「黄色いおじさん」の秘密
翌日。
僕はランドセルを背負い、朝一番に家を出た。
いつもなら、まだ朝ごはんを食べている時間帯。人気のない通学路を早足で進む。
──今日、言わなきゃいけない。
歩きながら無意識に、ランドセルの肩ひもを握りしめていた。
──あれからずっと、モヤモヤしていたことを。
きっと、おじさんも同じことを考えているはずだ。
横断歩道の前は、無人だった。
…ちょっと早すぎたかな。僕は近くのガードレールにもたれかける。
顔を上がると、まだ日の高くない空は、いつもとは異なった色合いを見せていた。
過ぎていく時間。
まだ数分かもしれないそれが、何十分、何時間にも感じられる。
──あ。
視界の端。不意に、黄色い作業着が映り込んだ。
僕はガードレールから身を起こす。
おじさんは、目を大きく見開いていた。半開きになった口は、何か言葉を探しているようだ。
小さく息を吸い込む。ためらいはなかった。
「おはようございます」
「…おはよう」
生気のない声。おじさんの目は、少しも笑っていなかった。
昨日の出来事が原因なんだろうか。
ちくり。また、胸に痛みが走る。
逃げ出そうとする自分に鞭を打って、僕は地面を踏み締める。
──もう、昨日みたいな思いはしたくない。
「ごめんなさい」
意外なことに、その一言はなんの抵抗もなく口を突いていた。
「僕、あの日からずっと、おじさんのこと無視してた。おじさんは毎朝、『おはよう』って言ってくれてたのに…」
そうだ。
悪いのは、全部、僕だ。
気づいた瞬間、戦慄が走った。
昨日の朝。旗を奪った少年に向けられた、おじさんの表情。
怒られる。直感的に、そう思った。
僕は目を固く目をつぶった。おじさんの顔なんて見られなかった。
──ぽん。
頭の上。柔らかい感触が包み込む。
おそるおそる目を開けた。
──それは、大きくてあたたかい、おじさんの手だった。
「健斗君、ありがとうね」
…ああ、同じだ。
脳内で、一つの記憶が浮かび上がる。
小学三年生、初めて挨拶した日。
あの時もおじさんは、同じ言葉を口にしてたな。
──ありがとうね。
「気を使ってくれてたんだよね。ロケットペンダントの話をした後、あんな別れ方になっちゃったから…今日早く来てくれたのも、さっきの話をするためだったの?」
「…うん」
「そうかぁ」
おじさんの手が、滑るように優しく頭を撫でた。
「…健斗君。おじさんの方こそ、ごめんね。どうしても勇気が出なかったんだ。このペンダントについて話すことに」
僕の頭に置かれていた手を戻し、首元のロケットペンダントを握りしめる。
「でも君が来てくれて、やっと決心がついた。…おじさんの話、聞いてくれる?」
僕はうなずいた。
おじさんが、ペンダントの蓋を開ける。僕は中を覗き込んだ。
──入っていたのは、女の子の写真だった。小学校低学年くらいだろうか。ショートヘアーで、可愛らしい笑みを浮かべている。
「…おじさん、結婚してないんじゃなかったっけ」
「娘じゃないよ。僕の弟の子ども。姪っ子にあたるのかな」
「でもどうして、その子の写真を…」
「死んじゃったんだ、ちょうど十年前に」
え、と顔を上げた。
おじさんはじっと、写真を見つめている。
その表情は僕の目に、いつになく悲しげに映った。
「ユキミって名前なんだけど、とっても良い子でね。あんまり会う機会はなかったんだけど、弟の家に行ったときは『タダシおじさー、ん!』って抱きついてきて。…本当に、可愛かった。家族のいない僕にとっては、一人娘みたいな存在だったんだ」
おじさんを見つけ、満面の笑顔で出迎えるユキミちゃんの姿が、目に浮かんでくるようだった。
「──その日は、ユキミの入学式だった。僕は、急用が入ったユキミの両親に代わって、入学式に一緒に出席することになっていた。僕らは二人で並んで歩いていて、それで、この横断歩道に差し掛かって…」
おじさんはそこで話を止めて、何かに耐えるように目を閉じた。
一度深く息を吐き出して、それから、再び語り始める。
「『学校、こっち!』って、ユキミが横断歩道の先を指差して走り出したんだ。もう一刻も早く学校へ行きたそうにね。…でもその時、信号は赤だった。僕は、ユキミを止める間もなかった。…そしてそのまま、ユキミは走行車にひかれて死んでしまった」
ここで事故に遭ったんだ、とおじさんは目の前の横断歩道に視線を向けた。
僕は、全身に鳥肌が立つのを感じた。どこからか、女の子の悲鳴が聞こえてくるようだ。
「とにかくショックでね。僕は、ユキミのために何もできなかった。それが何よりも悔しくて、悲しくて…。それから、今の自分がするべきことは何なのか考え続けたんだ。そしてたどり着いたのが、この仕事だった」
おじさんが、旗を胸のあたりまで持ち上げた。「横断中」の文字が、風になびいて揺れている。
「その頃は、交通指導員なんていなかったから、学校側に頼んで雇ってもらったんだ。それからずっと、僕は朝、この場所に立っている。学校の子どもたちを守るため、ユキミのような事故に遭う子が決して出ることのないように──」
知らなかった。黄色いおじさんが、ここの初代交通指導員だったなんて。
昨日、飛び出した少年に厳しく怒っていた理由が、今なら分かる気がした。
「──ユキミは今も、僕のことを見てくれていると思う。この写真の中で、みんなを見守ってくれていると思う。だから、ロケットペンダントは常に身につけてるんだ」
僕は、ユキミちゃんの写真を見つめた。
「きっと、褒めてくれてるんじゃないかな。『おじさん、頑張ってるね』って」
「…ありがとう」
「黄色いおじさん!何してんのー!」
突然響き渡った叫び声に、僕らはびっくりして振り向く。
一年生の男の子だった。その後ろにも、学校の子の姿がちらほら見え始めている。
「ハイ、おはよう!」
「おはよーございますっ!」
おじさんの元気な挨拶を聞いて、もう大丈夫そうだな、と思う。
僕はそっと、その場を離れた。
おじさんの首元で、ロケットペンダントが銀色に光り輝いている。
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