「黄色いおじさん」と僕のその後
──それから先の、黄色いおじさんとの思い出は、多すぎて語りきれない。
たくさんの挨拶と、他愛のない話と笑顔に囲まれて、僕は日々を過ごしていった。
あっという間に六年生になり、中学受験を前日に控えた日には、「頑張って」と飴玉をこっそり渡してくれた。
学校でお菓子は禁止だから、僕は「ありがとう」と受け取って、そっとコートのポケットに忍ばせた。
べっこう飴だったのが、おじさんらしいなと思う。
──そして、卒業式の日の朝。
通学路でおじさんと会う、最後の日。
僕は史上最速の時刻に家を出た。
もちろん、あの人とたくさん話すためだ。
「ハイ、おはよう!」
眩しい笑顔を浮かべるおじさんは、この日も、いつも通りだった。
「おはようございます」
最後の挨拶。
初めておじさんに話しかけたあの日から、とうとう最後まで「おはよう」は敬語のままだった。癖ってなかなか直らない。
「…実は、おじさんに渡したいものがあるんだけど」
「えっ、なになに?」
興味津々のおじさんに、僕はランドセルから取り出した一冊のノートを手渡した。
それを開き、ページをめくるおじさんの顔がみるみる明るくなっていく。
そして、いきなり大きな声で笑い出した。
「アハハハ!なんだこれ!」
プレゼントしたのは、その名も「黄色いおじさんの観察日記」だった。
僕はずっと、朝の会話で分かったおじさんの「生態」をその日の日付と共にノートにメモしていたのだ。
「三月五日 おじさんはピーマンが嫌い」「五月八日 おじさんは小さい頃から巨人ファン」
「十二月一日 おじさんの家は古くて雨漏りしている」
…などなど、書かれている文章は一言だけど、それを何百日も積み重ねればものすごい量になる。
「僕が持っててもしょうがないから、あげるよ」
よく考えれば、自分の観察日記を自分で読むというのもおかしな話だ。
センスのかけらもない贈り物かもしれない。でも、おじさんはきっと喜んでくれると信じていた。
「ありがとう、嬉しいよ!それにしても、この観察日記、面白いなぁ。これとか懐かしいよね。ほら、健斗君が遅刻しそうになってたとき…」
それから僕らは、観察日記──アルバム──をめくりながら、学校の子たちが来るまで思い出話をして楽しんだ。
…でも、おじさんは、最後まで気づかなかったみたいだ。
観察日記の最後に、手紙を挟んでおいたことを。
そこに、「僕も将来、おじさんみたいな交通誘導員になりたい」と書いたことを──。
僕は停留所からバスに乗り、座席に座った。
合格した中学校へのバスでの通学にも、やっと慣れてきたみたいだ。
窓を開け、春のあたたかな風のにおいを胸いっぱいに吸い込む。
信号が赤に変わり、バスが停止する。
窓から、黄色いおじさんの姿が見えた。
まだ朝早い時間帯、通学路の子供たちの姿はまばらだ。
一人の男の子が、横断歩道の前で立ち止まる。
「ハイ、おはよう!」
「おはよーイエローマン!」
「え、イエローマン!?」
「黄色いおじさんの新しい名前っ!」
思い返せば、僕とおじさんをつないでくれたのも「おはよう」の言葉だった。二年生のあの日、勇気を出して挨拶した自分を褒めてやりたい。
──『おはよう』って言うだけで、今日が良い一日になるから。
あの言葉は、本当だった。
僕がおじさんと過ごした日々は、一生の宝物だ。
あの手紙は読んでくれただろうか。
…でも、その感想を聞くのはまだ後。
僕が「横断中」の旗を手にしたときだ。
学校に着き、一旦荷物を置いてから、僕は校門へ向かった。
「生活委員会 挨拶運動」の腕章をつけ、校門の前に立つ。
ちょうど二人、生徒が歩いてきた。
「おはようございます!」
「それでさー、そいつがいきなり笑い出してよー」
「あっは、ウケる!」
あっけなく無視された。
…でも、まぁ想定内。
おじさんも、交通誘導員になりたての頃はこんな感じだったのかな、なんてことをふと思う。
──僕も負けていられない。
また一人、生徒の姿が見えた。
姿勢を正して、前を向く。
大きく息を吸い込み、しっかりと相手の目を見つめ、
…ちょっとだけおじさんのことを考えて、
笑顔と元気を忘れずに──。
「おはようございます!」
「黄色いおじさん」の話 シダレヤナギ @kametann
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