第29話

 零士の事務所の地下では、カシワが血塗れの状態で放置されていた。

 零士の拷問によって受けた傷は深く、その痛みで寝ることもできない。しかし、眼下に広がるのは地下室の闇である。カシワの精神は衰弱しきっている。

 音一つない地下室に、衣擦れの音が鳴った。

 のろのろと顔を上げた柏の目に飛び込んだのは、提灯を持った美女の姿であった。

「まぁ!酷い傷……!待っていて頂戴、すぐに戻ってきますわ」

 零士ではなく、見知らぬ女がやってきたことに困惑するカシワをよそに、医療道具を詰め込んだ箱を持ってきた女はせっせとカシワを治療し始めた。

「お前は何者なんだ、何故ここに居る」

「私はお菊と申します、この屋敷の女中をやっております」

 お菊という偽名を名乗った魅音は手際よくカシワの血を拭い、包帯を巻く。

「昨晩叫び声が地下からしたものですから何があったのかと思ったら、こんな恐ろしいことになっていたなんて……」

 カシワは暫しの間呆けていたが、目に光を取り戻すと魅音に囁いた。

 魅音から漂う甘い香りがカシワの鼻から忍び込む。

「お菊と言ったな、ここから逃がしてくれ。

 このままでは死んでしまう」

 しかし、無情にも魅音は首を振った。

「それはできませんわ。逃がしたことがご主人様に知られれば私の命が危ないですもの!これが精いっぱいですわ、許してくださいな。

 それに、外は今危ないのよ。ご主人様もそれでしばらくお留守にしているの」

「危ない?何かあったのか」

 魅音は周囲をきょろきょろと確認した後、カシワに密着して囁いた。

「今、街では大蔵商会が内部抗争を始めちゃって、みんな家に籠って抗争の終わりを待っている状態なのよ。

 ご主人様が言うには、雇っていた殺し屋の組織と大蔵商会が対立したんですって」

「まさか、そんな……」

「そろそろ戻らないと、また手当てしに来ますからね!」

 足早に去っていく魅音に、カシワは困惑の表情を浮かべていた。

 一体外では何が起こっているのか?

 彼の心には、疑念の芽が植え付けられた。

 その芽は、精神を蝕む暗闇の中ですくすくと育ち始める。


 闇と静寂の中で植え込まれたカシワの疑念は、彼から冷静さを奪っていた。

 闇の中で失われた時間間隔の中で無限にも思える時が経過した後、再び現れた魅音にカシワは血相を変えて話しかけた。

「お菊!さっきの話を詳しく聞かせてくれ!外では何が起こっているんだ!」

「え、えぇ、構いませんけど……。

 それよりも、お腹が空いたでしょう。簡単なものですけど、頂いてください」

 魅音は青菜のおにぎりをカシワの口に差し出した。魅音の手まで食べかねない勢いで、カシワはおにぎりを平らげる。おにぎりは妙な風味を持っていたものの、極度の空腹に悩まされていたカシワには全く問題にならない。

 食欲を満たし、一息ついたカシワはようやく本題に戻る。

「す、すまない、助かった。

 それで、外は今どうなっているんだ」

 過酷な経験の後与えられた厚意に、カシワはすっかり魅音に心を開いていた。

「まだ抗争は続いていますけど、殺し屋組織が追い詰められているという話を警察の方から聞きましたわ。この騒ぎもそろそろ終わりそうですよ」

「そんな馬鹿な、親方様がいらっしゃるというのに……」

 呆然としていたカシワは、魅音に必死に頼み込む。

「頼むっ!俺を逃がしてくれ!

 仲間がこのままでは死んでしまう!お前に迷惑はかけない、全て終わったら戻ってくる、約束する!」

「そういわれましても……」

「家族が死ぬのをみすみす見逃せと言うのか!頼む!」

 困り果てた表情を浮かべた魅音は、その熱意に負けた様に頷く。

「ご主人様が戻ってこないか確認しに行きます、約束ですよ、用事が済んだらきっと戻ってきてくださいね」

「すまない、恩に着る!」

 魅音は地下を後にしながら、笑みを浮かべる。

 魅音が体につけている薬物の香りや、おにぎりに混入していた薬草、それを最大限に生かした魅音の嘘はカシワから完全に判断能力を奪っている。

 後は、カシワをどう利用するかと言う段階に入る。

 この技術こそが、王魅音を『記憶屋』たらしめるものであった。


 魅音が地下でカシワの認識を改変している頃、零士は自身を騙した依頼者と事務所で面会していた。

 依頼者は初老の男性であるが、その座った眼が彼の底知れぬ背景を映している。

「どういうことですか、これは。

 貴方が誘拐された娘さんだとおっしゃった少女に私は襲われたんですよ。

 私を騙したんですね?」

 初老の男性は何も言わず、零士を注視していた。

 こちらの出方によっては殺すつもりだな、と零士は判断し、先手を打つ。

 あえて愚鈍な男に見えるよう、大げさな身振りで零士は話し続ける。

「それになんです、あの仮面の男達は!

 少女を追う私を妨害してきた挙句、刀で切りかかってきたもんですから大変でしたよ。私の馬は殺されてしまったし、踏んだり蹴ったりです」

 男の反応が変わった。

 初めから想定のうちに入っていたのか、初老の男は淀みなく説明を始める。

「それは済まなかった。

 私は探偵でね、あの少女と仮面の男達が犯した殺人事件を調べていたんだ。

 少女はその後どうなったか分かるのかね?」

 零士は合点がいったとばかりに頷いた。

「なるほど、探偵さんでしたか」

「あぁ、黙っていたことは誤るよ。

 素直に話したら臆病風に吹かれるかと思ったのでね」

「失礼な人だ」

「それで、話の続きを聞かせてくれ」

 零士は不満げな表情を浮かべながらも、話を再開する。

「私は命からがら逃げだしたんですが、その間少女と仮面の男達が会話していたのが見えたのが気になりましたね。彼女と仮面の男達は味方なんでしょうか?」

 初老の男の眉がピクリとはねた。

「山田派はどうこう言ってましたけど、私は死ぬ気で逃げてたんでそれ以降は聞き取れませんでした。よくわかりませんが、お役に立ちましたかね?」

「十分だ、助かったよ。

 騙して悪かったな、これを受け取ってくれ」

 初老の男は零士に札束を投げつけた。

「探偵には依頼人からの守秘義務があるからな、今の話は誰にも言わんでくれよ」

「口止め料と言うわけですね?」

「好きに解釈してくれ」

 初老の男は、足早に事務所を去って行った。

 素面に戻った零士の背中に、笑いをかみ殺したような声が投げかけられる。

「名演技じゃないの、驚いたわぁ。

 これで奴らは風車に疑念を抱いたって寸法ね。

 カシワの方も「仕込み」は終わっているから、あとはベストなタイミングで玉突き事故を起こすだけ」

 地下の階段から登ってきた魅音に、零士は肩を竦める。

「あんたの描いた絵の通りに進むとは限らん。

 今も、相手が俺を消すことを選択していれば話は変わって来ただろう」

「それはないんじゃないかしら。

 今あなたを消せば、あの男が独断で貴方を雇ったことが幹部たちにばれるでしょうし、出来る限り穏便に済ませたかったはずよ」

 葉子を風車の刺客は捕まえようとしなかった、そればかりか山田派と言う言葉を口にしたという偽情報は大蔵商会に疑念を抱かせるだろう。

 そして、こちらには大蔵商会に風車が追い詰められていると思い込んだカシワがいる。

 全ては魅音と零士の目論見通りに進んでいる。

「後は葉子ちゃんと幸弥の仕掛けが終われば喜劇の完成ね」

 魅音は妖艶に微笑んだ。

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