LONELY・BAD・TRIP

渡貫真

file1「弾丸裁判」

第1話

「貴女は高貴なままでいてね。私みたいに、汚いものにならないでね……」

 病床に臥す母の言葉に、娘は首を傾げた。

 娘はまだ幼く、母の言葉の真意を正しく汲み取れない。ただ、高貴という言葉だけが、娘の耳に痛く残った。

 人が死ぬのには豪雪も猛暑もいらず、ただ少しの無関心があればよかった。

 この母親はとある富豪の妾で、ほんの少し前までは誰もが羨むような生活を送って来たのである。しかし、娘を孕み男女の生活が送れなくなると、男の情熱は瞬く間に冷めて行った。

 娘がある程度大きくなった時、既に妾として相手にされていなかった女はわずかな金を預けられて屋敷を追い出された。女はもう長い事屋敷暮らしだったことから、稼ぎの仕方どころか、節制の仕方も知らなかった。

 金はすぐに尽きる。

 女としての価値も、彼女が生活の為に働いていた遊郭で性病にかかったことにより無くなった。

 今では、性病で変形してしまった醜い容姿と、やせ細った娘一人のみが残るのみ。

「おかあさま?」

 娘は母親が良く漏らしていた苦痛の呻きが止んだことに気が付いた。

「ねむっちゃったみたい」

 母親の頭に乗った手ぬぐいを入れ替え、娘は母の次なる目覚めを待った。

 母親はとうに死んでいるというのに。

 母親の体からは膿がこぼれ、酷いにおいを放っていたから、娘には腐乱臭に気が付くすべもなく、ひたすら死体の世話を続けていた。

 母親の人生を狂わせた存在として、半ばいないもの説いて扱われていた娘が母に関心を向けてもらえる時間は、母の世話をしている瞬間だけだったのである。

 母親が死んだと気が付いた娘の処遇を周りの大人が話し合っている間、娘は静かに考えていた。

 高貴であり続ければ、母は自分の事を褒めてくれるだろうか。

 母は、もう苦しまなくてもいいのだろうかと。


「いつも心に高貴!」


 達筆で描かれた眼を引く掛け軸が部屋の中心に鎮座するその部屋には、ロココ調の机や家具が敷き詰められている。

 書類やら新聞紙やらが山の様に積まれた机の前面には、これまた達筆で「綾小路綾女」と書き入れられた机上札が備え付けられている。

 鼻歌交じりでティーポットを机にそっと置くと、部屋の主はほうっと一息をつく。

 両目に綺羅星が浮いていると錯覚してしまうほどの煌く瞳、綺麗に一直線に切りそろえられた艶やかな黒髪、目を引く高い背丈の持ち主が、この「綾小路相談所」の女店主である綾小路綾女であった。

 綾女はお茶を優雅に注ぐと、カップを鼻に近づけ一嗅ぎしてみる。

「……何も臭いませんわね、風邪かしら」

 呟いた綾女の顔はどこか白々しい。

 あくまでも不思議だという風体を装い、綾女はカップに唇を付けた。

「うげっ」

 高貴らしからぬ声が彼女の口から洩れ、綾女はバツが悪そうにカップを置く。

「ま、まるで味がしませんわ……!

 やはり3回以上同じ葉を使いまわすのには無理がありましたわね」

 綾小路綾女には、金がなかった。

 薄い色の紅茶を一気に飲み干し、綾女は新聞を広げる。

 綾小路相談所は所謂何でも屋である。喫茶店の二階を間借りしている小ぢんまりとした事務所には、店主のいかにも貴族趣味といった家具や小物が詰め込まれていた。

 新聞の文字を追っていく綾女の目は真剣そのもの、慣れた手つきで新聞紙をめくる。

 何でも屋の仕事には日々の情報収集が欠かせないのである。

『金こそ正義!?藤堂氏にヤクザの影』

『市長選を戦う八木氏と藤堂氏であるが、本誌の調査により二人が幼馴染であることが判明した。幼い頃から藤堂氏と八木氏は反目しあっており、この市長選を同タイミングで出馬したのも藤堂氏の個人的恨みが関係しているのではないかと本誌記者はにらんでおり……』

 綾女の目から真剣さが薄れてゆく。

「この雑誌、イエロージャーナリズムの極致と言えますわね。

 結構有用なのが腹立たしいですけど。

 早く本題に入っていただけないかしら……」

 味のしない紅茶を継ぎ足すと、綾女は本題らしきところまで記事を読み飛ばす。

『さて、予断はほどほどにして本題に入ろう』

 3ページ読み飛ばしても本題に入っていないことに綾女は眉間を抑えたくなった。

『本誌の記者は藤堂氏を尾行したのち、彼が何度もヤクザの構成員の一人と連絡を取り合っている現場を目撃している』

 下品な煽りタイトルに比べて素晴らしく優秀な記者に綾女は困惑を隠せない。綾女はこのゴシップ誌に調子を崩されっぱなしである。

 慣れた手つきでノートに情報を精査しつつ、紅茶を口に運ぶ。

 彼女が紅茶を口に付けたとき、勢いよく部屋の扉が開いた。

 綾女の目が大きく開かれ、カップの角度は急上昇。

「あっっつい!!口が焼けますわ!!誰か!!誰か消防団を!!」

 のたうち回る綾女を前に、扉を開けた人影は呆然と固まっていた。

「ちょ、ちょっとあなた!水!水汲んできてくださいまし!」

 彼女の勢いにすっかり飲まれ、まだのたうち回っている綾女をしり目にその人物は大慌てで水を汲みに行った。

「その、大丈夫……?」

 水を唇に当てながらちびちびと飲んでいた綾女は、ようやく気を落ち着かせる。

「えぇ、お騒がせしました。普段はこんなんじゃないんですのよ?」

 訪問者を認識し始めた綾女は、そこで首を傾げた。依頼人の頭の位置が普段やってくるような人物たちとは一回り小さくないだろうか。

 目線を少し下げ、綾女は初めて訪問者の姿を認知した。

 ふわりと膨らんだ琥珀色の髪、困り眉と目元のほくろが色気を演出する整った顔、低い身長に不釣り合いなスタイルは目を引く。

「これはまた……かわいらしい方が来ましたわね。何かお困りごとでも?」

 応接用のソファまで彼女を誘導しつつも、綾女は疑問をさらに深めた。彼女が来ている服は明らかに高価な品物である。彼女のような身なりの人物が、このような街の片隅に尋ねてくる動機は綾女に思い浮かばない。

 事務所の玄関に立てかけられた「open!」の掛札を「clause」と書き込まれた裏面へひっくり返し、綾女は訪問者の少女の対面に腰を沈めた。

「ゆっくりでいいからお話してくださいな」

 綾女の声に少女は頷いたものの、上手く第一声が出せないようだった。

 綾女は攻め手を切り替える。

「ちょっとせかし過ぎたかしら。

 私達、名前も知らないんですものね。まずは自己紹介から始めましょう。

 私は綾小路綾女、町の人たちは私を何でも屋なんて呼びますけど、私としては裏路地の天使だとかもっとエレガントな呼び名を推奨していますわ」

 少女がくすりと笑う。緊張はほぐれたようだった。

 綾女としては割と本気の発言なのだが、なぜかいつも冗談と受け取られてしまう。

 釈然としない気持ちを抱えながら、綾女は少女の言葉を待った。

「私は……、私は、藤堂花蓮です」

 つかえながらも名乗った少女の名前に綾女は動きを止めた。

「まさか」

 綾女の脳裏で先ほどまで捲ってたゴシップ誌の見出しが躍り出る。

 花蓮と名乗った少女もようやく腹を決めたようだった。

「ご存じの様ですね。

 ……私の父が、先ほど八木さんを殺害しました。

 どうか、お父様を止めて欲しいんです」

 綾女は、あごに手を当てて考えるそぶりを見せる。

「では、ここではなく警察に駆け込むべきだったのではないかしら」

「父は市長選を控えています!

 そうでなくても、汚職まみれで人も足りない警察を父が丸め込むのにそれほどの労力が必要だとは思いません!」

「警察をどうにかしてしまう相手に、わたくしのような一介の何でも屋がどうにかできると思いまして?」

 突き放すような物言いに、花蓮は遂に耐えられなくなったように、涙を目に浮かべ始めた。

「噂で聞きました。

 あなたが中国マフィアから子供を取り戻してくれたって。

 どうしようもない時、最後に相談するのはみんなここだって。

 だから、私が、ここでお父様を止めなきゃって……」

 ぼろぼろと、花蓮の頬を涙が伝った。

「お金なら、どうやっても工面します、どうか……お父様を止めてあげてください」

 かすれた声に綾女は頷くと、花蓮の隣に腰を下ろし、彼女をそっと抱きしめる。

「試すようなことをしてごめんなさいね。

 依頼を受けるという事は、命を懸けるという事ですから」

 花蓮の嗚咽が大きくなり、制御不能な感情が綾女の胸元で流れだす。

「あなたの高貴な決意を信じます。

 あなたは今から私の依頼人ですわ」

 花蓮が泣き止むまで、綾女は彼女に胸を貸していた。

 しかしその目は、事件に向けて思考の海へと投じられているのだった。

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