第28話

 大蔵商会の事務所内には奇妙な緊張感が漂っていた。下っ端達は幹部達の機嫌があまり良くない事を動物的な感性で察し、息を潜め顔色を窺っている。

 事務所の中心部、高価な木材をふんだんに使った和室に腰かけた丸刈りの男は机を中指で叩き続けていた。

 その様子を見て、向かいに座る糸目の男は笑う。

「組長さん、ご立腹ですねぇ」

 組長と呼ばれた男、大蔵商会暫定会長の猿田建男は手を机の上から退ける。

 猿田こそが、大蔵商会の政敵であった山田の情報を警察に流した張本人であり、目論見通り組長の椅子を手に入れた、今回の騒動の糸を引いていた男であった。

「会長と呼べ。

 ……表向きは手広い商売を扱っている万屋なんだ、ウチは。

 お前の所のカギはまだ捕まらんのか?」

 質問というよりは詰問に近い険しい視線を崩れぬ笑みで跳ね除けて、男は大袈裟に肩を落とした。芝居がかかった動きに、猿田は顔をしかめた。

「申し訳ありません。

 全力を尽くしているのですが、足取りが掴めていないのですよ。

 葉子は優秀な殺し屋でしたから、その足取りを追うのも大変なんです」

のんびりとした口調に、猿田の眉間の皺は深まる。

「佐久間、お前の仕事は優秀な殺し屋を派遣する事だし、業務には当然にはお前の部下の統率も含まれている。

 俺が警察に情報を流した事をお前の部下が漏らした時は、お前にも相応の覚悟をして貰うぞ」

佐久間と呼ばれた男、佐久間照は糸目に犬歯が見え隠れする狐のような相貌の男だった。常人なら震え上がるような眼光を前にして、常に微笑を崩さない。

「おぉ、怖い事をおっしゃる!

 それに、腹の探り合いはいけませんね。

 彼女の逃走を手引きした者はこの組のものだと言うのに、そこに触れないのは不公平ではないかと思いますよ」

 猿田の表情がわずかに揺れるが、直ぐに平常の不機嫌そうな顔で打ち消される。

「……知っていたのか」

「えぇ、昨日の夜から足取りが掴めない組員が1人いると聞きましてね。

 それも、かなりの手練れと聞き及んでおります」

 舌打ちを盛大に鳴らし、猿田は苛立ちを隠さない。

「ヤロウ、恩も忘れて女と駆け落ちとはな。

 下の奴らにも示しがつかねぇ。ここで落とし前付けさせる必要がある」

 猿田は忌々しそうに体を揺らす。

「昔も駆け落ちしようとした奴がいたよ。

 女を目の前でぶっ殺して、男の方も気絶するまで痛めつけて川に沈めてやったんだ。他の連中はそれでビビッて駆け落ちは暫く出てなかったのによ。

 今回はもっと惨い殺し方をしなきゃならん」

 猿田は淡々と語る。暴力は彼にとって手足と同じものであり、それを振るう事に何の躊躇も抱いてはいない。

 その様子を変わらぬ笑顔で眺めていた佐久間は、ふと真顔に戻った。

「その駆け落ちした男と言うのは、どんな男だったのですか?」

「なんだ、急に。

 かなり背が高い男だったという事ぐらいしか覚とらんよ」

「これは迷信にすぎませんが」

 糸のように細い目を見開いて、佐久間は言葉をこぼした。

「因果は巡るものですからね。

 偶然が重なり始めたら、そこには何かが居るものです」

 茶化すような色が抜けた佐久間の無意識の表情を、猿田は興味深そうに見つめた。


 零士は鼻腔を付く甘い香りで目を覚ました。

 乱暴に脱ぎ捨てられた服を纏ながら周囲を確認すると、既に魅音はこの部屋にはいない様子であった。

 甘い匂いの正体は、アヘンが発する甘ったるい毒々しいものではなく、より健康的な食欲をそそるものである。

「お寝坊さん、朝ご飯よぉ……。

 あら、もう起きてたの。朝食も食べて行って頂戴」

 魅音は両手に肉饅頭の入った蒸籠を抱えていた。

 呆気にとられた零士は、素直に席に着く。

「あんた、変わったな」

「そうかしら」

 零士と自分のお茶を注ぐ魅音に、零士は妙なものを見るような視線を投げかける。

「俺があんたと組のパイプ役だった頃は、もっと金に貪欲だった。

 目つきはもっと悪かったし、ケツの毛までむしり取られるかと思うぐらいだった。

 今のあんたは……」

「あんたは?」

「親戚の叔母さんって感じだ」

「夜道には気を付けてね」

「冗談だ」

 肉汁が零れないように啜るようにしながら、零士は肉饅頭を頬張った。

 皮の甘みと肉の旨味が口の中で混ざりあうのを待ってから、熱いお茶で飲み干す。

 その様子を見て満足そうに頷き、魅音は零士の問いに答える。

「別に変っちゃいないわよ。

 私が欲しいのは今も昔も、何者身も脅かされない自由な暮らし。

 ただ、物事には色んな歩き方があるって知っただけなのよ」

 それも強さなのだろうか。零士にとって強さとは暴力だけであるが、魅音には零士にはない手札がいくつもある。

 強さが物事を思うように推し進める力だとするなら、確かに魅音のそれは強さに違いないと零士は思った。

「それに、沢山食べて性を付けなきゃ私が楽しめないもの」

「これ以上は俺が干物になる、他を当たってくれ」

「若いんだから情けない事言わないの!」

 うんざりした様子の零士に、魅音はカラカラと笑う。

 昨晩の勝敗は魅音に軍配が上がったようであった。

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