第6話

 綾小路相談所に戻った二人は、しばらく雑談を重ねた。

 お互いに事件についての話は出さなかった。

 お嬢様と、お嬢様のようにふるまっているだけの女、身分が正反対だからこそ、お互いの話は未知の領域で興味深いものの様だった。

「幼虫以外で言うと、一番おいしいのはセミですわ。

 エビの味がしますのよ、食あたりも少ないですし」

「うぅ……、想像しちゃった。

 じゃあ、逆においしくない虫は……?」

「ムカデは最悪ですわね。

 あれを食うならゴキブリの方がましですわ」

「夢に出てきそうなんですけど!」

 他愛のない、しかし楽しい時間はあっという間に過ぎた。

「そろそろ寝ましょうか。

 明日はハードになりますわよ」

 綾女はベッドに花蓮を案内すると、自分は応接室に戻ろうと扉を開ける。

「綾女はどこで寝るの?」

「ソファで十分ですわ。慣れてますから」

 花蓮は吐息を漏らした、頬を染めて、ほんの少し声が裏返る。

「そのっ!一緒に、寝ませんか……」

「狭いですわよ?」

「一人だと、眠れそうになくて」

 言葉尻は消え入りそうな囁き声になっていた。

「甘えんぼさんですわね」

 微笑んで、綾女はベッドに滑り込んだ。

 震えて冷たい花蓮の手をそっと握ると、少しずつ震えは止まり、汗ばんだ2つの手になるまで綾女は花蓮の手を握っていた。


 花蓮が目覚めると、そこは知らない天井だった。

 どこか埃臭い、狭い部屋の中に花蓮は一人横たわっていた。

 暫くぼーっと周囲を見渡し、頭に血が回る。ここは綾小路相談所であることを思い出し、花蓮は綾女がいないことに気が付いた。

 花蓮が眠れるまで握っていてくれた手は、まだほのかに暖かい気がして、花蓮は何度かその手の開閉を繰り返した。

 その綾女は既に隣にいなかった。彼女を探して応接室に向かった花蓮は、ぱちぱちと目を瞬かせた。

 下着姿の綾女は、筋肉を盛り上がらせながらダンベルを左右交互に持ち上げていた。重量がいくらなのかは分からなかったが、少なくとも花蓮には動かすことすら難しそうな錘を綾女はゆっくりと動かす。

 四角形に近いような肩の筋肉、うっすらと浮き出た腹筋、彫刻のような背筋、幹のような足の筋肉、それら全てが、彼女が女の身で戦うために作り上げてきたものなのだろう。

 彼女の生きざまを思わせるような鋼鉄の肉体だった。

「……でも、服は着ようよ」

 綾女は花蓮の言葉に、少しの恥じらいを顔に浮かべた。

「あ、あら……おはようございます。

 汗で服がくっついて気持ち悪くって、はしたないのですけど、つい脱いでしまうというか」

「エレガントは?」

「……着ます」

 汗を拭き、しぶしぶ服を着た後に綾女は湯呑を2つ机に置いた。

「さて、朝食にしましょうか」

 二人の朝は、粉っぽい緑茶から始まる。


 綾女が放り投げるように投入した鮭と卵が、花蓮の胃袋を刺激した。

 こんな状況でもしっかりと食欲は残っていたようだ。

 あまり美味しくない緑茶は、花蓮の脳を覚ますのに十分な量のカフェインを脳に届ける。すっかり目がさえた花蓮は、もう一度相談所の中を見わたした。

 机の上に積まれた資料を除けば、散らかっている印象を抱く事務所の中には意外なほどに私物がない。

 結果的に、視線を引くのは「いつも心は高貴(エレガント!)」の扁額なのであった。

 綾女の事がもっと知りたいと花蓮は思った。

 珍妙な人物なようで理性的、豪胆な性格に見せているが気遣いを欠かさない。

 表面的な彼女よりも、実際の彼女は繊細で理知的な人間なのだろうなと花蓮は感じていた。

「どうぞ。今日はたくさん動きますから、たくさん食べなければ」

 朝食は、鮭と目玉焼きに雑穀、味噌汁といった塩気の強いものだったが、塩気が強く、運動の備えには適していた。

 塩気と穀物の甘みが口の中で混ざるのを感じながら、それを味噌汁で流し込む。

 普段は食べないようなメニューに花蓮は新鮮な面持ちでご飯をつまむ。

 その間にご飯を口に掻き込んだ綾女はご飯を食べ終えた。

「ごちそうさまでした」

 食事の作法などあってないようなものだ。そもそもちゃんと咀嚼している様子すらなかったが、きちんと咀嚼しているのか。

 呆気にとられながらも食事を続ける花蓮は、綾女がじっと自分を見つめていることに気が付いた。

「綾女?」

 花蓮の疑問符に綾女は我に返り、何やら恥ずかしそうに頬を染めた。

「あ……、いえ、食事姿が母に似ていたものですから……」

「綾女のお母さんってどんな人なの?」

 綾女は至って明るい口調で答える。

「それが、子供のころに亡くなっていてあまり覚えていないの」

「ごめんなさい、私……」

「気にしないで」

 同じやり取りを何度も経験しているのだろう、綾女は至って平静に食器を片付けに行った。

 花蓮はしばし箸を止める。

 綾女の見え隠れする、普段の陽気な彼女とは違った一面は花蓮の心を揺らす。

 彼女の心の内をいつか知ることができるだろうか。花蓮は、綾女のことをもっと知りたいという思いを食事とともに飲み込んだ。

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