第14話
綾女は酷い頭痛で目を覚ました。
熱病の様に定まらない思考をなんとか動かし、ふわふわと浮いたような思考を着陸させる。
綾女は椅子に座らされ、その体を縄で縛られていた。殺風景な部屋の中にはガラクタが無造作に放置されて埃をかぶっていることから、物置のような場所だろうと綾女は判断する。
窓の外には空が移っており、どうやら部屋は二階に位置するようだった。
「ようやくお目覚めか」
部屋の壁に背を預けていた零士は、綾女の目覚め気が付くと、その体を起こした。
「あなたのおかげでぐっすり眠れましたわ。
最近忙しかったものですから」
動揺を隠すべく軽口を叩いた綾女の顔面に、零士の拳が叩き込まれた。
「……っ」
息が詰まり、激痛で顔を歪める綾女を零士は見下ろす。石油ランプの光が彼の感情を感じさせない顔を煌々と照らしている。
「これからお前が無駄口を叩くたびにこうさせてもらう。
拷問は専門外なんで死なんでくれ」
布を手に巻きながら零士は囁いた。
それからは凄惨な詰問が始まった。
綾女が情報を吐くことはなかった。零士の言葉に全て冗談で返答した綾女の顔面は赤黒くはれ上がり、彼女の服は血で塗れている。
手足に力が入らず、頭痛は酷くなる一方、綾女は死の気配の足音を感じていた。
綾女はなんだかおかしくなり、クスクスと笑い始める。
その瞬間に零士からの殴打が飛ぶが、それでも綾女は笑っている。
今の彼女は母親と似たような状況であった。顔を醜く変え、無残な姿を晒している。
母親と唯一違うのは、彼女の今が高貴な行いによる結果だという事であった。
死ぬことは怖い、今にも目の前が真っ暗になりそうな絶望に綾女は泣き出しそうになる。
しかし、惨めではなかった。
綾女は笑っていた、やはり母の言葉は正しかったのだ。
高貴であることこそが、彼女の唯一の道。その末に無残に死んだとしても、それは無意味なものではない、惨めなものではない。
心残りがあるとすれば、自分が死ねば花蓮は悲しむであろうという事である。十分に傷付いて来た花蓮をまた悲しませてしまう事が綾女には辛かった。
嬉しさと、一抹の悲しさで綾女は笑っていた。
「気でも触れたか?」
零士の言葉に綾女は首を振る。
「あなた達、まるで状況を理解できていないんですのね。
買収していなかった警官の動きも私たちの動きも掴めていない、違いますか?」
綾女は殴打されながらも思考を止めてはいなかった。
藤堂陣営がすべての情報を掴んでいるのであれば、このような尋問などせずあっさりと殺してしまえばいい。そうしないことが何よりの証左である。
「かもな。
俺は金の分の暴力を提供するだけだ」
あまり関心がなさそうに返事を返した零士だったが、その声はやや吐息を含んでいた。
1時間に及ぶ絶え間ない殴打は、零士の体力を奪っているようである。
綾女の脳裏に、花蓮の笑顔が思い浮かぶ。
綾女は、もう少しだけ抗うことを決めた。
「あなたと私は、酷く良く似ていますわね」
零士が会話に注意を割くように、綾女は更に会話を広げ始めた。
綾女の無駄口に零士が殴りつけるが、口から血を流しながらも綾女の言葉は止まない。
「私の母は淫売でしたの。あまりにもお金がなかったものですから。
死ぬ時、梅毒で顔はぐちゃぐちゃでしたわ。
ちょうど今の私の様に」
零士の頬がピクリと揺れる。彼が初めて見せた、感情らしい仕草だった。
「あなたも似たような環境で育ったのではありませんか?」
零士は拳を振り上げなかった。
「……俺が、お前と同じだと?」
零士はその眼に憎悪を滾らせた。
初めて引き出せた零士の感情に綾女は驚きながらも、このチャンスを逃すまいと言葉を重ねた。
「違うとでも言いますの?」
「違う!」
零士は叫んだ。
「貴様とは違う。
俺の親は俺を男娼として使ってたのさ。
お前が道具のように扱われたことがあったのか!」
零士強くなった語気を収めたが、その怒りは収まっていないようであった。
「だが俺はここに今もいる。
好きな時に好きなものを買える。
邪魔する奴は誰だろうと叩きのめしてきた」
「それにしてはあなた、随分と辛そうに見えますわ。
それがなぜだか当てて差し上げましょうか」
零士は、綾女に胸の内側を覗き込まれているような錯覚を覚えた。
「あなたは一人ぼっちだから。
何を買っても、誰を抱いても、貴方とその思い出でつながってくれる人はいないから。
きっと明日あなたが死んでも、誰の心にもあなたはいない。
あなたはどこにもいませんのよ」
獣のような唸り声を上げ、零士の蹴りが綾女を吹き飛ばす。
弱々しい呼吸と共に綾女は笑った。
「私も似たようなものですけど……。
少なからず、皆は悲しんでくれるでしょう。
それが利害関係によるものだったとしても。私は確かにここにいたのよ」
綾女は微笑んだ。
零士は激昂に身を任せ、倒れた綾女の顔面に足を振り下ろそうとする。
しかし、その足は綾女に止めを刺すことはなかった。
突如鳴り響いた銃声がその場の時を止める。
悲鳴と銃声が周囲から連鎖的に巻き起こった。
「零士さん!奴です!藤堂の娘が!」
その声の後には悲鳴が上がる。
どうやら騒ぎは1階の方から来ているようである。
「綾女―っ!」
銃声と共に、かすかに花蓮の声が聞こえた。
零士はとっさに階段の踊り場に設置されていた石油ランプを拳銃で撃ちぬいた。
爆発したランプから火のついた液体が漏れ出し、木造の階段に火をつける。
「邪魔はさせねぇ」
振り返り、綾女に止めを刺そうとした零士の銃は、はるか後方に吹き飛ばされた。
「同感ですわ」
そこには、蹴り足を下ろす綾女がいた。
驚きに言葉を失う零士に、綾女は何やら指でつまんでいたものを零士に突き出した。
細い糸鋸がその手には握られていた。片手で扱うものではないため、綾女は数時間かけて自分を束縛していた縄を切断した。
零士に察知されれば一巻の終わりであり、そうでなくても時間がかかりすぎる。
綾女は諦めていなかった。
「だから何だってんだ。
死にかけのテメェに負ける訳ねぇだろうが!」
零士は怒りに任せて拳を振りぬいた。
綾女はその拳を体を捻りながら避け、反動をつけた左ボディを零士の胴体に叩き込んだ。
零士の膝が落ちる。
零士はそこで初めて、自分の体から初戦のダメージが抜けきっていなかったことを悟った。
鬼のような形相で、綾女を振り払うかのように零士は蹴りを放つ。
綾女はほんの少し体を逸らしただけでそれを回避すると、そのまま体を逆回転させる。
二人の足が空にアーチを描く。
零士の肝臓部分に、綾女の逆回転蹴りが突き刺さった。
気が付いた時には、零士はその場に崩れ落ちていた。
零士は来るべき追撃に顔を防御するが、止めは来ない。
零士に止めを刺すどころか、綾女は焦点が定まらない虚ろな視線で後退り、そのまま尻餅をついてしまう。
彼女の体も限界に達していた。
何かがはじけるようなパチパチという音に零士はハッとして後ろを振り返った。
石油ランプから燃え広がった炎は二階にまで燃え広がっている。
零士は破壊された腹をかばいながら、窓から身を乗り出す。
「あばよ……」
痛みに呻きながら窓にぶら下がると、零士はその長身を利用して燃え盛る建物からあっさりと脱出してしまう。
綾女はもはや体を動かすこともできない。
煙の中で意識を失いつつある綾女の視界にぼんやりと映り込んだのは、一人の少女のシルエットであった。
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