路地の看板

「ごめんなさい、待たせちゃって悪かったわ。さっ行きましょ、あっちに美味しいレストランがあるの。お詫びに奢らせて」

 左腕の黒丸の下から女の顔が覗いていた。その時どこかで見たような顔だったが、酒のせいであまり注意深く見なかったのが、今考えるとそれこそ私の不覚だったと思う。

 温かい液体のような脳みそに動く気配など毛頭なく、ただ腕を掴む女の足取りに合わせるしかなかったし、新手の逆ナンで女はグイグイと引っ張るので最近流行りの技でそのままホテルに連れて行かれるかと思ったが、女は頻りに後ろを振り返っては何かを真剣に見てるようだった警察に目を付けられてないか気にしているのだろう。

「話を合わせてください。事情はこの後話します。」

 さっきのウキウキのような声と対象に静かで真剣なおかつ何かしら警戒心があるような口調だったため、女が苦手な私は反射のように背筋を伸ばした。そしてチョロチョロと女が何を見ているか気になって時折振り向いているのだが、駅だったために人があちらへこちらへうようよしていたので確認することができなかった。

 そのまま明るい駅から一変して、人気や明るさがなく飲食店の看板や街灯の証明が点々と路地まで連れ込まれたのだが周囲にはホテルなどなく、この女が住んでいそうなアパートもなかった。

 いや、このまま路地を出てそのまま大通りのホテルへ行くのではないかと密かな期待をしていたのだが無論それはコロコロと崩れた。

 歩いて数分路地の中間あたりで

「ここら辺でもう大丈夫なので・・・」

 女が突如何か言いかけたので、私は女が思っていることを素直に応じて足を止めて、絡んだ腕を解いてちょっと距離をおいて互いの顔を見合った。

「すみません。わざわざ突然のことにお付き合いしてくださって。」

 女は深く礼をした。その時まで女の帽子から下までの服装を知らなく、初めて見た時は瞬時にどこかの金持ちの奥様だろうと分かった。明らかに高級品で私のような酒に酔い潰れるような者には到底買えないものばかりで、特に目を引いたのは左手首をくるりと巻くいくつのもエメラルドがはめられたの腕輪で、そのような物を買えるのは絶対に富がある者だけである。おそらく顔はそれなりに美しいのであろうがサングラスと赤いマフラーで隠れていたのであるが、良く見てみると左側のサングラスとマフラーの間に豆粒くらいの黒子があるのが見えた。

「いえ、私はなんとも思っておりませんので。」

 頭の後ろを撫でていると、クスッと赤マフラーのしたから聞こえた。

「すみません。実は・・・・」

 どうやら彼女は会社帰りで電車に乗っていたところナンパに会ってしまい、なんとか振り切ろうとしたもののしつこく迫って来るばかりで、つい「彼氏が待っているからと」言ってしまい、そこで電車を降りて一人だと思う人物を探していて、たまたま私が引かれたっというわけである。ちょっと期待した自分が恥ずかしくと思う。

「あの後日お礼をしたいのですが、お名前をおっしゃわれても構いませんか?」

 よそよそしく話す彼女からは男が外的に好む魅力はないが、その話し方の魅力に気が付く者がいてもおかしくはない。その者たちに私はいる。

「構いませんよ。私の名前が誰かに使われても咎めるつもりはありませんし。」

「ありがとうございます。」

 彼女は左腕にかけてあるバックから取り出したメモ帳とボールペンを、兵士が戦争でも行くかのように構えた。

 宮本正雄だと教えると「では後日」、そのままそそくさと足取り速く、駅と反対側の夕日のようなオレンジ色の道路に去った。

 しかしこの出来事が私の考えていた時の流れを帰るなんて、未来の私は笑っているだろう。

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獅子の剣幕 阿笠栗栖 @yuureiyashiki

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