57.二人の姫君

 その日の夜、黎華リー・ファ黎静リー・ジンは二人きりで室に籠った。

 二人だけで話したいこともあるだろうと、尹馨イン・シンが気を使ってくれたゆえのことだ。


「……長かったね」

「そうね。本当に長いこと……兄さまを苦しめることになってごめんなさい」

「いいんだ。阿華が無事でいてくれれば俺は、何にも苦しいことなんてなかったよ」

「……嘘ばっかり。好きでもない人に身を任せて、挙句の果てに死にかけて。私がどれだけ後悔してきたかわかる?」

「それは……うん。知らなかったとはいえ、禁を犯してしまったのは本当に……俺たちは浅はかだったね」


 黎華はそう言いながら、妹の手を取った。

 綺麗に整えられてはいるが、弓術を極めたせいでその跡が残っている。決して女子おなごらしいとは言えないそれではあったが、柔らかさは昔から変わりはない。


「あの時、入れ替わらずにいたら、どうなってたんだろう。……どっちにしても花丹の生成は続けなくちゃならなかったし、ワン家やチャン家みたいな権力者の後ろ盾がなければ、水晶宮は成り立たなかったとは思う」

「少なくても、命を削る行為だけは無かったとは思うわ。歴代の巫覡がそうであったように、鍛錬を続ければ花丹自体は生み出すことはできたんだもの。てもやっぱり……私たちは浅はかだったわね」


 乳母を始め、仕えてくれる侍女は多かったが、彼らには導くものがいなかった。

 正しい道、正しい答え。それを知らぬ二人であったからこそ、幼いころに遊びの一環として入れ替わってしまったのだ。


「……でも、でもね。俺は……確かに苦しかったけど、自分が『黎華姫』で良かったよ。ここで姫であったからこそ、尹馨にも出会えたし……」

「ふふ、それは、そうね。……私も、遊歴がとても楽しかったわ。たくさんの女の子に好かれちゃったけど、あれはあれで気持ち良かったのよね」


 黎静は昔を懐かしむようにしてそう告げた。

 兄の代わりに各地を歩いたこと、様々な出会いと別れがあったこと、弓の大会に乱入したら優勝してしまったこと。斜陽山での蛇王との出会いや麓の村での交流などを、黎華に順を追って話して聞かせてくれたのだ。


「『女泣かせの雨桐ユートン』って、ちょっと噂にもなっちゃったわ。この技量を極めたつもりは無かったんだけど、どうしてそうなっちゃったのかしらね」

「……俺のあざな、ちゃんと使ってくれてたんだね」

「さすがに黎家の公子の名を広めるわけにはいかなかったでしょ。斜陽山に入ってからは、黎静を名乗ってたけど」

「阿華は、本当に良くやってくれたよ。だからこれからは、姫であっても自由でいて・・・・・


 黎華の言葉に、妹の黎静は僅かに瞠目した。

 そして直後に彼の言葉の真意を察して、緩く首を振る。


「兄さま。兄さまこそ今度こそ本当に……自由であるべきだわ」

「だけど俺は、天上の鸞様の加護もあるし、大丈夫だよ」

「そう、だからこそ……『黎華姫』は一人でいいし、霊峰を守り続けなくてもいいのよ」

「阿華?」

「……兄さま。私は今まで自由であった分、その恩を返さなくてはならないの。……何年経つのかしら、私がもう完璧な黎華姫としてここに座ってはいられないほど、『女泣かせの雨桐』が身に染みてしまったのよ」


 黎華は、僅かに嫌な予感を覚えた。

 何がとは見えないままだが、このまま妹の言葉を聞いてはならないような気がしたのだ。


「……阿華、待って」

「いいえ兄さま。兄さまは今更『黎静』として戻ったところで、きっと『雨桐』としてはやっていけないはずよ。兄さまに女を泣かせるだけの技量がある? 甘い囁きと、とろけるような口づけを相手にしてあげられる?」

「……っ」


 黎静はそう言いながら、兄をそっと押し倒して見せた。

 あっさりと組み敷いた兄を、どこかの『女』と見立てて言葉を並べる彼女は、兄から見ても男らしい。


「あ、あの……そういうのは、多分……出来ない、かな。男だったらまだ……騙せる自信があるけど」

「それは尹馨だけにしてあげてね。仮にもあなたは尹馨の妻なんだから」

「……ねぇ、阿華。……何を、しようとしてるの?」

「兄さま。兄さまはこのまま、『黎華姫』でいて。元からそういう気持ちでいてくれたみたいだし、大丈夫よね?」

「それは、勿論だけど、……ねぇ、なんだかすごく嫌な予感がするんだ」


 ――妹が妹ではない気がして。

 否、確かに目の前にいるのは妹である。それは間違いないのだが、彼女の考えていることを探り当ててしまうのは、とても恐ろしいことだと黎華も思ってしまうのだ。


「……ごめんなさい、兄さま。私ね……ずっと昔から、決めていたことがあるの。それに、もう沙鈴シァリンさまにも話してあるわ」

「!! っ、まさか……待って、それ以上は……」

「お願い聞いて。きっともう今しか打ち明けられない。……兄さま、私はこの霊峰の一部となるわ」

「阿華ッ!!」


 黎華は体を起こそうとした。

 だがそれはアッサリと止められ、体は金縛りにあったようにして動けない。

 妹が、何らかの術を発動させたのだ。


「……聞き入れられるとは思ってないの。沙鈴さまにだって反対された。だけどね、兄さま……こんな負の連鎖は、誰かがここで止めなくちゃ」

「だ、だからって、お前がそれを背負うなんて……ッ」

「お願いよ、兄さま。私はもう本当に……充分すぎるくらいの自由と生の喜びを味わった。それに、最後に好きな人も出来た。だから、兄さまや尹馨……それから好いた人のために、私は私なりの思いを成し遂げたいの」

「……嫌だ、だってせっかく、こうして会えたのに……!」

「うん、大丈夫。私はずっとここにいて……兄さまとは泉で会話出来るようになるでしょ?」

「阿華、……お前が、最終的に斜陽山に籠ってたのって……」


 視界が涙であっという間に埋もれた。

 覆せない妹の決意を、それでも受け入れられない黎華は、歯を食いしばるようにして束縛を解こうとする。

 そんな兄の足掻きを見て、黎静は浅く笑った。そしてその笑みは、困った色へと変わる。


「……そうよ。『黎華』へと戻るためじゃない……私が霊亀になるべく、沙鈴さまと交代するために、花丹を掻き集めてきたの」

「……っ、……」


 言い知れぬ怒りが込み上げてきた。

 妹の思い、それがあまりにも自分勝手でありながら、それでいてこの水晶宮の誰もを救う唯一の方法であることに、言葉を作ることができない。

 彼女は、今に至るまで――。

 ずっとこの思いを胸に抱いて過ごしてきたのか。

 後悔で苦しみ、秘かに泣いて、そうして過ごしてきたというのか。

 たった一人で、誰にも相談することもなく、兄のためにこの霊峰のためにと。


「阿華――玉芳ユイファン

「……ふふ、その名前あざな、もう呼ばれることもないと思っていたわ」


 それは、黎華――黎静だけが知っている、黎華あざなであった。

 父が考えてくれた、美しい名前だ。


「兄さま、私のために怒ってくれてありがとう。字を憶えててくれてありがとう。どうか沙鈴さまを、よろしくね」

「……いつ、実行するの?」

「明朝よ。長引いて皆に引き留められたら面倒だもの」

「だったら、この術を解いて。お前に……渡したいものがあるんだ」


 兄がそう言えば、妹は『いいわよ』と言って束縛の術を解いてくれた。

 そうして黎華は、天上から持ち帰った銀の古樹のかんざしを、妹へと差し出して見せる。


「……綺麗」

「母上の魂だよ、玉芳」

「そう……、ありがとう」


 母のかたち

 それをすぐに理解できた彼女は、銀色の簪を受け取って静かに涙した。

 こんな反応ができるのも、全ての覚悟がしっかりと決まっているからなのだろう。

 そうして、その意志はもう何者にですら、壊すことが出来ない。


「……お前は俺の誇りだよ、『女泣かせの雨桐』。兄の俺ですら、こうして泣かせるんだから……」

「兄さま、ごめんね。ありがとう。……私はこれでようやく、自分の荷が下せるわ」

「馬鹿……そんな風に言われたら、俺は何も返せないじゃないか……本当に、ほんとに……馬鹿で愛おしい……俺だけの阿華……」

「うん、ありがとう……これからもずっと大好きよ、阿静」


 二人の姫はそう言いあいながら、静かに抱き合った。

 止められない涙はそのままに、おそらくはこれで最後となってしまう二人きりの時間を惜しむようにして、互いを抱きしめ続けていた。

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