「黄色いおじさん」と事件
結局、早く登校する計画はその一日で中止になってしまった。
──そして、僕はまた、おじさんから距離を置くようになった。
登校する小学生の中にうまく紛れ、「ハイ、おはよう」を無視して横断歩道を渡る。
あの日以降も、おじさんは変わらず挨拶をしてくれていた。
でもきっと、相手も何か思うところがあるんだろう。それ以上、僕を引き止めたりはしなかった。
5日経ち、10日経ち、20日が過ぎた。
こんなに長く苦しい日々は、今までもこれからもないだろうとさえ思った。
僕たちは、気まずさ──いや、それとは少し違う複雑な気持ちを、それぞれ抱えたままだった。
※
一ヶ月後。
僕は、アスファルトとにらみっこしながら人混みの中を歩く。
…横断歩道が、迫ってくる。
「ハイ、おはよう」
傷口に消毒液をかけたような痛みが、全身を貫いた。僕は唇をぎゅっと噛み締める。
と、その時。
「危ない!!」
叫び声が響き渡る。
ハッとして顔を上げた。
僕の目に真っ先に飛び込んできたのは、横断歩道へ飛び出した少年と、その腕をつかんでいるおじさんの姿だった。
信号は──赤。
おじさんは、すぐに少年を歩道に引き戻す。
その目の前を、車が通過していった。
ほんの一瞬の差だ。
「危ないだろ!!」
耳をつんざくような怒鳴り声。
通行人は足を止め、みんなあっけに取られたように二人を見つめている。
「なんで赤なのに飛び出してるんだ!」
少年は手に「横断中」の旗を持っている。
それで、だいたい見当はついた。おじさんから旗を奪って、そのまま逃げようとしたんだろう。
信号が赤だということにも気づかずに──。
「死ぬかもしれなかったんだぞ!君が死んだら、家族も友達も、たくさんの人が悲しむだろ!」
おじさんが怒っているところを、僕は初めて見た。
いつも仏様のように微笑んでいたおじさんが、小学生に絡まれても決して叱らなかったおじさんが、ちょっと大人しい性格だったおじさんが──。
僕は、今、眼前にある光景が、とても信じられなかった。
おじさんは、まるで別人のような変わりようだった。少年を見つめる眼光は鋭く光り、深く刻まれているシワには威厳すらある。足がすくむほどの迫力が、ここまで伝わってくるようだ。
青ざめた少年は、怯え切った様子で頭を下げた。
「ごめんなさい…」
おじさんは、なお厳しい表情を崩さなかったが、少年から旗を受け取ると、
「…次からは、気をつけてね」
その口調は、表情は、もう元に戻っていた。
そして、ひとかたまりになって動けないでいる僕らの方に、身体を向ける。
「…ハイ、おはよう」
誰も返事をしない。
周りの人たちはぞろぞろと歩き始めたけれど、みんなおじさんを避けるように横断歩道を渡っていく。まるで、おじさんの前にだけ、透明な壁でもあるみたいに。
僕は胸が苦しくて仕方なかった。
無言でその横を通り過ぎながら、意味もよく分からない「ごめんなさい」を、心の中で何度も何度も繰り返した。
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