第2話


「落ち着きましたか?」

 腫れた目を拭いながら、恥ずかしそうに花蓮は綾女の胸から顔を離した。

「綾女さん、服が……」

 花蓮の言葉に、綾女はあらっ、と声を漏らした。

 綾女の胸元は涙と鼻水ですっかり汚れてしまっている。

「気にしないでくださいな。

 それよりも、お茶とお菓子をお出ししますから、気を休めて頂戴な」

 柔和な笑みを浮かべて、奥に身を引っ込めた綾女に花蓮は見とれていた。

 その煌びやかな外見もさることながら、彼女の包容力に花蓮は不安を刈り取られてしまったかのようである。

 藤堂花蓮には物心ついた時から母親がいなかった。自宅にいるのは常に不機嫌で何かにいら立っている父親のみ。彼の怒りの受け皿になるだけの哀れな愛玩動物が花蓮だった。

 花蓮は父の事を思い出して身震いした。今頃彼は花蓮の不在に気が付き、自身の犯した殺人との関連性を見出しているに違いない。

綾女が胸を貸さなければ、花蓮が正気を保つことは難しかっただろう。

 青い顔で俯く花蓮の目前に、お茶と羊羹が載った皿が差し出された。

「どうぞ、ちょうど最後の一切れでしたの」

 最後の一切れ、という部分に何やら含みを感じたが、花蓮は素直に皿を手に取り、羊羹を一口食べる。粘度が高く、甘すぎる羊羹を熱いお茶で溶かして飲みこむと不思議と美味しい。町有数の富豪である花蓮が普段食べている品とは比べ物にならないほど粗雑な味だが、花蓮にはこれがとても美味なものに感じた。

「美味しい」

「そうでしょう、そうでしょう」

 花蓮は、そこで綾女の視線が自身に向けられていないことに気が付いた。

 綾女の視線は一心に羊羹に向けられている。

 先ほど、彼女が「最後の一切れ」を強調した理由に花蓮は気が付いてしまった。

 よだれを垂らしそうな勢いの綾女に、花蓮は羊羹の乗った小皿を差し出してみる。

「……綾女さんも食べます?」

「あら!食欲が湧かなかったかしら?

 では半分いただきますわね」

 花蓮の返事を待たず、羊羹一つまみして口に放り入れた。

「ん~!久しぶりの羊羹!やっぱり美味しいですわ!」

 もしかしてお金がないのだろうか。微妙な表情で花蓮が綾女を見つめていると、取り直すように綾女は咳払いをした。

「だいぶ顔色もよくなりましたわね」

「綾女さんのおかげです」

「年も近いですし、どうぞ綾女とお呼びくださいな」

 綾女は表情を引き締める。

「さて、本題に入りましょう。

 花蓮さん、貴方が何を目撃したのか……。詳しくお聞かせくださいな」

 花蓮は何かに備えるように瞳を閉じた後、首からそっとネックレスを外して、机の上に置く。

 痛みを湛えた瞳で、花蓮は事の顛末を語り始めた。


 その日、藤堂花蓮の父、藤堂隆夫は珍しく機嫌が良かった。

 普段は不機嫌が服を着ているような男が、朝から笑顔を見せている。

 使用人たちは、現在藤堂が出馬している市長選への工作が上手く行ったのだろうと噂している。

 普段は静まり返っている屋敷の空気が騒がしい中、花蓮の気分は今日も浮かなかった。

 彼女を目覚めさせたのは、体中から響く痛みである。

 彼女が父親から受けている日常的な暴力によってできた、体のあざが酷く痛む。

 この家は藤堂の箱庭の中で、彼女は家主のうっ憤を晴らすだけの人形でしかない。

 かつてはそうでなかった時期があったような気もするが、花蓮にはもはやはっきりと思い出せなくなっていた。

 今日も重い心を引きずりながら、花蓮は普段通りの一日を過ごすはずだった。

「花蓮」

 背後から放たれた父親の声に、花蓮の体は怯えたように跳ねた。

 そんな娘の様子を見ないふりをして、藤堂隆夫は娘に手招きする。

「大木が来ている、お前も挨拶しなさい」

「大木さんが……?かしこまりました、お父様」

 大木秀則は藤堂隆夫の幼馴染であり、現在隆夫が出馬している市長選のライバルでもあった。

 花蓮は、弾みそうな声を可能な限り平静に装いつつ、父の背中に追随する。

 隆夫は娘に対しても独占欲のようなものを覗かせることがある。以前、花蓮が大木の訪問を喜んでいる光景を目撃した隆夫は、大木が帰宅するや否や彼女を無理やり寝室まで連れ込んだことすらあった。

 それ以来、花蓮は隆夫の前では感情を押し殺している。

 この屋敷は、彼女にとって全ての自由を奪われた鳥かごだった。

 玄関ホールに向かうと、背の高い男が立っており、隆夫と花蓮に手を振っている。

「花蓮ちゃん!また一段と美しくなったな」

 男の名は大木秀則、旧華族の生まれであり、藤堂隆夫とは幼馴染であり、花蓮とも長い交流があった。

「大木さんも変わらずお元気の様で嬉しいです」

「……私はランチの準備をしてこよう、それまでは二人で話すと言い」

 にこやかに言葉を交わす二人から背を向けると、隆夫は早々にその場を立ち去った。

 大木は幼馴染の背中に探るような視線を向けていたものの、直ぐににこやかな表情に戻り、花蓮に向き直った。

「しかし、本当に綺麗になったね。今年で何歳になったんだい?」

「16です」

「花蓮ちゃんもそんな年かぁ、数年後には何してるんだろうな」

 普段には出せない、親しげな態度を見せていた花蓮の笑顔が陰った。

 「……私が決めることじゃないわ、私はお父様の道具よ」

 大木は複雑そうに表情を歪めた、彼も幼馴染の様子がおかしい事は薄々と勘づいている様子だったが、下手に口を出せばその責を負うのは花蓮であり、大木には不穏な事が起こっているらしい藤堂家に口出しすることは難しかった。

 「そう悲観的になるものじゃない。この前の新聞を見たか?

 今は職業婦人なるものも流行っているんだ」

 「私には務まらないわ」

 取り付く島もなく首を振る花蓮に、大木は小さな子供に諭すように語りかける。

 「君は学習性の無力に陥ってるだけさ、何をしても結局未来が同じだと思ってる。

 ……君は君が思ってるよりも強い子だ、昔からね」

 花蓮に大木は袋を手渡す。

 花蓮が中に入っていた箱を開けると、そこには証書とネックレスが入っていた。

 「プレゼントだ、君に似合うと思って。

 カットが小さい宝石なんで傷が付いちゃいけないから、証書に書いてある宝石店で長さは調節してもらってくれ。

 妻もそろそろ君と話したがっているんだ、それを付けてきてくれよ」

「大木さん……」

 直接的な救いの手を差し伸べられなくても、できうる限りの事をしようとしてくれる大木の心遣いが花蓮には嬉しかった。

 思わず涙を流しそうになり、花蓮は大木の背中越しに戻ってくる父を見かけ、それを飲み込んだ。

 今はまだ、この屋敷を抜け出すには花蓮は幼い。

「甘いジャムとパンケーキをたくさん用意していて下さい、約束ですよ?」

「もちろんさ」

 ウインクをして父親との話し合いに向かう姿が、花蓮と彼との最後の会話になった。


 大木が去った後、しばらく彼の背中を見つめていた花蓮は、自身の部屋に戻る様子もなくその場で物思いにふけっていた。

 大木の様子は明らかに普段とは違った。

 冗談も少なく、何かを思い詰めた様子があった。

 強いて言えば彼女の父親も普段と比べて様子がおかしいものではあったのだが、彼は常におかしいので花蓮はそのことを考慮から外す。

 胸騒ぎを花蓮はどうしても消すことができない。

 父は幼馴染かつ「対外的」には親友という事になっている大木の事を、実はあまり好いていないという事を花蓮は知っていた。

 大木の身に何かが起ころうとしているような気がしてならない。花蓮の中で、余計なことをして父の叱責を受ける事への恐怖と、大木への心配がせめぎ合う。

 花蓮は、無意識のうちに後者を選んでいた。

 何食わぬ顔で遠巻きに大木の背中を尾行しながら、今日は私もどうかしてるのかも、と花蓮は内心で苦笑いを浮かべた。


 藤堂家の応接室は、団体客が来た場合を考慮して大げさな長机に席がずらりと差し込まれているが、人望も友人も少ない隆夫を訪ねてくるのは大木ぐらいのもので、その立派な部屋の機能が十分に生かされたことは今までに一度もない。

 最奥に座る隆夫と、その左側に座る大木の姿はどこか滑稽な所があった。

 次々に運ばれてくる料理を片付けながら、男二人は相手の出方を伺っている。

他愛ない世間話をのらりくらりと続ける大木にしびれを切らした隆夫は、大木の世間話を遮ると、苛立たし気に話を切り出した。

「そんな話はもういい、本題に入れ」

「せっかちな男はモテないぜ」

「黙れ、今はお互いに敵同士のはずだ」

「市長選の事かい」

 隆夫は大木に睨みを利かせるが、大木はその視線を意に介さずに肩を竦める。

「分かったよ、君に付き合おう。

 できれば食事が終わってからにしたかったんだが」

 使用人が空になった皿を下げ、メインディッシュを二人の前に置く。最近は巷ではやり始めたというビーフステーキが鉄板の上で油を溶かし、ぱちぱちと弾いている。

 二人の間に油が跳ねる音だけが響く。

「隆夫、黒い連中とは手を切れ。

 今はいいかもしれないが、今後君の人生において彼らとのつながりは足かせにしかならない。賢い君なら分かっているはずだ」

 びくりと隆夫の眉が動く。

「言いがかりはよしてもらおうか」

「この数日間の不自然な表の動き、心変わりの原因をはぐらかす組織票を取り付けたはずの会社……。これだけでも、君がこの選挙で何らかの不正を働いていることは明らかだと思うが。

 そうでなければあれだけの票差が埋まるはずがない」

「誹謗中傷だぞ」

「証拠ならあるさ」

 大木は懐から一枚の写真を取り出した。

 町のはずれのさびれたカフェに、隆夫がヤクザの浜田組の幹部と入って行く様子が映し出されている。

 写真の撮影機器は容易に持ち運びできるようなものではない。

 機器のセットには時間がかかる、落ち合う場所が初めから割れていなければこの写真を撮ることはまず不可能だったはずだ。

 大木に隆夫の動向はすっかり握られている、隆夫はこの状況をそう判断した。

「素人の俺が部下に張り込ませてこの写真を撮れるぐらいなんだから、鼻がいい記者共には感づかれているだろう。

 手遅れになる前にヤクザとは縁を切れ」

「そうして今回の市長選の勝負をつけようってわけか」

「おい、意固地になるなよ。

 俺の発言がそういう意図でないことは分かってるだろう」

 尋常ではない眼が大木の事を射抜いていた。

 純粋なる憎しみ、その視線に大木は困惑を示す。

「そんなに勝ちたいならなぜ俺が出ている市長選に合わせて立候補したんだ。

 この街には大したうまみはない、俺の様に国政に興味があるわけでもないお前が、どうして急に立候補した?」

 隆夫はその問いに答える代わりに、問いを返す。

「秀則、お前は俺の事をどう思っている」

 大木は、時間を置かずにはっきりと答えた。

「俺は、お前の事をずっと友人だと思っているよ。当たり前だろ」

 沈黙がフロアを包んだ。

 鉄板は既に冷えており、肉の焦げた匂いと、血の匂いが漂っている。

「肉が冷えてしまったな、君、処分してくれ」

 扉近くで待機していた使用人が、大木に近づく。

 使用人は懐から銃を抜くと、大木の頭部を至近距離から撃ちぬいた。

 大木の顔が肉の上に倒れこみ、血の香りが肉の香りと混ざってむせ返る。

「俺がお前をどう思っていたか教えてやろうか?

 邪魔者だよ、大木。お前のせいで俺はいつも劣等生扱いだった。

 勉学でも運動でも、散々俺の事を邪魔しやがって」

 そう吐き捨てると、隆夫は遺体の処理について使用人に指示を始める。この顔は非常に晴れやかであり、それ故に、扉がわずかに開いていることも、自分の凶行が娘に目撃されたことも気が付かない。

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