

 どうしよう。

 私は身を挺して踏切に飛び込むタイプの人間ではない。だから力づくであの少女を引っ張り出そうとは思わないけれど、素通りするのもおそらく世間様はよく思ってくれない。

 折衷案で、踏切の外からひと声かけてみよう、と思った。あと、何か非常ボタンみたいなのを押そう。そして帰ろう。

 万が一にも血飛沫なんて浴びたくはないし、そもそも人の選択に口を挟もうとも思っていない。

 けれど見てしまったからには私の一応の世間体のために、非常ボタンを押させていただく。悪く思わないでほしい。……なんて。

 早足になって、踏切へと近づく。

 街灯の眩しい踏切の下に、真白い少女が立っている。顔は向こう側を向いていて見えないけれど、その金髪からして外国人なのかもしれないと思った。染めたにしてはあまりにも綺麗だった。

 私よりも少し背の低い、幼いとも言えそうな女の子。

 背後に人が来たことに気づいているのか、どうか。こちらを振り返る素振りもない。

 私はひとまず傍らの赤いボタンを押した。きっと警報音が鳴るのだと思って、身構えながら。

 けれど実際にはボタンを押したあとも音は鳴らず、光が明滅することもなかった。うんともすんともいわないし、これはもしかすると故障なのかもしれない。よりにもよって。

 流石にちょっと焦って、声を掛けようと顔を上げる。少女はさっきと同じ姿勢で、じっと立っているのだと思い込んでいた。

「――どうかしたんですか?」

 ……それは私の台詞だよと、そんなことを思う暇もない。

 目線の先には、さっきまで向こうをむいていたはずの少女がこちらを見てきょとんとした表情を浮かべていた。

 ――白い肌。白い服。街灯の光を受けて輝く金の髪。

 この世のものならぬ天使みたいな少女は、いったい自分が今どこに立っているのか、わからないとでもいうのだろうか。

「そこ、踏切の中だから。……敢えてそうしてるのかもしれないけど」

「なるほど。ミカが自殺志願者だと思って、止めようとしてくれたんですね!」

「一応ね」

「それはどうも、ありがとうございます!」

 少女はにこにこして、でもその場から動く気はないようだ。

 轢かれたいわけではないのなら、どうしてそんな場所で突っ立っているのか。……別に人の自由だから、どんな理由でもいいけれど。

「お気遣いは大変ありがたいのですが、ご心配には及びません。なぜなら、列車はしばらく来ないからです」

「そうなの? まだそんなに遅くない時間だから、そろそろ通ると思うけど……」

「普段であればそうかもしれませんが、今日は通らないんです」

 少女は微かに微笑む。

 白い輪郭が暗い背景に浮かび上がる。

「そう。今日は通らないんだ」

「あれ、納得されるんですか?」

「納得っていうか、どっちでもいいかなって。もしも踏切が鳴り出したら、私はここから離れるし」

「そのときはミカもここから出ますよ」

「……天使なら、それはそうなんだろうね」

「ミカは天使ではないですよ! それはそうだろう、というのが、どういった意味かわかりませんが……」

「天使なら自殺なんてしないでしょう?」

「どうでしょう。ミカは天使ではないのでわかりかねます」

「ふぅん」

「え、本当にミカのことを天使だと思ってるんですか?」

「天使っていうか、正気ではないのかもなって」

「そんなことはありません。失礼ですね。世の中の大抵の人よりミカは正気です!」

「そう。それはよかった」

 気のないお返事です。と、白衣の少女は唇を尖らせる。

 こうやってやりとりをしていても、未だに踏切が鳴り始める気配はない。闇に溶け込むレールの先から、車輪の音は聞こえてこない。

「ほら、列車は来ないでしょう?」

「そうみたいだね。……それで、あなたはそこで一体何をしてるの?」

「わたしのことはミカと呼んでください。――紺夜瑠璃さん」

 もしや、と思った。

 もしかして冗談ではなく、人ならざる何かなのではないか。

 ……より悪いケースとして、私の知らぬ間に私の顔写真がインターネット上で拡散している可能性も考えられるけれど。

「何で私の名前を?」

「何でだと思いますか?」

 不敵な笑みを浮かべてミカは問い返してくる。小癪な。

 ……警戒半分、不気味半分で、私はミカの目を見つめた。瞳まで黄金だった。

「羊の皮をかぶった狼とはいうけど、あなたも――ミカも天使の見た目をした何かだったりするのかな」

「そんな、人を化け物みたいに」

「……まあ、名前くらいどうでもいいのかもね。知られたって」

「急に投げやりになりましたね……。大事ですよ、個人情報。今はほら、悪い人ばかりですから。――もちろんミカは瑠璃さんを陥れようとして名前を呼んだわけではありませんが」

「それなら他に用でもあるの」

「用ですか……そうですね」

 私に言われて考え出すのだから、いよいよもってこの少女の意図も目的も謎めいている。もっとも、いちばん謎めいているのは見た目であることに変わりはない。

「ひとり暮らしの瑠璃さんに折り入ってお願いがあるのですが」

 何だか上目遣いに、また新たな個人情報を振りかざしてくる。

 もういちいち驚くのにも疲れて、そういうものとして受け入れてしまおうと思った。問い詰めたところで暖簾に腕押しなのはさっきのやりとりでわかっている。

「お部屋は余っていたりしませんか……?」

「ひとり暮らしなことは知ってるのに、1Kで暮らしてることは知らないんだ」

「……部屋はひとつでも、すっからかんのクローゼットがありますよね?」

「…………」

 確かにある。

 いわゆるウォークインクローゼットと呼ばれる、人が寝転んでも十分なくらい広さのあるクローゼットが。

 今そこにおいてあるのは、段ボール箱がひとつかふたつ。

 掛かっている洋服も数着くらい。

 ……現状のままでも人がひとり寝起きするには十分なスペースがある。その寝起きする人間が私よりさらに華奢な少女となればなおのこと。

「なるほどね」

「この先は言わなくても?」

「今晩泊まらせてくれってことでしょう」

「その通りです! 今晩から泊まらせていただきたいなと」

「――ちょっと待って。今晩からって、今晩から……いつまで?」

「瑠璃さんは聡明な方ですね」

 気づかれたことを誤魔化すようにミカは微笑む。

 上がり込みさえすればこっちのもの、とでも考えているのだろうか。悪い営業みたいに。

「……で、いつまで泊まりたいの」

「あのですね、世界の終わりの日まで一緒に暮らせたらなと」

 間を置くことなく、表情も変えず、ミカはすらすらと一生を添い遂げる申し出をする。

 およそ踏切の中からするお願いではないだろうと思った。

「初対面でプロポーズされても」

「駄目でしたか?」

「養うのはお金が掛かるから」

「お金があればいいんですか?」

「……ミカの他に変な人が押しかけてきたり、変な宗教の勧誘をしたりするわけじゃないなら」

「ミカの他にって、ミカはそんなに変じゃないですよ!」

「大分変だよ」

 ――実際のところ、そんなに長くいるつもりはないのだと思った。家出か脱走か、あるいは地上の視察か、理由は知らないけれどなんとなくそんな気がした。どこか儚さのある雰囲気がそう思わせたのかもしれなかった。

 長くその形を保てないような。

「それでは今晩からお邪魔しますね。変なミカを家に上げてしまう、ミカよりおかしな瑠璃さんのお家に!」

「そんなこと言ってると連れて行かないよ」

「ミカが場所を知らないと思いますか?」

「住所を知っていても鍵は開けられないでしょう」

「法的にはそうですね」

 ……確かに天使が人間の法の下にあるのはおかしな話だけれど、それはそれとして不法侵入はやめてほしい。

「それじゃあ、まあ……行こうか。いつまでもこんなところにはいられないしね」

「はい! よろしくお願いします!」

 そうしてやっと踏切の中から出てきたミカは、よろけたようにも見える軽い足取りで私のすぐ隣に来たのだった。ふわりと、これまでに嗅いだことのない不思議なよい香りがした。

 ……誰もいなくなった踏切は、ミカの言ったように最後まで鳴らなかった。光らなかった。

 まさか彼女の力でそうしているわけではないだろうから、何か理由があって止まっているのかもしれない。

「種明かしをしましょうか?」

「聞こうか」

「さっき飛び込みがあったんです。隣の駅で」

「……なるほどね」

 スマホで交通情報を調べてみる。

 確かに人身事故があり、この辺りでは運転を見合わせているとのことだった。発生時間はついさっき、ちょうどミカと出会う少し前……。

「……ミカはこんなところに立ってたのに随分耳が早いんだね」

「何ですかその胡乱げな表情は。別にミカが突き落としたりしたわけじゃないですからね!」

「それは疑ってないけど」

「ならいいんです。ミカは天使でもなければ悪魔でもないのですから」

「じゃあいったいなんなの。種明かしっていうなら、まだ何も明かされてないと思うけど」

「……瑠璃さんは知りたいですか? 本当に知りたいのならミカの知っている範囲で――実のところほとんど知らないのですが――ミカのことを教えて差し上げます」

「……やっぱりいいかな」

「即答ですね!」

「あんまり気にするようなら、そもそも得体の知れない人を泊めようなんて思わないでしょう」

 ――それはそうかもしれないですが、ちょっとは興味をもってくれてもいいと思うんです。

 ミカは呟いて、その小さな足を前後に振った。

「興味があるかないかで言うなら、ある方だよ。私としては」

「本当ですか?」

「うん」

「そうであるなら嬉しいです」

 首をくるりとこちらへ向けて、にこっと笑った。

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